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 アルジュベタ=マータの質問に即答出来ない自分がもどかしかった。
 どうしてこんな簡単な質問に答えられないのだろうか。そう自分に対する疑問が浮かび上がる。けれど、思い返してみればそう何度も意識した事があるという問題でもないことに気が付いた。日頃ロボットというものに接していながら、人間とロボットの境界という定義にはそれほど関心を持っていなかったのである。人間だロボットだと言っておきながら、その基準を明確化していないなんて。今更だが、非常に恥ずかしい気持ちにさせられた。
「魂なんて錯覚だ。知性が発達し自らを高尚なものと考えたいあまりに、そういう概念を創造したに過ぎない」
「あなたは魂の存在を信じていらっしゃらないのですね。機械は機械、人間は人間だと。本当、軍人らしい現実主義者ですこと」
「結構だ。ではこちらの質問に答えてもらう。お前は、自分がアルジュベタ=マータと言うのなら、そのベッドにいる人物はどこの誰だ?」
「彼女もまたアルジュベタ=マータですよ。もっとも、既に自分が誰なのか分からない状態ですから、名前を訊ねても答えられませんよ」
「例の病気のせいか」
「いいえ。どうやら魂をコピーする際に処理がうまくいかなかったせいか、コピー元を傷つけてしまったようです。でも、大した問題ではありませんよ。オリジナルは、ほら、ここにこうしてあるのです。私自身が正真正銘のアルジュベタ=マータです」
 存在するはずのない魂などコピー出来るはずが無い。魂とは、自我の概念の延長にあるもの。つまりアルジュベタ=マータは、自らの記憶を別の媒体へ転送する事をそう呼んでいるだけに過ぎないのだ。
 基本的に記憶をコピーする事は法律で禁止されている。唯一許されているのは、余命幾許も無い人間が死後に遺産相続に関する諸事のために、記憶のほんの一部を複製するケースだ。こういったケースでも一連のやり取りは弁護士が厳重に管理するし、複製した記憶も使用後はきちんと消去されてしまう。この観点からも、アルジュベタ=マータはサイボーグ化以外にも罪を犯したのは明白だ。ロボット工学の倫理規定やら非常に難しい課題の残る事例ではあるが、何年も前に法律で禁止された事も平然とやって退けてしまった以上は何らかの法的処罰は避けられないし、衛国総省にも大義名分が出来上がる。
 しかし、ここで一つ疑問が生じてしまった。
 法務省が衛国総省を通じてカオスに求めたのは、アルジュベタ=マータの実質的な確保だ。法的ではない、実質の本物は一体どちらのアルジュベタ=マータなのか。非常に倫理的な問題で見当がつかないのだ。
 魂がどうこうという観点ではなく、人格そのものがアルジュベタ=マータ足り得る主要素ではあるだろう。人格とは経験の集積だから、記憶が移ったのであれば移った先がアルジュベタ=マータと判断するのが当然だ。しかし、ロボットに人間の記憶を全て転送したなどという事例はこれまで一度も無かった。それに伴い、人間の記憶を転送したロボットを人間として扱うかという事例も無く、論議した所で意見の分かれる様は目に見えている。
 仕方なしに、俺は襟の内側へ取り付けている通信機を口元へ寄せた。
「C2より本部へ。応答せよ。こちらはC2」
『こちら本部。C2、状況を報告せよ』
「こちらC2。予想外の状況に陥った。本部の判断を仰ぎたい。作戦統括を出してくれ」
 今回の任務に限らず、カオスの関わる案件を統括しているのは局長だ。カオスの衛国総省直轄という特殊な所属もそうだが、発足から最も日が浅く人材も薄いためである。
『こちら本部、作戦統括。状況を説明せよ』
 僅かに間を置いて通信機から最初のオペレータとは異なる声が聞こえてくる。この声は局長のものだ。
