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 一体、何なんだこれは……!
 思わぬ形で対面してしまった、人間のアルジュベタ=マータ。この状況に、俺だけでなく隊員一同が少なからず動揺を覚えてしまったのを感じた。
 どういった理屈でサイボーグ化を試みたかは知らないが、少なくともそれが達成されたという事は人間の肉体は元の形を保っていないと考えた。それがこうしてここに残っているという事は、一体今俺は誰と話をしているのだ。
「これはどういう事だ? お前は自分をサイボーグ化したはずだ。なのに本人がそこにいるという事は、お前は一体何者だ」
 ロボットのアルジュベタ=マータは、さも俺の困惑は当然だと言わんばかりに悠然と微笑んだ。むしろ、初めからそれを問われる事を待ち望んでいたようにさえ思える。
「まずは、私の病気からお話いたしましょうか。そうすれば、どうして私がこのような事に踏み切ったのか、理解していただけるはずですから」
 ロボットのアルジュベタ=マータは、人間のアルジュベタ=マータの肩先ほどで緑の布を掛け直すと、そのベッドを離れこちらへ歩みよって来た。一斉に部下達がアサルトライフルを向けるものの、それを左手で制し、俺も三歩前へ進み出た。そんな俺の様子にロボットのアルジュベタ=マータは満足そうな表情を浮かべた。もしかして相手のペースに乗せられたのではないだろうか、という不安は込み上げて来たものの、ただ交渉のテーブルについたというだけで、あまり神経質にはならない事にした。
「私の患った病気は脳が加速度的に萎縮し、認知能力に障害が出るというものです。今の医療技術では決定的な治療法は無く、副作用の強い薬で病気の進行を遅らせるだけしかありませんでした」
「こちらは命に関わるような病気だと聞いているが」
「あなた方も法務省に担がされているようですね。けれど、命に関わるという意味ではあながち間違いではないのかもしれません。不認知症が進めば、私は自分で生きられず誰かに生かされる事になりますから。私の生甲斐が失われてしまったら、それは生きているという事にならなくなります。さて、話を戻しましょう。私は日々自分の病状が進むに連れて、物事が少しずつ分からなくなっていく事がとても恐ろしく思いました。忘れるのではなく分からなくなるという事が、自分の人間性が廃墟のように風化していくようで本当に恐ろしかったのです。一昔前までは平然と中東の紛争地域へ赴き、硝煙弾雨の中を掻い潜って来た私が、いつも食事をする時に用いるフォークが分からなくなるだけで恐れおののいてしまうなんて。若いあなたには想像出来ないでしょうが、老いを実感し始めた私にとってそれは本当に信じ難く恐ろしい事なのです。認知能力を失っていくのは、脳が萎縮し活動が低下するためによるもの。もしも他の臓器だったなら、幾らでも代用機器があります。けれど、脳だけは代用品がありませんでした。どうして脳の代わりは無いの? とある医者にそう訊ねた所、こんな答えが返って来ました。脳を機械にしてしまったらロボットと同じですよ、と。技術的に人工の脳を造る事は可能なのにそれをしないという事は、脳は人間そのものだと医学的に考えているからなのです。機械の脳が不可能であるならば脳を複製して交換する方法も考えましたが、クローン規制法のあるこの国ではそれも難しいでしょう。ですから、私はこれに踏み切ったのです。私は魂の存在を信じています。今、ここであなたを認識し言語を話すのは脳の活動にしか過ぎず、根本的な認識力は霊魂に拠るものなのです。脳が人間性の証明だと言うのは、ただの医学的見地にしか過ぎません。私は魂があるのか否かが人間とロボットの境界線だと思うのです。だから、脳を機械化する事に躊躇いなどありませんでした」
「経緯は分かったが、お前自身の出生はどうなっている。今の話を信じるならば、お前はアルジュベタ=マータとは関係が無いのか?」
「お話はまだ途中ですよ、坊や。静かに最後まで聞きましょう」
 そうアルジュベタ=マータはまるで子供を諭すような口調で微笑んだ。カオスを前に随分な余裕だと逆に訝しく思えたが、何か俺達が手を出せないような理由があるのだろう。ただそれが本当に俺達にとってそういうものになるのかどうかまでは定かではない。どちらにせよ、相手が余裕を見せている時は必ず何かしらの裏があると考えるべきだ。もしくは、よほど空気が読めない愚か者のどちらかだ。
「ロボットがああも人間らしく振る舞う時代です。最初、私は人間用の脳を造るなんて大した事ではないと考えていました。ですが、それは大きな誤りでした。実に大小含め様々なメーカーに、人工の脳を造っていただけないかと問い合わせてみました。けれど、皆さんは一様にこう答えました。馬鹿げている、と。脳を機械化してはならないと定めているのは、医学だけではなかったのです。ロボット工学にも国際倫理規定があり、人間の脳を機械に代理させる事は禁止されているのです。法務省も国際的な体面もあって規制せざるを得なかったのでしょう。国家規模で規制されてしまっては一個人である私に打つ手はありません。これで完全に道は閉ざされた。私は諦めるしかありませんでした。ですが、魚心に水心あり、とでも言うのでしょうか。なんと違法と知りながらも敢えて協力しようという方が現れたのです。早速私は脳の機械化を依頼しました。残念な事に私の体は老いて手術に耐えられるほどの体力は無く、仮に成功したとしても体が新しい脳についていけそうにありませんでした。次に考えつくのは一つしかありません。ならば使えなくなった部分は全て機械と取り替えてしまえば良い。それを突き詰めた結果がこれです。ロボットに私の魂を移し替えてしまえば良い。それで人間としての私は取り戻せるのですから」
 肉体の部分部分を機械の部品と置き換えるのは、程度が少なければ単なる移植手術に過ぎない。しかしそれを徹底的に行ったとすると、改造手術という狂気の沙汰に認定される。だが、わざわざ全ての肉体を機械と置き換えるのなら、逆に完成している機械の体に肉体を移植する方がより簡単なのではないだろうか。十分有り得る話ではあるし、俺にも理解出来る。ただ一つしか、本末転倒している事を考慮しない前提だが。
「後の問題は、私のコピーが終わるまで体が持つかどうかでした。そのため、私は積極的に弱った臓器を機械化し補っていきました。手術に際しても、途中で死んでしまわぬようあらゆる医療処置が可能な設備も用意しました。ようやく全ての環境が整うまで半年、既に私は自分の名前さえも分からなくなっていましたが、自分の成すべき事は覚えていました。私は間に合った、私は勝った、歓喜さえしました。それなのにです。ここに来て法務省が私の前に立ちはだかりました」
 不意にアルジュベタ=マータが一歩前へ踏み出す。瞬間、俺は思わず一歩後退ってしまった。いつの間にか、アルジュベタ=マータとの距離が自分にとって最大限の安全距離と認識していたようである。だが、ターゲットに気圧される訳にはいかない。本能が嫌がる距離を理性で押し殺して下がった足を元の位置へ戻す。
 アルジュベタ=マータの表情は驚くほど穏やかで、まったく殺気のような負の感情は感じられなかった。むしろその口調には温かみのような橙色の心地良い何かを連想させられる。この感覚と薄っすら似た記憶があった。あれは確か、幼稚園の保母だったような気がする。
「どう思います? 軍人さん。あなたは魂の存在を信じますか? 人間と機械の境界線、引くとしたなら貴方はどこにどうやって引きます?」