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「確かにさ、犬猫を無闇に拾ってくるなとは言ったけど……」
 帰宅後。
 人が三人も立てばそれだけで閉塞感を感じる狭い玄関で、マスターはただただ深い溜息をつきながら憂鬱そうに頭をかいた。
「なんでよりによって子供なんか拾ってくるかな?」
「す、すみません……」
 私はただただ深々と頭を下げるばかりだった。そんな私の影に隠れるかのように、その子は袖を掴みながらじっとマスターの方を睨んでいる。私がマスターより叱責を受けているから、マスターを私に対して悪意を持つ悪者だと判断しているためだろう。
「で? 一体どこから連れてきた訳? 親が心配して探してるわよ」
「いえ、その……。探していた人達が銃を持っていましたので……」
 は、と言葉を発し、マスターがぴたりと動きを止める。顔には明らかに怪訝の色を浮かべている。
 まず目に付くのは、この子の着ているものだ。この寒さの中、薄手のシャツだけで外を出回るのは少々一般的ではない。もし、それがこの子の生まれた家庭の事情のためであるならば致し方ないだろう。けれどこの付近でそういった事情を持つ家庭は見た事が無いし、わざわざ外へ出るのも不自然だ。となると、また別な事情となってくるのだが。
「ふうん……いわゆる訳アリって奴? ったく、面倒な事になったわね」
 その言葉に、私は自分の着眼点が誤っている事に気が付いた。マスターが訝しむのはこの子の格好ではなく、その、銃を持った人間が探していた、という事実なのだ。
 マスターはもう一度溜息をつくと、くるりと踵を返しリビングの方へと向かった。そして、
「いいわ。とにかく中に入りなさい。ラムダも夕食の準備」
 そう大げさに肩をすくめて見せた。
 かなりの譲歩を戴きはしたが、家に上がる許可は得られたようだ。ひとまず私は安心する。
 買い物袋を廊下へ置き、靴を脱いで廊下に上がりコートを脱いでかける。そしてその子も上がるよう促そうと振り返った。と、
「あっ」
 ふと私の目に映ったもの。それは、その子の足だった。今初めて気づいたのだが、どうやら初めから靴を履いていなかったらしく、泥と埃で真っ黒に汚れていたのである。さすがにこの足で上げる訳にはいかない。
「ここで待っていて下さい。今、洗う準備をしますので」
 私はすぐさまバスルームへと向かった。タライにお湯を溜め、満たし切るまでの間に貰い物の新しいタオルを二本持ってきて、一つは洗うためにお湯に浸して軽く絞った。再び玄関に戻って来ると、その子はやや不機嫌そうに私の方を見ていた。急にほったらかしにされたのが気に入らなかったのだろうか、視線が非難がましい。
「では、ここの縁に座って下さい」
 玄関との段差にその子を座らせると、タライを足元へ置き汚れた足を漬けた。
「熱くはないですか?」
 そう訊ねるとその子はぶるぶると頭を横に振る。念のため自分で温度は確認していたが、体感する熱さは人間には千差万別なのだ。そういった配慮を欠くと火傷をさせてしまう。
 汚れた足をお湯で揉みほぐしながらタオルで洗い始める。しかし思ったよりも汚れは酷く、見る間にお湯の色が黒ずんでいった。汚れの酷さは裸足で歩き始めたのが昨日今日ではない事が窺える。
「どうして靴を履いていないのですか?」
 けれどその質問に対してその子は答えようとしなかった。言いたくない不本意な理由でもあるのか、もしくは理由を知らないという事なのか。
 足の裏は皮膚が硬質化しておらず、驚くほど柔らかかった。けれど、そのせいで大小の傷も随分多くある。しかしこれは少しおかしなことだ。この柔らかさ、まるで生まれてから一度も歩いたことがないかのようである。
 今まで一度も歩いた事のない人間が、ある日突然、裸足で外に飛び出した。そう推察するのが最も自然だったが、そういう状況が生まれる事自体がとても不自然な事だ。それに、一度も歩いた事のない人間がそう簡単に歩けるようになるはずがない。ロボットとは違うのだ。設定値と実測値の誤差を修正するのは微細な事で、ロボットは回路を用いて演算し適正な値を弾き出すが、人間は何度も何度も失敗を繰り返し慣らす必要があるのである。
 やがて洗い終わった足を乾いたタオルで拭くと、お湯の熱さでやや高潮した足が現れた。子供らしい柔らかな肌だ。けれど、あちこちが傷だらけである。このままでは辛いだろうから、後で軟膏を塗ってあげた方が良さそうだ。
「リビングへ先に行っていて下さい。そこを右です」
 するとその子はすぐに飛び上がり、リビングへと元気に走って行った。傷の痛さはあまり気にしていないようだ。元来、子供とは多少のケガにもいちいち敏感に反応するものだけれど、この子はもうこの程度のケガにはすっかり慣れてしまったのだろう。
 私は汚れたお湯を捨てに再びバスルームへ向かった。排水溝へ勢い良く流し捨て、軽く水を張ってタライを濯ぎ洗いして流し捨てる。そしてすっかり黒くなってしまったタオルを水で綺麗に洗った。
 素足で長い間外を歩き回っていたという事は、からだも随分と汚れているはずだ。夕食の準備の間に、一度シャワーだけでも浴びさせるべきだろう。けれど、肝心の着替えがない。私のものでは少々サイズが大きすぎるし。
 自分の手を綺麗に洗い、私はバスルームを後にしてリビングへと向かった。
 あれ?
