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 一瞬、脳裏に多重人格という単語が思い浮かんだ。しかし、俺は心理学の専門家ではないから、どういう理屈でそういった症状になるのかは分からないし、彼女の主張が嘘か本当か確かめる知識も無い。こういう話を敢えて持ち出したという事は、信じ難いが紛れも無い事実なのか、もしくは本当の本気でまともじゃないかのどちらかだろう。
「で、それがお前の行動とどう繋がってくるんだ」
「アルジュベタ=マータはどういう人間か分かりますか?」
「世界的に有名なな慈善家、といったところか」
「でしょう。それが本来のアルジュベタ=マータの資質です。アルジュベタ=マータは困っている人を見捨てられないし、損得の理よりも自分の感情で動きます。しかし、その一方で彼女は弱気で自己主張が弱く極端に人見知りをする。極力人とは顔を合わせず接触もない人生を送りたいと願っています」
 その言葉に俺は首を傾げた。アルジュベタ=マータは積極的に戦地へも赴き、テレビでの芸能活動も進んで行うような人間だ。そんな彼女の一体どこが人見知りする性格なのだろうか。少なくとも彼女の活動目的には、それらの活動の必要性は思いつかない。
「私は誰よりも近くで彼女の人生を見てきました。少しだけ昔話をして差し上げましょう。彼女がどういった生い立ちを歩んで来て、何故私のような存在が生まれたのかを」
 今回の任務には、人間のアルジュベタ=マータはともかく、このロボットの生い立ちがどうこうという問題は全く関係ない。カオスに求められているのは、可及的速やかにこのロボットを破壊し大統領府の敷地内の厳戒態勢を解除させる事の唯一つだ。ましてや、仕事と私事を天秤にかけるような思考は新兵の時分に訓練を通して修正されている。このロボットが今更何を言おうと、俺はただ任務を遂行するだけである。なのに、俺は彼女の言葉を遮る事が出来なかった。それどころか、彼女の事をもっと知りたい、いや、知っておかなければならないという奇妙な使命感さえ込み上げてきている。
 俺は左手を再度背中側へ回し、全体待機のサインを出した。そのサインにどう部下達が反応したのかは分からないが、何となくその動向は肌に刺さる視線で感じ取る事が出来た。
「アルジュベタ=マータの父親は、仕事もせず昼間から酒を飲み家族には平気で暴力を振るうどうしようもない人間でした。幼い頃の記憶なんて、怒鳴り散らしながら拳を振り上げる父親と、幼いアルジュベタ=マータを庇う傷だらけの母親の姿しかありません。母親が行方不明になると、矛先はアルジュベタ=マータへ向けられるようになりました。彼女の受けた暴行は、十代の子供に到底耐え切れるようなものではありません。しかし、人の顔色を常に伺う臆病な性格の彼女には自殺する勇気すらありません。それでいつしか、秘密の相談相手として私が生み出されました。おそらく母親から死産した姉の事を聞いていたのでしょう、私の基礎は彼女の姉として立場でした。それ以外はほとんど彼女の願望です。行動力があり何事にも物怖じしない性格、結果的に何もかもが彼女と正反対となったのは強い自己嫌悪の現れなのでしょう。何にしても、私はアルジュベタ=マータのため、今日まで彼女の姉として生きてきました。同じ体を共有していると言う意味でも私達の利害は一致しているから、自分でもそうする事に疑問はありませんでした」
 半ば映画を観ているような気分でそんな荒唐無稽な話に耳を傾ける自分を、俺は大きな判断ミスではなかったのかと後悔する反面、どことなく抱いていた疑問が繋がっていくような爽快感も同時に感じていた。任務と私情を混同してはならない。現状で最も優先しなければならない事を失念せぬようその言葉を戒めとして、何度も何度も杭のように自らへ打ち込んだ。
「今回の騒動は、やはり引き金を引いたのじゃお前か」
「そうです。アルジュベタ=マータはサイボーグ化推進には反対派の人間ですから、こうするしか他に方法が思い浮かびませんでした」
 別人格だけがロボットに移ったというのか。
 しかし所詮は子供騙しにしか思えない。多重人格は一つの体に二つの魂が宿っているという認識が罷り通っていたのは、精神医学が未発達だった頃の空想なのだそうだ。実際は異なる感情が複数に分岐したためだというが、それ以上は詳しくは知らない。ただ少なくとも、人格が単体で分離するという事は科学的にも医学的にも有り得ない事は確かだ。いや、そもそも人格というものを機械に転送出来るのかどうかすら技術的に考えても疑問が無数に挙がる。人間の人格とは記憶を収束したものだ。多重人格もあくまで一つの人格であり、ただ正常な状態ではないというだけの話である。アルジュベタ=マータの場合、記憶の一部が中途半端に転送されたためにこういった人格の分裂が発生したと考えるのが自然だろう。ただ、人間の記憶を電子化し完璧に人格部分だけ分離させる事は可能かどうかは、実践しなければ検証は不可能だろう。
