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 足元に散らばった大量のゴミと酷い臭気に耐えつつ、銃を構えて慎重に階段を登っていく。
 本当に人の住む所なのかと疑いながら周囲に注意を向けるのだが、時折ドアをうっすら開けてこちらの様子を伺う姿が窺えた。中には子供らしきものまである。俺にしてみればまるで廃墟のような所だけれど、彼らにとっては立派な住居なのだろう。いや、そうせざるを得ないだけなのか。
 ようやく辿り着いた最上階。そこはこれまでの階と違って、廊下にはゴミ一つ落ちていなかった。明らかに何者かによって頻繁に清掃されている様子である。
 清掃する理由として、自分の生活に関わりの無い場所で行う事はまず有り得ない。逃亡中のロボットならば尚更だ。
 さて、スカーレットはどこに行ったのか。
 廊下の様子から察するに、スカーレットと所有者はこの階のどこかに居ると断定して問題は無いだろう。俺が昇って来た正面口とレックスが昇って来た非常階段以外に経路でも無い限り判断に間違いは無い。
 慎重に銃を構えながら、階段から廊下へ身を乗り出す。非常口の方には既にレックスの姿があり、互いの様子を視線で確認し合う。どうやら無事に辿り着けたようだ。
 廊下にはそれぞれ部屋のドアが五つ。俺の正面側に三つと左右にそれぞれ一つずつだ。おそらくこれらのどこかに居るのだろうが、一つ一つを念入りに調べて回る訳にもいかない。一発で特定出来るのであれば問題は無いのだが、そうでなければ犯人達に逃亡するチャンスを与えてしまう事になる。俺とレックスで一度に調べられる部屋は二つ、確率としては五分の二だが、賭けに出るほどの勝率ではない。ここで逃がしてしまった場合、今後は更に警戒した行動を取ると考えられるため逮捕するのは非常に難しくなる。そのため、どうしてもこの場で確保しておきたい。
 やはり増援を要請した方が良いだろうか。スラム一帯に包囲網を敷けば、ここで逃げられても捕まえる事は出来る。しかし、幾らなんでもそこまでしてしまったら事が大きくなってしまう。特にスラムは外部の人間に対して非常に敏感だ。必ず予想外の事態に陥るだろう。
 不意にレックスが俺の方に指で何かを指し示してきた。その先を見ると、廊下の床に点々と水滴のようなものが落ちているのが確認できた。そういえば、スカーレットの膝からは俺の撃った銃弾によって加圧剤が漏れている。つまりこの水滴はその漏れ出た水滴なのだろう。これまでの階のようにゴミが鬱蒼としていれば気付かなかっただろうが、このように清掃が行き届いているのであれば足取りも一目瞭然である。
 水滴は丁度俺の真正面のドアへ続いている。スカーレットはここへ逃げ込んだようだ。
 それをレックスと視線で確認し、突入の意思表示をする。弾倉の中を確かめると、指を三本伸ばして見せた。それをゆっくりと一本ずつ折り曲げてカウントを始める。そして最後の指を折り曲げた瞬間、俺はその場から飛び出していった。
 まずはドアノブを確認する。すると鍵はかかっていないらしく、ドアはあっさりと開いてしまった。罠の可能性も考えたが、スカーレットが消えてからさほど時間も経過していない事もあり、そのまま銃口から順に室内へ踏み入った。
 その部屋は、リビングにダイニング、廊下を挟んでバスルームと寝室が並ぶ、アパートとしてはごく一般的な間取りだった。けれど、整然とした廊下とは打って変わりありとあらゆる場所に大小様々なキャンバスが散乱している。描かれているのは風景画ばかりで、時折風景の一部として人間が描かれている程度だ。しかもキャンバスには皆厚い埃が覆い被さっている。こんな状態で随分と長い間放置されているようだ。
「隊長、これは……」
 まるで生活感の無いリビングに、レックスが不安げな口調を漏らした。ここまで埃が積もっていては、主犯どころかスカーレットすらいないのではないだろうか。俺も確かにそんな予感が頭を過ぎったが、まだ部屋を全て調べきった訳ではない。それに、かつて逃亡を続けていた犯罪者達には、四半世紀以上を屋根裏や床の下、中には壁の中で過ごした例もある。見た目の印象だけで即決してはならない。
 リビングには古ぼけたキャビネットが一つあるだけで、他に家具や家電は何一つ置いていなかった。カーテンや照明といったあって当たり前のものすら無いせいか、やけにリビングが広く印象に残る。そしてそのほとんどを埋め尽くすキャンバス達が、実数よりも遥かに多く思えた。
 ダイニング、隣接するキッチンもほとんど同じような状況である。唯一、冷蔵庫があったものの電気が止められているせいか稼動はしておらず、冷蔵庫の中に入っていたのは温くなったコーラの缶が一つだけだった。水は辛うじて止められてはいなかったものの、シンクの乾き具合から察するにキッチンそのものが使用されていないようである。
 とても人が生活しているとは思えない様相だが、逆にこれは警察を欺くためのカモフラージュかもしれない。潜伏していた場所を万が一に突き止められたとしても、この部屋のどこかに隠れていれば、既に逃げられてしまったと思わせてやり過ごす事が出来る。
 次は寝室だ。
 念のため銃は抜いたまま、銃口から順に室内へ入っていった。普通に考えて、わざわざ逃げ場のない奥まった部屋に隠れるはずはない。仮に隠れたとしても、探すこと自体はそれほどの手間にはならないだろう。最悪、応援を呼んだ上で逃げられぬよう部屋の中を見張っていればいいのだから。
 個人的にはあまり埃の多い部屋に長居はしたくなかった。幼い頃に喘息を患っていたため、埃や砂は苦手なのである。だから、犯人の方から素直に投降してくれれば非常に有り難い。もっとも、そんな都合の良い事なんて起こり得るはずはないのだけれど。
 あれは……?
