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 念のため、アルジュベタ=マータの自宅へ調査に向かったが、依然として続いている所轄の現場検証により立ち入りは許されなかった。衛国総省として介入するだけの権利は持っているのだけれど、今回の事件はただでさえ所轄に厄介ごとを押し付けて風当たりが強くなっているのだ。これ以上反発を買うような真似は賢明ではない。
 その日は午後からいつものように訓練を行って帰宅した。しばらくはカオスも平常に戻るだろうが、やはり気がかりになるのはアルジュベタ=マータの事件だ。個人的にはもっと徹底した捜査体勢を敷きたいのだが、それはカオスの仕事ではないし、事を荒立ててはマスコミに余計な事を嗅ぎ回られてしまう。そもそも事件はこれだけではないのだ。新たにロボット犯罪が起これば出動しなければならないから、アルジュベタ=マータの件ばかりに時間を取られる訳にはいかない。
 帰宅するなり、いつものようにシャワーを浴びてリビングでくつろいだ。相変わらず見もしないテレビはつけっ放しで、グラスに浮かべた氷を眺めつつ仕事の事ばかりを考える。傍目からはそんな俺が一時も気を休めていないように見えるそうだが、俺にとってはこうある方が自然で気持ちも十分に休まっている。退役しても枕元に銃を携帯する軍人と同じだ。
 しかし、妙な状況になったものだ。
 アルジュベタ=マータはロボットに自らの記憶を転送したが、どういう訳かどちらもオリジナルと同等の人格を持ってしまった。ただ決定的な違いとして、人間のアルジュベタ=マータは認知症のため記憶が非常に曖昧で自分の家族構成も分からないような状態、ロボットのアルジュベタ=マータは慈善家らしからぬ判断で俺達カオスをまんまと出し抜いている。少なくとも俺が受けた印象としては、二人は非常に対照的な性格だった。人間のアルジュベタ=マータはいかにも慈善家らしい優しさに満ちていて物腰も非常に柔らかだった。一方ロボットのアルジュベタ=マータは、口調が非常に挑発的で何よりも自分の目的を優先する事に尽力するタイプだ。
 アルジュベタ=マータについて世間は、戦地での人道支援活動に従事する勇気を高く評価する一方で、政治情勢を無視した行為は国際問題にまで発展しかけており、賛否が綺麗に二分化されている。同じ人間でも受け取り方にとってこんなに評価が分かれるのだろうか。人間は本能的なもの以外にも欲求を持つ生き物だから、価値観という概念がそう歪めるのだろう。
「御主人様、お電話でございます」
 ふとその時、夕霧が俺の携帯を持ってやって来た。サイレントのまま放り投げていたから気づかなかったようである。
「誰からだ?」
「アイダ様です」
 携帯を受け取り耳に当てる。
「俺だ。アイダか?」
『俺だ、じゃないわよマイク。アルジュベタ=マータの件はどうなったの? 報告ぐらいしなさい』
「一応メールはしたんだがな。とは言っても報告出来るような成果は何もないさ。案の定、話にならなかった」
『そう。予想はしていたけど、やはりそんな状態だったのね』
 アルジュベタ=マータは病院へ搬送された時点で既に認知症が大分進行してしまっていた。介護がなければ生活が出来ないような彼女から、逃走中のロボットについて有力な情報が得られるかどうかは初めから疑問だったので、当初の予定通りと言えば予定通りの結果である。
 これでしばらく解決は先送りになる。カオスは実戦部隊だから、事件そのものから離れるだろう。完璧主義者という訳ではないのだが、そんな中途半端な状況でヤマから離れるのはあまり後味の良くないものだ。本当ならあの晩の時点で収束出来たはずだったのだが。状況判断が甘かったとは言っても口惜しさは残る。
 しかし、
「それで、そっちは何か掴めたのか?」
『大した事じゃないけれどね。アルジュベタ=マータには、彼女が生まれる前に死産した双子の姉がいたそうよ。衛国総省のデータベースには無かった情報だけれど、彼女が生まれた病院が廃院になる時に、どさくさで内部情報が流出したそうなの。たまたま別件で流出データの回収を担当していた諜報官が教えてくれたわ。事実確認は出来ていないけれど、どちらにしても役に立ちそうはないわね』
