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 夜の海が見える場所に行きたい。
 そんな事をアイダに求められたのは初めてだった。いや、それは単に俺があまり覚えていないだけなのかもしれない。恋人という間柄でありながら、今ひとつ俺の方が踏み込んで来ない妙な力関係でもあるためだろう。アイダの存在を俺はあまり特別視はしない。常に俺の後ろにいることが当たり前になっているから、そういう無意識の甘えだ。
「静かね」
「そうだな」
 車の中で俺達は、藍色の海をただ眺めていた。微かに聞こえてくる波の音に耳を澄まし、夜空にぼんやりと浮かぶ欠けた月の光を追い、普段俺達が二人で過ごすのと全く同じ、気だるげだが緊張感もある不思議な空気を愉しんでいた。
 アイダの要求を満たす中で、俺の知っている場所はここだけだった。郊外へ車を二時間ほど走らせた所にあるその場所。ここは海軍の歴史博物館の駐車場である。丁度建物は海岸沿いの高台の天辺にあり、その周囲を囲むように駐車場がある。展示しているものは特別歴史的な価値がある訳でもなく、レプリカや編集した映像が中心のものであるためか夜間も無人警備しか働いていない。そのため、こうして駐車場の一角を少々拝借しても咎められる事はないのだ。
「あなたがこんな所を知っているなんて意外だわ」
「そうか?」
「わざとあなたが困りそうな事を言ってやったつもりなのに。そういう事に限って涼しげにやってみせるのは、あなたの一番の魅力よ」
「そう言って貰えると嬉しいよ。俺はコンプレックスの塊だから、人に褒められると子供のように嬉しがりたくなる」
 アイダは静かに微笑むと、俺の膝に手を置きながら身を乗り出してきた。意図を察した俺はハンドルへ手を置いたまま同じように上半身を乗り出し唇を寄せる。考えてみれば、いつも先に求めてくるのはアイダの方のような気がする。それは多分、放っておけば永遠に俺の方からそんな素振りを見せないだろうと思われているからだ。俺は自分で思うほど引っ込み思案な性格でもなく、特別アイダに対して一線を引いている訳でもない。単なる適正の問題なんだと俺は思う。自ら積極的に接触は求めず、精神的な繋がりだけを欲する。ああ、それはただの子供だ。
 しばらく海も月もそっちのけで二人だけの時間を味わった。こうして二人だけで会えるのは本当に久しぶりだった。俺達は同じ職場で共に大きな責任を負う立場にある。何かと問題の絶えないカオスをどうにか支えるという意味でも、お互いのんびりとプラベートに時間が避けない、非常に窮屈な職場だ。だが、ようやくここ最近は落ち着きが得られ、こうして定期的に二人の時間を作れる見通しが立った。この濃密さが、どれだけ二人の間に満たされない積み上げられていたのかがよく分かる、いい指針になっている。
 やがてどちらからともなく唇を離すと、示し合わせたかのようにかちあった視線を機に口元を綻ばせ合った。
「私、最近タバコをやめたのよ」
「それは良い事だ」
「理由を聞かないの?」
「健康以外に理由があるのか?」
 アイダは小さな溜息をついて肩をすくめる。
「あなたって、本当に昔から変わらないのね」
「どこが」
「仕事以外には鈍感な所よ。私にもあまり興味が無いんじゃない?」
「そんな事はないさ。じゃあ、どうしてやめたんだ?」
「あなたの丈夫な子供を産むためよ」
「おいおい、随分とストレートだな」
「どうしようもないほど鈍感なあなたに、遠回しなアプローチは無意味ですもの。はっきりと言葉にしてやらないと」
 なるほど、こうやって世の男性は人生の墓場へ追い詰められていく訳か。
 そんなブラックジョークを思いつくものの、さして面白い訳でもないばかりかアイダの機嫌すら損ねそうなものであったため、初めから無かった事にして頭のどこか隅へと追いやる。
「カオスも、もう四年か……。確かに、そろそろ良い頃かもしれないな」
「相変わらず、はっきりしないのね」
「そうじゃない。ただ、物事を綺麗に整理しないと次の段階に進めない性格なだけさ」
「あなたの考えている事を当ててみせましょうか?」
「何だ」
「『アイダと結婚したら、夕霧が肩身を狭い思いをして可愛そうだな』違うかしら?」
「……勘弁してくれ」
 アイダと居る時は、出来るだけ夕霧の話題には触れて欲しくは無かった。夕霧の存在は二人にとって未解決のまま残されている問題である。未解決なままになっているのは、俺があまり触れないようにしている事と、アイダ自身があまり快く思っていない事のせいだ。まともに話し合う事もないから解決するはずもなく、まともに話し合おうとしても感情が先立たないかという危惧があり、自然と目をそらしながらもうこれほどの月日が経ったのだ。
「勘違いしないで。私は怒っているとかそういうつもりじゃないのよ。別にあなたがどんなロボットを持っていようと関係ないわ。私も夕霧は嫌いじゃないわよ。お喋りなロボットよりずっといいもの」
「夕霧の良さが分かってくれたか」
「マイク、私が嫌がっているのはあなたのそういう所よ」
