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「ったく……」
 ハンドルを握り自宅へと向かう俺は、もう何度舌打ちをしたのか覚えていなかった。
 後部座席ではレックスが横たわり、時折妙な声をあげては寝返りを打っている。上下関係には特に厳しい社会であるはずの軍隊において、上官に車を運転させておきながら自分は後部座席で眠りこけるなど、時代が時代なら銃殺されてもおかしくはない凶行だ。俺がまだ新兵だった頃も先輩に連れられて酒を飲みに行った時も、うっかり先輩のグラスを涸らそうものならすぐに拳が飛んできたものだが。時代変われば、とは言うものの、随分と良い時代になったものである。
「夕霧か? あと五分ほどで着く。エントランスの前で待っていろ。そうだ、建物の外だ」
 携帯で夕霧に連絡を取り、ギアを一段上げてアクセルを踏む。突然の加速にレックスはシートから転げ落ちたものの、夢うつつの意識で再びシートへ戻り眠り始める。そこで更にもう一つ、俺は舌打ちした。
 今日はカオスの新人歓迎会だった。レックスが入って以来、実に三年ぶりになる新人だ。実働部隊ではなく経理の担当だが、カオスに配属された新人とあっては物珍しさも手伝い歓迎会は盛大に開かれた。幹事は新人以外での一番の下っ端、つまりはレックスが務めた。店の手配やら会の進行は特に問題は無かったのだが、ただあまりにはしゃぎ過ぎたせいか、レックスは電車通勤のくせに自分で立って歩けなくなるほど深酒をしてしまったのである。こればかりは予想外の事態だった。これまでレックスは飲むことはあってもここまで酔ってしまう事はなかったのである。しかも、レックスの住んでいる場所を知っている者はおらず、誰一人として送り届けられる者がいない。それで仕方なく俺が、今夜の所はひとまず自宅へ連れて帰る事にしたのだ。
 いちいちこういう事を根に持っていびるのは自分の性質ではない。しかし、このやり切れない複雑な気持ちを晴らしたいのも事実だ。そういえば、来週はゴム弾を使った実戦形式の紅白戦があった。リーダー権限で自分とレックスを別のチームに分け、徹底的にレックスへ集中砲火を浴びせるような作戦でも立ててやろうか。これなら比較的さりげない腹癒せが出来るというものだ。
 そんな愉快な想像をしながら、程無くして自宅アパートへ辿り着いた。車をいつものように駐車場へ止めると、未だ自分の足で立つ事を渋り眠ろうとするレックスを車から蹴り出し、上着の襟首を掴んでアパートに向かい引き摺った。アパートのエントランス前には電話で言った通り夕霧が物静かに佇んでいた。しかしこちらの姿を見るなり、僅かに首を傾げてこちらへ歩み寄ってきた。
「御主人様、こちらの方は?」
「俺の部下でレックスという。飲み過ぎで潰れてしまったが、誰も送り届けられないから仕方なく連れてきた。運ぶのを手伝ってくれ」
 夕霧と協力しながら、酒臭いいびきをかくレックスを引き摺るようにして部屋まで運んでいく。時折、寝言のような事を口走っては体を捻ったり落ち着きが無い。酔っ払いの世話ほど空しいものは無いと、昔新聞のコラムで読んだが、確かにその通りだ。ここまでこっちが尽力した所で、どうせこいつは目を覚ましても一切覚えてはいないのだから。
 ようやく部屋に辿り着くと、レックスはとりあえずリビングのソファーへ転がしておいた。すかさず夕霧が毛布をかけようとするものの、やめさせて俺の着替えの用意を指示した。そしてシャワーを浴び僅かに残っていた酒を完全に抜くと、夕霧に酒の準備をさせ、いつものようにウィスキーを飲み始める。グラスでゆっくり二杯空けたが、それでもレックスは相変わらずソファーで寝転がったまま起きようとしない。寝返りを打ち寝言を漏らす回数は若干増えたように思う。眠りが浅くなっているのだろうが、ここがどこで自分がどうやって連れられて来たのかを考えれば、浅いも深いもあったものではない。