 しかし、そんな俺の予想に反して、寝室には一人の人間の姿があった。部屋の一番奥にある出窓のすぐ側、そこに安楽椅子に座る人間の姿があったのだ。
「動くな、カオスだ」
 すかさず銃を向けて威嚇する。しかしその人物は返事をするどころか、こちらを振り向こうとすらしなかった。確かにこちらへ背を向けていれば銃にも気付かないかもしれないが、それ以前にこうも無反応なのは何故だろうか。どんなに度胸の据わった人間だとしても、普通は少なくとも一瞥程度はする。
 ひとまずレックスに警戒をさせておき、部屋を見渡した。
 この部屋にもキャンバスが散乱していた。しかし、絵のモチーフがこれまでの部屋にあったものとは遠目からも分かるほど明らかに違っていた。
 キャンバスに描かれていたのは、ベッドの上でポーズを取りながら様々な表情を向けている裸の女性。その後ろ髪は、まるで燃えるように赤い。
 絵のモデルになっている女性はスカーレットなのだろうか?
 芸術には詳しくないものの、古今東西の有名な画家はよく裸婦像描いているし、人間の裸は絵の技術を上達させるに最適だと聞く。しかし、スカーレットは女性とはいえロボットだ。どこまで本物の体を再現しているかまでは分からないが、戦闘型ロボットが人間の目を欺くほど精巧に作り込まれているとは到底思えない。
 とにかく、これは犯人の個人的な趣味なのだろう。深く考える必要は無い。そう、今大事なのは。
 俺は視線を安楽椅子の方へ向ける。未だ犯人らしいその人物はこちらに対して何の反応も見せず、依然窓を向きながら佇んだままである。
 何かがおかしい。
 ふと俺は銃を向ける自分に違和感を覚えた。何故か。それはこの空気だ。これまで幾つもの修羅場を経験しているからこそ直感的に分かるのだ。ここの空気は、カオスの現場ではないと。
 しかし。
「その人に触らないで!」
 突然の声に、俺達は振り返り銃を構えた。
 そこに立っていたのはスカーレットだった。真っ赤な髪を振り乱し、ドアの枠を左手で掴みながら体を支えている。スカーレットの左膝は負傷しながらも逃走で酷使し続けたせいで出力がままならない様子である。どうやら足だけで自分の体を支える事は出来ないようだ。
「やはりこいつが所有者か。おとなしく投降してもらおう。抵抗しない分には危害を加えない」
 しかし銃口の狙いはスカーレットの顔面へ定める。安楽椅子の人物はこちらの動きに対して全く動きを見せないため、今はスカーレットに注意する必要がある。既にスカーレットの様子は負傷のためどこか余裕を感じられない。こういう心理状態の時はロボットも危険なのだ。ロボットが人間へ攻撃性を示す場合は、エモーションシステムのために非常に推測がし易いのである。
「その人をどうするつもりなの!?」
「それは所轄の仕事だから何とも言えないだろうが、お前が犯してきたこれまでの事件の罪は問われるだろう」
 スカーレットは明らかに安楽椅子の人物に対して執着心を見せている。やはり首謀者はこの人間と見て間違いない。
「そいつを立たせろ。連行する」
 そうレックスへ指示を出す。レックスは多少緊張の色が伺えるものの、こっくり頷き安楽椅子の反対側へと向かった。
 まるで人質に取っているみたいだ。そんな事を不意に思いついてしまった。確かにフェアなやり方ではないが、基本的に治安機構へ属する人間の仕事は結果主義だ。どんな手を使おうと、結果さえ良ければ問題にはならないのである。
「た、隊長!」
 その時、レックスが突然震える声で俺を呼んだ。
「どうした?」
「し、死んでる……」
 明らかな動揺を見せ、レックスは安楽椅子ごと回してこちらを向かせる。
 これは……。
 俺は思わず息を飲んだ。安楽椅子に座っていたのは白骨化を始めた、男性らしき死体だった。現場で動揺する訳にはいかない、という使命感により溢れ出そうな感情は抑える事が出来た。けれど状況を論理的に推測し判断しようとする力は大きく失われた。
「どういう事だ、これは」
「彼は病気なのよ!」
「病気? それで薬の強盗を繰り返していたのか。だが、とっくに手遅れだ。死んでから随分経っている」
 スカーレットは死の概念を理解出来ていないのだろうか。そんな仮説を立てたものの、すぐに否定した。エモーションシステムを搭載したロボットには必ず死の概念を入力する事が義務付けられている。死の概念は日常生活のあらゆる場面に深く根付いており、一つの基準とする事で物事の判断を円滑にする。それ以前に、人間に対する攻撃性の抑制の意味合いが強いのだが。
