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 その正方形に刳り貫かれた規則的な空間はまるで子を宿した母体のように、自らの中央に奇妙な一つの物体を鎮座させていた。
 およそ三メートル半ほどの身の丈を持つその物体は、滑らかな曲線を描く外殻に包み込まれ、まるで巨大な卵のような姿だった。
 室内は暗く、一つだけ取り付けられたドアからは僅かな明かりすら差し込んで来ない。天井には小さな蛍光灯が一つ埋め込まれていたが、今は灯されておらず眠ったように沈黙している。それはまるで物置のようでもあったが、床から一センチほど離れた高さに製氷皿のような清浄器が埋め込まれてあるためか、埃臭さはおろか塵の一粒たりとも落ちてはいなかった。その清潔さはあまりに完璧であり、倉庫と呼ぶよりはむしろ保育器のようであった。
 突然。
 一条の光すら恵まれない室内が、何の前触れもなく淡いライム色の光りによって全面を照らし出された。その光は人工物特有の自己主張の強いそれではなく、蛍や深海魚の擬餌のように穏やかで柔らかみのある丸みを帯びた光だった。
 光は部屋の中心に安置されている、その奇妙な物体から発せられていた。だが光にはどこか陰りがあった。それは、通過性のある外殻がフィルムのように作用しているからである。
 と。
 内側から飛び出す光が質量を得たのか、急に外殻がぽこっと小さく膨れ上がった。一つ、二つ、と初めこそ緩やかに増殖していたその膨らみはある時を境に、唐突に湯が沸き立つかのように堰を切って膨張と増殖を加速度的に繰り替えし始めた。膨らみの上から皿に膨らみ、それらが寄り集まって膨張する。そんな進化のシュミレーションにも似た光景を繰り返して行く内に、遂に外殻の一角から、ぽんっ、と小さな破裂音が鳴り響いた。度重なる膨張と増殖に外殻の張力が限界を迎えてしまったのである。既にその物体は初めよりも二回り以上も体積を増していた。それは風船に呼気を吹き込む過程にも似ている。
 空いた外殻の穴の奥から、すっとライム色に輝く何かが這い出してきた。
 それは人間の五指だった。
 誰何の手は外殻の縁をしっかり掴むと、ぎゅっと腕を曲げて自らの体を外へ押しやる事を試みる。すると難無く穴の奥から、誰何の頭、肩、胸、足の順番で飛び出し、そのままするりと床の上へ滑り落ちた。
 落下の拍子に輝きを失った誰何は、暗闇の中でよろよろと立ち上がり壁伝いに一方向へ進み始めた。やがて四方の一辺であるドアの前に辿り着くと、そのドアに両手をつき力の限り奥に向かって押し始める。しかし、人間の力ではびくともせぬよう設計され、その上外側からロックされているそのドアを、小柄な誰何が腕力だけで突き破ろうとは到底無理な話だった。やがて体力が尽きたのか、誰何はドアから手を離してしまった。そのまま立ち尽くした誰何は、ただじっと目の前のドアを見つめ続ける。如何にして破ろうか。そんな思案を巡らせているのだろう。
 やがて誰何はもう一度ドアに自らの両手をついて押し始めた。その姿勢は初めとまるで変わっておらず、考え尽くしたものの結局何も良い手段は見つからなかったように見えた。
 しかし。
 次の瞬間、誰何の手はするりとドアの中へ潜り込んでいった。それはまるで水を相手にしているかのように、ドアには傷も付けず自らの腕を潜らせたのである。
 誰何の体は止まらずに前進を続け、腕から肩、体と、遂には完全に自らの姿をドアへ溶け込ませてしまった。しかし、ほぼ同時に誰何はドアの向こう側から、今度は逆に水面から浮上するようにゆっくりと姿を現していった。ドアには水面のように静かな波紋が一つ立った。
 再び元の実体を得ると、誰何は脇目も振らずリノリウムの床を一目散に駆けていった。その足取りは、心なしか喜びに満ちているようにも見えた。
 後に残されたのは、ひしゃげた卵型の物体と不気味な静寂だけだった。今、ここで繰り広げられた異様な現象は誰一人として目にする事はなく、ただ誰何が立ち去ってしまったという結果だけが記録として残っているだけだった。
 清浄器が静かに音を立てて出力を上げ始めた。誰何が物体から這い出した時に埃が立ったからである。



TO BE CONTINUED...