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 検査入院を終えた翌日。その日、俺は一日中アルジュベタ=マータの個人情報を閲覧していた。衛国総省のデジタルライブラリには各行政機関から収集された全国民の個人データがある。顔と名前さえ分かれば、その人間がどういった人生を送ってきたのか事細かに知る事が出来るのだ。無論、このライブラリは現行の法律とどう照らし合わせたとしても完全に違法なものだ。攻勢防衛が信条の衛国総省ならではの、超法規的な存在である。
 一通りのデータを閲覧し終えた頃、ふと周囲を見渡すと局員の姿は一人として残っていなかった。時計を見ればとっくに業務を終える時間を過ぎている。今日は週末だ。一般事務員など土日を定休として認められているため、仕事が終わればすぐにでも帰りたいものだろう。軍人になって以来、定休とはまるで無縁だったが、休日の有意義な使い方を知らないくせに羨ましいと思う自分が浅ましくも思った。
 暗号化したディスプレイを復号するセキュアグラスを外し肩をほぐしながら席を立つと、そのまま給湯室へ向かい共同冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出す。蓋を開けてゆっくり一口含むと、予想外に乾いていた唇や口腔がみしみしと軋み僅かに痛んだ。こんなに長い間ディスプレイに向かったのは久しぶりの事である。時間が経つのも忘れ周囲から人がいなくなるのに気が付かなかった所を見ると、まだまだ事務での集中力は衰える歳でもないようである。
 とりあえず、夕霧には連絡しておこうか。
 もう一口水を含んで口の中を潤すと、ポケットに突っ込んだままの携帯を取り出しつつ席へ戻った。
 ふと、その時。オフィスの出入り口のドアが開く音がし、続いて中へ誰かの足音が入ってくる。過去に一度聞いていれば、足音だけでそれが誰であるのか聞き分ける特技を、職業柄習得してしまっている。どうやらアイダが外回りがようやく終わって戻って来たようだ。
「あら、まだ居たのね。相変わらず、あなたは仕事熱心ね。少し働き過ぎよ」
「昔から、気になった事はすぐにでもはっきりさせないと寝れない性質でね。今、帰りか?」
「今日一日かけて各方面に網を張って来たわ。何か分かればすぐに情報が入って来るはずよ。あなたはどう? 何か成果はあって?」
「少し気になるぐらいのものはあった」
 そう言ってディスプレイを指差す。アイダは隣の席のセキュアグラスをかけて俺のすぐ横に並んだ。
「見てくれ。これは今から二十年前に中東の民族紛争地域で起こった内紛を、諜報部が現地調査したその非公式資料だ」
「随分といい加減なデータを見ているのね。非公式資料なんて、ただの走り書きじゃない」
「まあ聞け。これで気になるデータがあってな。ここだ」
「民間人の死傷者? 戦闘地域ならそれほど不自然な事ではありませんけど」
「いや、違う。これは全て、連合軍統治下の特別非戦闘地域での死傷者だ」
 特別非戦闘地域とは、戦闘地域と認定されている国や一定の地域でも、統治力や軍備態勢等の一定の条件をクリアした場所を非戦闘地域と見做す、国際条約で定められた場所だ。ここでは現地人の行動は特別な制限はほとんど無く普段通りの生活が出来るものの、どういう訳か報道関係者は逆に著しく行動を制限される。つまり、戦闘は行われないもののその実態はほとんど一般人には知られていないのである。
「まさか。そんな事があったら、国際レベルの大問題になっているはずよ。国際条約では非戦闘人への攻撃は禁止されているわ」