「夕霧、レモンはあるか?」
「はい。ただいまお持ちいたします」
 水割りの中へ皮を剥いたレモンスライスを浮かべてじっくりとグラスを回しながら浸す。皮を剥かせているのは、個人的に果物の皮は不潔なイメージがあって気に掛かってしまうからだ。昆虫や爬虫類に苦手意識がある訳ではないが、昔から口にするものに対してはどうしても神経質になりがちである。そのせいで海軍時代は実戦演習で苦労したものだ。野戦キャンプの食事なんて、一食たりとも楽しめた事は無かった。
 そういえば、うちにアイダ以外の人間を連れて来るのは何年ぶりの事だろうか。
 俺は、静かな場所に住みたいから、というもっともな理由を付けてはいるが、本当は人間との付き合いが苦手なだけである。特に最近はそれを実感する事が多い。この先の人生で人間と接触せずに暮らせるならばそれを理想型とすら思い、現実的なプランをあれこれ考える。当然、あまりまともとは呼べない思考だ。単なるコミニュケーション能力の欠如ではなく、人間の持つ文化性の放棄である。社会という防衛本能を失った人間はそう容易くは生きていけない。言うなれば、孤独に徹するのは緩やかな自殺だ。
 そう思う一方で、アイダを求める自分がいる事も確かだ。正直な話、アイダと付き合い始めたのはどこか済し崩し的で、好きなのかどうかも良く分からないまま事実だけが出来てしまった。今は気持ちが伴っているものの、アイダに押し切られたような感覚は否めない。アイダは俺とは何もかもが正反対の人間で、これまで何度も仕事のやり方で反目して来た。けれど、一度たりとも互いを不快に思った事は無い。それだけカオスに対する仕事の姿勢が真剣だから熱が入りがちなのだろうが、穿った見方をすれば単に俺がそう思うようアイダにうまく操縦されているのかもしれない。
「あいてっ!」
 突然、騒がしい音と共にレックスが盛大にソファーから転げ落ちた。
「あれ……? どこだ、ここ?」
「ようやく起きたか。ここは俺のうちだ」
「え、隊長の? あ、ああ、いやあ……」
 ばつの悪そうに苦笑いを浮かべるレックス。とりあえず、状況を理解した上で申し訳ないという感情はあるようだ。
「レックス様」
「はいっ?」
 苦笑いを浮かべるレックスに対し、夕霧が普段の調子で物静かにトレイを差し出した。
「お薬をどうぞ。アレルギーはございませんか?」
「ああ、はい。どうも……」
 レックスはぎくしゃくしながらもトレイから薬をつまんで口へ放り込み、そのまま同じトレイにあったコップの水で飲み下した。
「あの、隊長。ところでこちらの方は?」
「申し遅れました。私は夕霧とお呼び捨て下さい」
「はあ、夕霧さん……って、誰ですか! 隊長は局長と付き合ってるんじゃ!? 何で!? 同棲!?」
「レックス、お前もしかしてカトリックか?」
「そうじゃなくて! 局長と二股かけてるんですか!? そんなの絶対駄目ですって! 局長を裏切るんですか!? 姦淫の罪は刺青って相場が決まってますよ! カオスのリーダーがそんなの入れられてちゃ洒落になりませんって!」
「レックス、落ち着け。どこの宗教の罰則かは知らないが、夕霧はロボットだ。俺の身の回りの世話をさせている。アイダも知っている事だ。何か問題はあるか?」
「え? ロボット……?」
「はい。私は給仕用のロボットです。機能拡張モジュールによって家事全般を務めさせて戴いております」
 不自然なほど物静かな夕霧の調子に圧倒されたのか、レックスは弱々しく頷きながら小さく頭を掻いた。
 やはりまだ酒は残っているようである。おかげで普段にもまして反応が大げさで耳喧しい。