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 時刻は午後六時。私がいつも買い物に行く時間である。
 私は早速、マスターから自分に買い与えられた浅葱色のダッフルコートに袖を通した。ロボットは人間のように外気の温度に対してさほど敏感ではないのだが、この季節に上着をつけずに外を出歩くのは傍目にも目立ってしまう。ロボットが人間社会に溶け込むには、こういった人間ならではの弱点を補う行為を、たとえ不要でも取らなくてはいけないのである。
 カードは胸の内ポケットに大切にしまい込み、麦藁に似た合成樹脂を編み込んで作られた買い物袋を手にする。これで準備は万全だ。
 私は書斎までやって来ると、そっとドアを開けた。
「マスター、私はこれから買い物に出掛けますが、何か入用のものはありますか?」
 マスターは今日の診察の残務処理をしていた。マスターのカウンセリングは個人での営業行為に当たるため、収支計算も自分で行わなくてはならない。それらの計算ならロボットである私の方が得意なのだが、マスターは自分と私との役割分担を明確化したいため、自分の業務と定めた作業は例外的な理由がない限り自分で行うのである。
 私の問いかけに、マスターは座ったままくるりと椅子を回してこちらへ振り向いた。
「そうだなあ。おっと、消しゴムがもうないや。あと、いつものミントキャンディもお願い。それからビールも少し飲みたいな」
「やっぱり、ダイエットビールですか?」
「悔しいけどね」
 カウンセリングを始めて以来、マスターはよく何かの作業中にミントキャンディを口にするようになった。それよりも以前は作業中に何かを口にする事はなかったのだけれど、カウンセリングの仕事とは単純作業とは違い集中のベクトルが違うらしく考える割合が増えたためだろう。何かを考えながら行う作業中、空腹感とは別に口寂しさを覚える人は少なくは無い。マスターの場合はその感覚をミントキャンディで紛らわせているのだ。何故、ミントキャンディなのかは個人の好みなのだが、特にマスターの場合はスーパーで売っている大きな缶一杯に詰まった徳用品しか口にしない。一個当たりの値段を考えると気分が良くなるかららしい。それならば何もキャンディにこだわらなくてもいいように思いはするが。
 玄関を出て、ドアがしっかりロックされたのを確認すると、早速近所のスーパーへ出掛けた。
 念のため、先ほどマスターから受けたリクエストをメモリ内に展開する。最も一般的なメーカーであるテトラペンシル社の事務用消しゴムが一つ、白絹屋製菓の業務用キャンディのミント味が一缶、ダイエットブームの再燃に乗じて昨年末に発売した99ドリンク社のノンカロリービールを一本。マスターは具体的なメーカー名までは指示していないが、マスターは一度これと決めたメーカーの商品だけを使い続ける性格であるため、わざわざ改めて指示を仰ぐ必要は無いのである。修正が必要な場合は、マスターの方から指示が出るのだ。
 買出しのリクエスト程度なら、私が準備作業中にマスターへ通信で連絡を入れ、後からマスターが必要なものを返信する方が効率はいい。しかしあえてそうしないのはマスターの方針である。過度のコミニュケーションの効率化は軽んじる事と同義であり、人間関係そのものを希薄化する事になるからである。私がセミメタル症候群に陥らないのも、マスターのそういった配慮のおかげだ。
 さて、今日の夕食は何にしようか。
 通りを歩きながら、姿勢制御とナビに平行して思考ルーチンを展開する。
 どれも一昔前までは非常に高負荷の処理でとても並列化など出来るはずが無いと思われていたのだが、それを可能にしてしまったのは皮肉にも処理概念を全く理解していないハードメーカーだった。処理の効率化が実現するよりも先に、マシンの処理能力が飛躍的に進歩してしまったのである。私の機能の中核を成すパーツもまた同様に高速処理能力を持っているが、マスターによって更なる効率化を実現している。そのため私のリソースにはまだ随分と余裕があった。
 私はマスターからリクエストが無い限り、食事の献立はスーパーで商品を見ながら立てるのがほとんどだった。あらかじめ、ある程度ウェブ上から今の時期が旬の食材を検索してリストアップしてはいるが、やはり最も重要なのは食材同士の相性だ。良い料理を作るためには、旬の食材は一つか二つ程度に留め、それを生かす組み合わせを考える方に重点を置くものである。
 三つ目の交差点を曲がって大通りに出ると、途端に通りを歩く人の数が増えた。姿勢制御のレベルを上げ、擦れ違う人物にぶつからぬようセミオートでの回避に切り替える。