「アルジュベタ=マータを補足、いつでも確保は出来る状態にある。しかし、アルジュベタ=マータは自らの記憶をロボットに転送している模様。人間の方は精神状態が思わしくなく自分で立ち上がる事すらままならない。今後の指示が欲しい」
『早急に法務省へ問い合わせるため、現状維持のまま待機しなさい』
 アルジュベタ=マータはしきりに視線を俺に注ぎながらにこやかな表情を向けてくる。自分の敵対心の無さをアピールしているのか、それとも愛想を利用しこちらの油断を誘っているのか。どちらにしても判断を下すのは俺ではなく作戦統括であり、俺にはその命令に従うだけの責任感がある。今更どう手を尽くそうとも俺は決して懐柔されたりはしない。ただ油断無く、アサルトライフルの銃口を向け牽制を続けるだけだ。
 そして、
『本部よりC2、そしてC全体へ告ぐ。法務省はアルジュベタ=マータの処分を決定した。速やかに射殺及び廃棄すべし。以上』
 如何にも機能然とした情報伝達のみだけの事務的な口調だ。しかし、それが逆に俺には好都合だった。下手に感情を交えられると、その決定が局長個人の独断だと錯覚してしまいそうになるからである。
 やはりそう来たか……。
 釈然としない決定ではあったものの、確実性という意味では当然の判断である。
「了解した」
 ある程度は予想出来た展開だ。この方が面倒も無く始末し易いと、衛国総省はそう考える機関である。こんな事は一度や二度ではない。
「どうやら私を殺すおつもりのようですね」
「分かるか」
「ええ。私には魂のパルスが感じられますから」
 世迷い事を。
 攻撃する相手との会話は出来る限り行ってはならない。いざという時に決心が鈍るからと、教官にそう教えられた事を思い出す。
「全体、掃射構え!」
 号令と共に一斉にアサルトライフルを構える。しかし、アルジュベタ=マータは何構える訳でもなく、ただ悠然と立ったままこちらを見据えていた。さすがにこの状況には成す術も無く観念する他無いと判断したのだろうか。ならば気が変わる前にさっさと終わらせてしまおう。無論、相手もそうだが自分に対してもだ。
 しかし、
「私とて人の背中を借りて戦火を潜って来た訳ではありませんよ」
 その時、突然アルジュベタ=マータが何かを持った右手を振り上げた。思わず振り上げた先を目で追ってしまう。だが、その油断が致命的である事にようやく気付いた自分の間抜けさ加減に息を飲む。今の自分の行動は、相手に殴りかかられていながらも敢えてガードを下げるボクサーと同じであるからだ。
 手にした何かを床へと思い切り叩き付ける。次の瞬間、視界を爆発的に広がった白い気体に染め抜かれた。反射的に吸い込んだ空気と共に口の中へ不自然に甘い味覚が広がり、額を撃たれる感覚と共に足元が急激にふらつき始めた。即座に防毒マスクを着用するものの、皮膚から吸収する量の方が遥かに多いガス兵器にはほんの気休めにしかならない。そして心臓が動いている以上は、既に体内へ取り込んでしまった分はどうやっても体を蝕んでいく。
 周囲からライフルを取り落とす音が聞こえて来た。自分だけでも何とか目標を捕捉しておこうと気を張るものの、それもさして保てない内に立っている事が出来なくなり自ら床へ膝をついてしまった。口から抜け鼻を突く甘い匂いと急激に訪れる脱力感。無力化兵器の一種だが、国際戦争条約に抵触しかねないこの威力、知っている限りではこの国にたった一つしかない。以前、海軍の特戦部隊の演習で一度だけ体験した事がある。
 まさか……特殊戦略麻酔?
 どうして一般人がこんなものを所有しているというのか。
 気が付くと俺は自分の意思と関係なく前のめりになってその場に崩れ落ちた。
 どこか遠くで、気配が一つ、ここから遠ざかって行くのを感じた。