 死産した姉。
 思わぬ所で繋がってしまった情報に、危うく手の中のグラスを取り落としそうになる。その存在は認知症のアルジュベタ=マータの証言だから限りなく架空に近いものだと考えていたのだが、まさか実在するなんて思いもよらなかった。だが、これだけでは疑問点が幾つも残る。アルジュベタ=マータの口ぶりでは、彼女の姉はあくまで一緒に生活していたというのだ。死産した姉と一体どうして一緒に暮らせるというのだろうか。
「この件、もう少し調べた方がいいかもしれない。法務省にも内密でだ」
『どうして?』
「今日の帰り際、アルジュベタ=マータに頼まれ事をされたんだが。自宅には姉がいるから自分の居場所を教えて欲しい、と」
『姉が? アルジュベタ=マータには他に肉親がいたという事かしら?』
「俺は、その死産した姉の事じゃないかと睨んでいる」
『マイク、そういう冗談はやめて。真剣な話をしているのよ』
「そうじゃない。俺はこう考えたんだ。死産の事実を隠し、本人も姉の存在を知らなかったと仮定する。そこで赤の他人が姉に成りすまして取り入ったんじゃないだろうか。若い頃ならともかく、認知症を患ってからのアルジュベタ=マータならば、もしかすると騙し通せたかもしれない」
『随分と突拍子も無いけれど、有り得ない話でもないかしら。だったら、目的はやはり財産かしら?』
「法務省の手先とも考えられるな。カオスへ武力行使を委任しても不自然じゃない状況を作り出すため、とか現実的にありそうな話だ」
『もしもそうだったら大変な事ね。流石に衛国総省として法務省の告発は出来ないわ』
「そうだな。せいぜい、モーリス省長の小耳に挟める程度だ」
 ほとんど推測の域を脱していないレベルの話ではあるが、もしも法務省の裏側を公にしてしまった場合、事態は非常に危険な方向へ向かう。単に告発者が謎の事故死を遂げる程度ならまだ良い。法務省に限らず、全ての各省庁は法律を逸脱したり人権を無視した行動に出る事が非常に多々ある。それら理由は様々あれど、全ての目的は国家治安に帰している。秩序を一定に保つという事は、綺麗事だけではどうにもならないほど複雑で困難なのだ。しかし、民衆が法の正義を前提に取る以上は政府としても法に則った行動をしなければいけない。たとえ秩序のためという名目はあっても法に反する行動は知られてはならないのだ。もしも知られてしまえば、今後は民衆の目にも気を配らなければいけなくなる。そうなれば、後は考えるまでも無い。瞬く間に秩序が保てなくなり、右か左に傾くだけだ。
「ついでだ。もう一つの仮説も聞いておかないか?」
『もう一つの? 参考までに是非とも聞かせて……あら、ちょっと待っててマイク。政府回線からだわ』
 電話の音声が応答待ちの音楽に切り替わる。かかったのはいかにも最近の流行りらしい、暴力的な単語の並んだ音楽だ。こんな犯罪を奨励するようなものに夢中になる連中の気が知れないと年寄り臭く愚痴るのだが、こういった人間が音楽業界でトップクラスの募金をやっていたりするから、世の中の人の考えている事なんて分からないものである。
『マイク、例のロボットが現れたわ。場所は大統領府よ』
 音楽から切り替わり飛び込んできたアイダの声は、先程と打って変わって真剣な緊迫感のある鋭い口調だった。プライベートではなく、カオスの統括局長としての態度である。
「分かった。すぐに向かう」
『近くまで迎えをよこします。装備はその中に用意しますので』
 電話を切ると、俺はグラスを置いて洗面所へ向かい酔い覚ましに顔を洗った。まださほど飲んでいないため、特に足元のふらつきや意識の混濁も感じられない。ただ、こういった事は自覚症状に薄いから注意が必要である。念のためシャワーをもう一度浴びておきたかったが、さすがにそこまでの時間は無い。
「夕霧、これから急務で出かけてくる」
「かしこまりました御主人様」
 そう夕霧は俺にフェイスタオルを差し出した。