 スカーレットは怒りを露にするものの口は閉ざした。その反応を、スカーレットは死の概念を理解しているものと判断する。では、何故こんな不条理な行動を犯したのだろうか。スカーレットの行動原理を理解しなければ、次に取るであろう行動は予測が出来ない。
「彼が病気と知っていたなら、どうして医者へ連れて行かなかったんだ? ただ薬を飲ませるよりも医者に診せた方が確実に治せるだろう」
「……そんなお金があるなら、初めからこんな所へ住んだりはしないわ。あなたには理解出来ないでしょうね。食べる物すらままならない暮らしなんて」
「確かにこの国の保険制度は行き届いていないから、そういう事もあるだろう。だが、今はそれを論ずる必要は無い。おとなしく投降するか、強制連行されるか、選べ」
「私には彼が全てなの! 行き場も無い、生まれた意味すら与えられなかった私を必要としてくれたのは彼だけだった! でも彼は病気なのよ! 治すためには薬が必要なの!」
「君の製造過程には同情しよう。彼が病死して辛いという事も理解に努める。だが、君の犯行のために死んでいった人間にも家族はいる。だから、見逃す訳にはいかない」
「あなたは私から彼を奪い取ると言うの!?」
「彼じゃない。これは死体だ。魂が無ければ物と同じだ」
「死体じゃないわ! 絶対に、彼は渡さない!」
 スカーレットが枠から手を離し、ゆらりと構え前傾姿勢を取る。すぐさま銃口でその後を追う。しかし、その次の瞬間には既にスカーレットは飛び出していた。
 反射的に引き金を引く。狙いは姿勢上スカーレットの頭部へ自然に定まる。だが、スカーレットは銃声に反応して体をくるりと捻り弾丸を回避した。
 一連の動作がゆっくり進む。そう自分が認識している事を感じた。それはつまり、この事態に焦りを感じているからだ。
 真っ直ぐ突き出される手刀。その鋭い指先を銃身で受け止める。全身に走った衝撃に両足が床から離れる。そのまま背中から壁へ叩きつけられた。
 遅れて広がった打ち身の痛さに奥歯を食いしばり、自分が置かれた状況を確認する。体は木造の壁に背中からめり込んでいるせいですぐに出る事は出来ない。その上、スカーレットの攻撃を受け止めた銃は中程から拉げていて使い物になりそうにない。
 するとスカーレットは視線をレックスへ移した。
 レックスは今の出来事に呆然とし銃すら構えていない。あまりに無防備過ぎる姿だ。
「レックス! 撃て!」
 すかさず踏み出すスカーレット。その動作に迷いは無く、明らかにレックスを殺そうとしている。スカーレットは戦闘型ロボット、人間を殺す事はさほど難しくは無い。
 レックスは恐怖に歪んだ表情で、しかし全身を震えさせながらも銃を構えた。普段、呼吸するよりも自然に構えられる銃が恐ろしく重いもののようにぎこちない。引き金を引く方か、スカーレットの手刀が先か、非常に際どいタイミングだった。
 そして。
「うあああああっ!」
 雄叫びと共に連続する銃声。
 スカーレットの手刀がレックスを貫く寸前で引き金が僅かに早く引かれた。撃ち出された弾丸はスカーレットの胸から腹にかけてを嘗め尽くすように貫通する。途端に動きを止めたスカーレットは、あ、と一言呟き、おそるおそる自らの腹を見、ゆっくりと床へ膝を付いた。カチンカチン、と弾丸を撃ちつくした銃からハンマーが空を切る音が続く。レックスは未だ恐怖に引きつりながらそんなスカーレットを目で追う。
 膝を付いたスカーレットは顔を挙げ、視線を向ける先には物言わぬ亡骸が安楽椅子に座っている。そこへ這いずり、亡骸を膝から掻き抱く。
「愛して……いるわ」
 そして、その言葉を最後にスカーレットは機能を停止した。
 レックスは床にへたり込んだ。銃は未だ硬く握り締め、茫然自失とした表情を浮かべている。
 なんにせよ、一件落着といった所か。そう俺は小さく溜息をつき、体に力を込めて壁から這い出る。そんな俺にレックスは虚ろな視線を向けた。酷く混乱している様子だった。あのお喋りなレックスがこれほど長く黙っているのを見たのは、おそらく射撃以外では初めてだ。
「隊長、どうしてこんなに後味が悪いんでしょうか……?」
「直に慣れる」
 けれど、その言葉には自分でもはっきり分かるほど説得力が無かった。それは何より、俺自身が後味の悪さを感じているからである。