「だからって夕霧に当たってたのか?」
「少なくとも、嫉妬心を感じていた時期はあったわ。仕事ばかりで私の事なんていつも後回しにするくせに、何かと夕霧には連絡を取ったりして。でも、あなたの気持ちの全て独占しようなんて考えを捨てたら気にならなくなったわ。そうやって束縛する女は男のジョークの種にされるでしょう?」
 意味深な彼女の微笑みに、思わずどきりと胸が高鳴りそうになる。女は自分が嫌な時ほど勘が鋭いから困ったものである。
「なあ、アイダはどうしてカオスに入ったんだ?」
「別に自分から選んだ訳じゃないわ。ただ、衛国総省に入りパパの身内という事で温い待遇を受けたくなかっただけ。私は私で、パパとは違った能力がある事を証明したいの。そう考えると、全くゼロからの試みだったカオスは自分の実力を試す意味でも最適だわ。自分の思う通りに作る組織は一体どれほどのものなのか。考えただけでわくわくするじゃない」
「で、俺が目に止まった訳か」
「あの特戦部隊に好き好んで何年も居座っているなんて、その怪物には前々から興味があったの。でも、実物を見て驚いたわ。まさかこんなに可愛い怪物だったなんて。だからこの人しかいないと思ったわ。ありきたりな人選ではありきたりな組織しか作れない。その点、あなたは完璧だったわ。平凡な所が何も無いから」
「変わり者、って事だろう。お前も随分な物好きだ」
 アイダの父親は衛国総省の省長である。たとえどんなに無能であろうとも、彼の一言で省内の事は幾らでも変えることが出来る。しかし、アイダはコネクションに依存せず自分の能力だけで今の立場までのし上がってきた人間だ。ある程度、周囲も長官の娘だという恐縮もあったのだろうが、現在の立場と彼女の実績が相応のものであるとは誰もが認めている事である。俺はカオスに来てアイダをすぐに上司と認めはしなかったが、今では誰よりも信頼のおける人間としている。俺はカオスに現場での実働という形でしか貢献出来ないが、背中となるそれ以外の部分を任せられるのは彼女だけである。
「でも、やっぱり最初は不安だったわ。そう」
 不意にアイダがそっと車の外を指さす。そこに広がるのは深い藍色の微かにうねる海。
「昔の人はレーダーも通信機も無しに海を渡ったそうよ。私も同じ気分だったわ。カオスが発足されたのは、ロボットの犯罪を物理的に阻止するため。でもそれはこの国で初めての事だから、全てを手探りでやらなければならないし、そもそも攻勢組織自体が必要なのすら分からなかったわ。方向性は正しいのか、組織をどうやって維持して行けば良いのか、そんな事ばかりを初めは考えていたけれど、なんて事はなかったわね。ロボットがなくならない限り、実績を出し続けている限り、カオスの存在意義はどうとでもなるものだから。何のための組織なのか、結局の所は適宜という事ね」
「俺は、ロボットに対する敵役だと思っていたよ。人間の敷地内へ無断で踏み込まないよう額に銃口を向け、法律の後ろ盾で引き金を引く。そうやって圧力をかける事でロボット達をおとなしくさせ、しかも人間に向けられるべき敵意をこちらに向けさせる。そんな組織さ」
「今はそれで良いのかもしれないわ。人間とロボットの関係が変わって行く事で私達カオスも変わって行くのだから」
 ロボットは人間が思っている以上に人間らしく、繊細で、複雑な個性を持っている。それを知らない人間は、自らが抱く旧時代のロボットに自分自身が近づいている事に気づいていない。
 極論を言えば、ロボットを犯罪に走らせているのは人間の不理解さだ。ロボットの持つ素養はほぼ人間であるが、存在意義が圧倒的に人間とは異なるのだ。そして、一般にその事実はほとんど知られていない。
「近く、改めて挨拶に行くよ。今後の事はそれから話し合えばいい」
「やっぱり、はっきりとは言ってくれないのね。私が聞きたいのはその言葉じゃないわ」
「そういう性分なんだ。でもお互いの考えている事は同じだと思う」
「分かったわ。でも、がっかりはさせないでね」
「させないさ、絶対に」
 アイダは笑みを浮かべながら俺の首を抱き寄せ、強く抱擁する。そのアイダの体を俺の方からも抱き寄せた。
 人間は、お互いの気持ちを伝え合うのにほとんど言葉を必要としない場合がある。それは互いに理解し合っているからだ。簡単なようで難しい事なのだけれど、極めて稀な事でもなく、互いの意志さえあればきっと実現出来る可能性のある事だ。
 ロボットへ人間のように接するのではない。ロボットはあくまでロボットとして、感情のある何かと同様に接するべきなのだ。どうしてこんな簡単な事をほとんどの人間が知らないばかりか、カオスのような攻勢組織まで生み出してしまうのか。
 人間は自らが生み出したものに対し、生み出した事に満足するだけでなく、もっと理解を深めるべきだ。そうすればきっと、カオスは単なる見張り役になる事が出来る。カオスとしても、何か出来る事をすべきだろう。ただ漠然と犯罪を犯したロボットを処分するだけではなくて。
「カオスは俺達にとっては子供みたいなものだな」
「ええ。でも、ようやく手がかからなくなったわ」