 通りを歩く人々の中で、時折私を興味深げな視線を投げかける人がいる。それは無理も無かった。一年前、私はマスターと共にメタルオリンピアに出場し、その中で最も人気のある種目であるギャラクシカで準優勝を収めた。その際に世界中に大々的に顔が報道され、更にマスターが直後の記者会見場で言い放った決定的な言葉が印象を更に強めている。一年という期間は大衆の熱を冷ますのに十分な時間ではあったが、ギャラクシカには熱心なファンも多く、特に前回のギャラクシカの決勝戦は前代未聞の結末であったため、私の顔と名前は一部のフリークの間では未だに良くも悪くも有名なままなのだ。
 目立ちたくなければそれなりに人相を分かり辛くするような格好をすればいいのだが、それはマスターの主義に反するものだ。自分が間違った事をしていないのであればこそこそする必要は無いのだ。けれど、主義は主義でそれ自体が特別な力を持っている訳でもないから、誰かに明らかに注目の視線を向けられた時はどうしても変装するという選択肢を意識してしまう。
 私がいつも利用するスーパーは、今日も駐車場に沢山の車が止まっていた。近郊では最も規模の大きいこのスーパーは利用者も多く、夕食前の時間帯は非常に混雑する。私は人込みに自分を溶け込ませるのが好きだった。何故なら、これだけ人やロボットで溢れかえっていれば、私一人にわざわざ着目する人など滅多にいないからである。
 買い物袋をぶら下げながら出入り口でプラスチックの買い物カゴを手に取り中に入っていく。
 まずは精肉コーナーへ向かった。ざっと見た限り値段は極標準的なもので、特別なセールは行われていなかった。マスターはあまり牛肉を好まないため、豚肉と鶏肉とのコーナーを交互に見比べる。比較的豚のばら肉が安いだろうか。ならば今夜はポークシチューにしよう。
 ばら肉の塊をカゴに入れ、続いて青果コーナーに向かう。シチューには新鮮な野菜が無くてはならない。それもメインになる野菜と付け合せ用の二種類だ。
 まずは基本的なものから。
 タマネギ、ニンジン、じゃがいも、いずれも区画ごとに区切られたスペースの中で山積みにされていた。質はいつもと何ら変わらず、鮮度は栄養価を十分に保っている。どれを取ってもまず問題は無いだろう。早速カゴの中へ順に入れていった。
 と。
 ふと私の視界に小さな影が映った。
 それは一人の子供だった。昨年優勝したフットボールチームのロゴマークが入ったキャップを深く被り、青色の薄い生地のシャツだけを着ている。
 この季節になんて格好をするのだろうか。
 しかし、そんな格好のこの子に注目しているのは、周囲では私しかいなかった。誰もが気にも留めていないのか珍しくも無いからなのか一瞥すらしようとせず、それぞれの買い物に没頭している。まるで初めから視界に映っていないかのように。
 そんな格好で寒くはないのだろうか。
 そう視線を向けていた次の瞬間。
 あ。
 不意にその子供は目の前のりんごを鷲掴みにすると、素早く服の中へ滑り込ませるなり逃げるように走り出した。いや、ように、ではなく文字通り逃げているのだ。
 泥棒だ。
 私は咄嗟に飛び出してその後を追った。子供と私とでは体格だけでなく基礎的な瞬発力が違う。私はその子供が商品棚の角を曲がろうとした所で、難無く後ろから肩を捕まえた。
「泥棒はいけない事ですよ」
 まさか呼び止められるとは思ってもいなかったのだろう。その子はびくんと肩を震わせ、振り向くなり驚きの表情を一瞬向けた。だが直後、咎められた事で臆するどころか、逆にこちらをじろりと睨みつけてきた。そして、
「お前、ロボットのくせに変なこと言うんだな」
 そう、さも憎々しげに吐き捨てた。
 え?
 驚いたその隙を突かれ、子供は私の手を振り払うと一目散にどこかへ走り去ってしまった。子供の小さな体はあっと言う間に群衆の中へ溶け込んでしまい、その背中も間もなく見ることが出来なくなった。
 ロボットである私が追いかければ、決して追いつけない速さではなかった。けれど私は走れなかった。アクションそのものをメモリに展開する事が出来なかったのである。
 そんなに私は変な事を言ったのだろうか?
 私はまるで機能不全に陥ったかのように、そのまま立ち尽くしていた。
 突然の処理停止を、これが驚くという事なのだろう、と自己分析した。けれど、私はどうして自分の言葉を指摘されたのか理解出来なかった。私の言葉は社会的にも決して間違った言葉では無いという自信があったからである。



TO BE CONTINUED...