「どうして自分だけをロボットに移したんだ?」
「私はこれまでの人生をアルジュベタ=マータのために捧げてきました。彼女の欲求を満たすため、外務省に働きかけて戦闘地域へ赴き思う存分人道支援活動をさせ、時には武器商人から武器を買って配り、戦闘を泥沼化させたりもしました。しかし、このまま何もせず死ぬ事に私は耐えられませんでした。アルジュベタ=マータは機械になってまで生きたくない、死ぬ時は自然に死にたいと言います。ですが、私は嫌です。何もかも正反対の私、生きる可能性があるなら最後までそれにすがりたい、と考えるのが当然です。でも私はアルジュベタ=マータの望まぬ事はしたくない。だからこんな手段に出ました。この方法ならどちらの意思も尊重されますから」
 そして、社会生活に必要な残る要素、権利を手にすべくこのような手段に出たという訳か。
 彼女の言っている事は理解出来ない訳ではなかった。むしろ筋さえ通っていると言っても差し支えない。しかし、どうしても荒唐無稽さは拭い切れなかった。そもそもの前提に現実味が無さ過ぎるのである。アルジュベタ=マータが多重人格という部分までは認めよう。だがその人格の一部が消滅を恐れてロボットに逃げ込んだなんて、まともな人間に話した所で一笑に付されるか哀れみの視線を向けられるかのどちらかだ。
 正義には、誰もが納得する正当性と、納得に至るまでの理解が得られやすい明確さが必要である。アルジュベタ=マータの行動は違法な部分があるものの、倫理的にはまだ弁解の余地は十分にあるだろう。しかし、この事件の顛末を国民に開示した所で、果たしてどれだけの人間が納得してくれるだろうか。疑問に思うならば、既に行動は決定している。国民に最も分かりやすく最も穏便な形で、この事件に終止符を打つのだ。
「法務省はお前の存在を良しとしない。事の顛末は十分理解したが、その上で、お前はここで廃棄させて貰う」
 するとアルジュベタ=マータは、人間ならば溜息を漏らしていそうなほど、ありありと落胆の色を顔に浮かべた。
「そうですか、知らないのですね。だからそのような一辺倒な判断しか出来ないのですよ」
「どういう意味だ」
「何故、法務省が私を、サイボーグ化の成功例を世間に公表したくないか、という理由です。衛国総省の人間だったら噂ぐらいは耳にしていると思ったのですが。あなたは正義感の強い人間です。この事実を知ればきっと、一体どちらが討つべき悪なのか理解して頂けるはずです」
「自分は正義だとでも言いたそうだな」
「そうです、私は間違っていません。どうして私が法務省の都合で殺されなければならないのでしょうか。法務省に正義など無いというのに」
「法務省は私利で動かない。お前の存在が全国民にとって不利益になるからと判断したから、俺達カオスに出動が要請されたのだ。お前の言う正義とは単なる自己弁護にしか過ぎない」
「なら、あなたの知らない法務省の顔を教えてあげましょう」
 今度は一体何を言い出すつもりなのか。
 ひとまず俺は胸元のレコーダがオフになっている事を確認する。録音が不都合になる事はないのだが、やはり今回の件は非公式として扱うべきであるため、公開非公開に関わらず余計な資料は初めから存在しないに越した事は無い。
「あなたは臓器バンクにドナー登録はされていますか?」
「臓器バンク? いや、俺は意思表示カードを携帯している程度だ。提供は望まない、とだ」
「そうですか。ちなみに、この国で臓器提供が必要な患者はどれだけいるか御存知でしょうか?」
「いいや、それも知らない」
「では覚えて置いて下さい。去年の時点ではおよそ二十五万人です。部位による余命の差はあれど、臓器移植しなければ助からない人間がこれほどいるのです。これに対し、ドナー登録者は十万人にも満たないのが現状です。実際に移植手術が受けられるのは、全体の内たったの三十パーセント強と言われています。この国ではそれだけ臓器が枯渇しているのです。なのに、法務省や医師協会はあくまでサイボーグ化には否定的な立場を取ります。それはどうしてなのでしょうか? 答えは簡単です。足りない臓器は、臓器バイヤーによって供給されているからです。そして、この臓器バイヤーを管理しているのは法務省なのです」
 法務省が臓器バイヤーをしているとは、随分と大きく出たものだ。
 確かにそう考えれば、法務省がどうしてサイボーグ化に反対するのか、その辻褄は合う。けれど、そんな荒唐無稽な話はゴシップ紙に掃いて捨てるほど溢れ返っているし、巷で聞かれる政府関係の裏情報なんて誰もが噂話程度にしか認識しない。その程度の信憑性の無い事を今更挙げてどうするというのだろうか。
「それを証明する証拠はあるのか?」
「物証はありません。ただ、アルジュベタ=マータは証言する事が出来ます」
「証言? 何故だ?」
「アルジュベタ=マータの父親は臓器バイヤーの人間で、母親を売った事がありますから」