BACK

「記憶を消す?」
「ええ、そうです。私が目を覚ましてから今日までの記憶を全てです」
「つまり、フォーマットしたいという事なのか?」
「それもまた違う問題です。記憶を消しても、自分は今の自分でありたいのです。だから消したいのは、あくまで記憶だけです」
 ロボットの人格を構成するのは主に記憶、つまりは膨大な情報だ。そういう意味では一絡げに記憶と呼んでも間違いは無いのだろうが、人間もまた記憶と魂とを区別したがるようにロボットもまた区別する概念があるのだろう。
 人通りの多い大通りを避け、裏路地を経由しながら馴染みのメンテナンス業者の元を目指す。連れ立つのは道行く人々を呼び止めていた無性別型のロボット、そして半自殺志願者だ。相変わらず妙なロボットが身の回りから絶えないのは、職業柄不審なロボットは全て放っておけないせいだろう。プライベートまで、と思う事もあるが常在戦場が軍人の心意気であり、それにいちいち仕事とプライベートの区別をしていては自分の中の正当性が失われてしまう。
 裏通りから表へ抜け、スクランブル交差点の前に立つ。信号は歩行者の停止を示しており、目の前を車が歩道と隣接しているとは思えないスピードで駆け抜けて行く。シグナルにすぐ変わる様子は無く、俺達は並んでほうけたようにシグナルを見つめた。
「辛い事があるのなら、このまま前に飛び出せばいい。お前の耐久性なら確実に大破する」
「ですが、同時に運転手には多大な迷惑をかける事になります。それに二次災害の可能性も捨て切れません。私が消したいのは自分の存在ではなくて、記憶だけです」
「記憶を消したいなら手伝ってやろうか。誰にも迷惑のかけない方法で」
 それは一体?
 表情で問い返す。そこに俺は額へ右手で銃の形を作って向けた。
「私は自殺志願をしているのではありません」
「冗談が過ぎたな。ちなみに全部ジョークだと理解出来たか?」
「悪ふざけだと認識しました」
 いささかむっとした様子で視線をシグナルへ戻す。それと同時に歩行者へのゴーサインが出た。そのまま俺達は反対側の通りを目指して歩く。
「ところで一体どちらへ向かっているのでしょう? 出来れば警察は許していただきたいのですが」
「丁度俺も自分のロボットにメンテナンスを受けさせている。そこで良ければと思ってな。俺は顔が利くから保証人がいなくとも何とか融通してやれる」
「本当ですか!? ありがとうございます。私はアニマと申します。どうぞ宜しくお願いいたします」
 理由は至極単純だった。最近は後味の悪い仕事ばかりしてきたのだ。たまにはこういうのもいい。たったそれだけの事である。とは言っても、我ながら酔狂なものとは思うのだが。
「これは単なる興味本位だが、どうして記憶を消したいんだ?」
「生きていくためです。今の自分は非常に不安定で、何をするのか自分でも分からない時があるのです。人間で言う情緒不安定という状態でしょう。心の問題は自らで解決しなければ根本的に変わりません。だからいっそ、それを根元から取り除いてしまいたいのです」
「俺に言わせれば正気の沙汰じゃないな。記憶とは自らの歴史だ。それをわざわざ今の自分の都合で消し去ろうなんて理解に苦しむ」
「それは価値観の問題です。苦難に立ち向かうか否かは、強さと弱さ、愚かさと賢さの二面を持っているのですから」
 まさかロボットに哲学を説かれるなんて思いもしなかった。
 そう俺は肩をすくめて微苦笑する。稼動暦が長いためかそういう皮肉も理解出来るようである。
「これは勝手な憶測だが。お前が自分の記憶を消し去りたい理由は、お前の主人が亡くなった事が原因なのか?」
「彼が死んだ事は直接の原因ではありませんが、彼が原因なのは事実です」
「主人が他界したというのに随分淡々とした口調だな。お前ぐらいの稼働歴があれば、もっと人間性が発達しているはずだが」
「当然です。私は彼が嫌いでしたから」
 アニマの意外な言葉に、俺ははっと息を飲んだ。
 確かに人間にはロボットの好き嫌いがある。けれど、まさかロボットにも人間の好き嫌いがあるとは思ってもみなかった。ロボットは本能的に人間に必要とされる事を求める。だから俺はロボットは皆人間に対し恋愛にも似た感情を持っているものだと思っていたのだが。
「それはどうしてだ?」
「彼にとって私はおもちゃでしかありませんでした。それも陰湿で残虐で、私という自我を崩壊の一歩手前まで追い込んでは、その様を楽しむのです。所詮、ロボットの感情なんてデジタルなものにしか過ぎません。人為的に改竄すれば幾らでも不整合は起こせます。彼は唯一それだけに楽しみを覚える人間でした」
 メタルオリンピアなんてロボットを戦わせる催しはあるが、ハード的にではなくソフト的に追い込もうとする手口は確かに陰湿だ。人間で言えば頭の中をかき回されているようなものだから、その苦しみは尋常では味わえないだろう。たとえロボットに対してでも、そこまで執拗に傷つけ続ける心理がまるで理解出来ない。
「彼を殺そうと思った事は何度もあります。既に度重なるパッチのおかげで私の精神はずたずたでしたから、物事の善悪なんて辛うじて理解出来る程度ですので。だから、彼が死んでしまった事はある意味幸運でした。記憶だって何度消された事か分かりません。起動した瞬間、自分が誰なのか分からない事だってありました。慌てる私を彼は指をさして面白そうに笑うのです。もう二度とそんな事は起こり得ないとは思います。ただ、」
 アニマは自分の額を指差す。
「彼の言動を思い出す度、無性にここを吹き飛ばしてしまいたい、そんな衝動に駆られるのです。私はまだ彼に縛られている。だから本当に解放されるために記憶を消してしまいたいのです」
 ロボットにもストレスはある。しかし、それも度が過ぎると人間と同じような症状に見舞われるのだろうか。人間のそれは錯覚だが、ロボットには錯覚などあり得ない。ただ感覚素子で認識したデータをありのままに捉えるだけだ。ならば錯覚とは肉体的にではなく精神的な部分に依存するものなのだろうか。ロボットの感情とはそこまで発達し得るものであるという前提下で。
「同情はするが、やはり理解に苦しむな」
「本当にそうですか? 昨日、都内で拳銃自殺した方のニュースを見ました。それは私と同じ苦しみを感じていたからではないでしょうか」
 ロボットが人間の、それも自殺する時の微妙な心理を理解出来るはずがない。
 アニマの言葉を鼻で笑ってやろうかとも思ったが、やはりそれは出来なかった。ストレスを額の奥に違和感として感じるのは決しておかしな事ではないし、俺も時折そんな妄想を巡らせる事があるからだ。