「だから非公式の資料なんだろう。そして同じようなデータが他にも幾つかあった。特別非戦闘地域では、マスコミはほとんど動けないからな。表面化する事も無く、ただこうして諜報員の僅かな走り書き程度しかあえて残さなかったと考えるのが妥当だ。そして、この件に関しては共通して胡散臭いレポートを見つけた。いずれの事件も、現地人が連合軍に対して攻撃を仕掛けているんだ。それもテロのような奇襲じゃない。組織立った、正面切っての正攻法だ。民間人の死傷者は、この時に連合軍が応戦したためだろう」
「組織テロの可能性もあるでしょうし、単純に現地人が独裁的な連合軍統治に不満を持っていただけかもしれませんね。けれど、特別非戦闘地域にどうやって武器を持ち込んだのかしら」
「資料によれば、どうも武器商人のような存在がいたようだ。しかも捨値に近い額で売りさばいていたそうだ」
「という事は、軍関係者が武器の横流しをしたのかしら。でも、利益が目的なら捨値では売らないわね」
「もう一つ共通点がある。いずれの事件も、ある非政府組織が支援活動で関わっている」
「ここでその単語を持って来るという事は、アルジュベタ=マータがその武器商人だと言いたいの?」
「ああ、そうだ。こんなレポートもある。アルジュベタ=マータの組織が武器をばら撒いていたという現地人の証言だ。武器を卸したという証言もある。こっちは既に終身刑が確定していて、東南アジア一帯を市場にしていた本物の武器商人だ」
「こじつけと言ってしまえばそれまでだけど、情況証拠以外の根拠はあるのかしら。たとえば、そんなリスクを背負うだけの動機とか」
「アルジュベタ=マータはナルシストだった、というのはどうだろうか。あえて危険な地域へ飛び込んで人道を訴える自分の姿に酔いしれる。しかしそのためには紛争の泥沼化が不可欠だ」
「子供の頃、似たような映画をテレビで見ていたらパパに叱られた事を思い出したわ。確かに代理症候群が引き金となって事件を起こした例はあるけれど、これはあくまで特異なケースよ。幾らなんでも飛躍し過ぎと思うわ」
「ありがとう。そういう意見が聞きたかった」
「自分で自分の意見を否定する事は出来なかったのかしら?」
「否定するにも、それだけの根拠が見つけられなかったのさ」
 しかし、全く否定的な考えが浮かばなかった訳ではなかった。ただ、当時の外務省や衛国総省がこの事件に対して具体的にどういった対応を行ったのか、一向に資料が見つからなかったのだ。元々、諜報部の非公式資料なのだから省庁が何かしらの対応を行ったという資料が残っている事自体が考えにくいのだが、だったら初めから諜報部の資料も残しておく理由は無いのだ。つまり、初めからどこの省庁もこの件に関しては何も対応していないという事になるのである。対応をしなかった理由とは、元からその必要は無い軽微な事件と判断したのか、もしくは対応の方法が見つからないという深刻な理由だったからなのか、どちらかだ。何にせよ、当時からアルジュベタ=マータは高いレベルで政治に関係してくる存在であったというのは確かだ。そんな彼女が国際的な視野でも問題となる重大な犯罪を犯したとなれば、諜報部が血眼になって隠蔽工作を行ったと思ってもおかしくはない。当時のアルジュベタ=マータの政治的な影響はとてつもなく大きいのだ。たとえ政府と言えど、迂闊なスキャンダルは作りたくなかったに違いない。
 しかし、本当にアルジュベタ=マータは事件に関与していなかったのだろうか。武器の売買の事実はあっても、それは彼女の全く与り知らぬ所で行われた事なのか。しかし、あの突入した晩、アルジュベタ=マータの屋敷には様々な銃器があり、彼女も自分の所有物である事を否定しなかった。これらを鵜呑みにするのなら、自分の推論はあながち間違ってはいないと自負するに足りる。だが万人が納得するだけの証明、それこそ物証が無い以上は何を言っても単なる憶測、人によっては無神経な批判だと捉えられてしまうだろう。
「マイク。先程、病院から直接連絡が来てアルジュベタ=マータの面会許可が下りたわ。今日はこれまでにして、明日は事情聴取に向かいなさい。運が良ければ、何か手がかりが掴めるかもしれないわ」
「了解」