 私はリビングの方が随分と騒がしい事に気が付いた。聞こえてくる声は、マスターとあの子だ。
「ちょっと、ボウズ。うちの中では帽子ぐらい取れ」
「誰がボウズだ、オ、バ、サ、ン」
 まずい状況だ。感覚素子の収集したデータは、共に脈拍数が平素の域を大きく飛び出している。
 リビングに向かう足を早め、急いで飛び込んだ。すると案の定、二人はリビングの真ん中で顔を紅潮させながら対峙していた。
 マスターの手が、テーブルの上に置かれていた週刊誌をおもむろに掴み取ってくるくると棒状に丸めた。それを見た私は、自分がしなければならない行動をすぐさま判断した。
「落ち着いて下さい!」
 飛び出した私は、背後からマスターの両腕を掴み押さえた。決して私の行動は遅いものではなかったのだけれど、既にマスターは棒状の週刊誌を振り上げていた。
 本当に、この子の頭に目がけて振り下ろす事に躊躇いというものがない。だがそれ以上に驚くのは、激高するマスターを前にしても全く物怖じしないこの子だ。なんという怖い物知らずなのだろうか。少しは逃げる素振りを見せてもいいはずなのだけど。
「このクソガキ! 失礼なこと言うな! 誰がおばさんだ!」
 尚も私の手を振りほどこうと暴れながら、マスターはその子を怒鳴りつける。すると、
「そっちこそ、ボウズって呼ぶな! 俺は女だぞ!」
 その子は突然そんな事を叫ぶと、着ていたシャツのボタンを外し胸元を大きく開いて見せた。
 はっ、と私は息を飲んだ。そこには言った通り微かだが膨らみがあり、確かに女性であるようだ。私は身振りや言葉遣いで、何となくこの子を男の子だと思い込んでいた。それだけに見せつけられた証拠がより衝撃的だった。
「とにかく、マスター、あまり大声を出しますと御近所のご迷惑になりますから……」
 さすがに不意をつかれて俄に冷静さを取り戻したマスターは、渋々私の言葉に譲歩する姿勢を見せてくれた。振り回していた腕をそっと下ろし、丸めた雑誌をテーブルの上に放りなげる。そして空いた両腕は腰に当て、軽く左足へ体重をかけた。
「ああ、もう分かったから。それで名前は?」
「知らない。ただ、みんなにはナインって呼ばれてた」
 外したボタンをはめ直しながら答える。こちらも気持ちを静めてくれたようだったが、視線は床に落としたまま合わせようとはしなかった。
「ナイン?」
「そう、ナイン。八の次、十の前」
「数字の九ってこと? なにソレ、管理番号?」
 マスターは冗談めいた口調でそう言った。
 ちゃんと答える気がないのか。
 それは私にもそう思えた。数字を含む名前は決して珍しいものではないが、数字を人の名前にする事なんて聞いたこともないのだ。それは名前ではなく、別名としてつけられる記号である。
 疑いの視線を向ける私達。するとその子は突然、被っていたフットボールチームのキャップを脱いだ。
「えっ?」
 ロボットのくせにおかしな事なのだけれど、私は無意識の内に驚きの声を上げてしまった。
 キャップの下から現れたのは、まるでファイバー部品のように鮮やかな青の髪だったからである。その色が染色ではない事は、私の視覚素子が故障していない限り、紛れも無い事実だった。地球上どこの人種にもないその不自然な髪の色は、確かにこの子が生まれ持った色素なのである。
「これでもまだ信じない?」
 そして、眉にかかるほどの前髪を右手でかきあげ額を露にする。そこにはアラビア数字で、009、と刻まれていた。肌の色の加減ではない。これは人工的な色素を用いた、いわゆるタトゥーだ。
「あんた、今までどこにいたの?」
「知らない。ここよりもずっと広い大きな建物の地下で、カプセルから出たり入ったりしてた」
 それはあまりに非現実的な空気を漂わせる言葉だった。私は呼吸をしてはいないけれど、思わず息を飲み込んでしまうような気分だ。
 まるでロボットのような扱いだ。
 ロボットである自分がロボットを否定的な比喩に用いるのはおかしな話だけれど、そう思わずにはいられないほど、そのタトゥーは衝撃が強かった。量産型のロボットにはハンドメイド型とは違ってシリアルナンバーが振られる。しかし、人間にそんなものを振るのは、そもそもの必要性がない。ロボットとは違って、生まれ持った自我という尊ぶべきものを否定する、非情な行いだ。自我の無いロボットである私ですら、込み上げてくる不快感を隠せない。
「なんかさ……ヤバイ事に首突っ込んだ気がするんだけど」
 顔を見合わせたマスターは、私と同じ事を考えていた。
 生活様式には人種や国籍それぞれの様々なものがあるのだけれど、世界中どこを探してもカプセルの中で暮らすような文化はないはずだ。単にカプセルと言っても、それは医療用の高濃度酸素室なのか、感染症を防ぐための無菌室なのか、種類はたくさんあるためどれかに限定は出来ない。しかし、この子のあまりに特異な髪の色を見ると、どうしても思ってしまうのだ。そのカプセルは、普通の人間やロボットには決して縁があるようなものではないものだと。
 この事は、後からじっくり調査して整理しよう。
 マスターがそう私に目で訴えかけ、私もまた頷き返した。これはそう簡単に片付けられるような問題ではないのだから、じっくりと精査を繰り返して慎重に行う必要があるのである。だから今はまだ深くは触れないのだ。
「とりあえず、何か呼び名でもつけないと不便ね。数字で呼ぶのは忍びないし」
「どうしましょう? 私には重要な名称をつける事は出来ません」
「そうねえ……じゃあココって呼ぶ事にするわ。九つのココ。呼び易いしね」
 マスターはいい加減に決めてはいないだろうか。何故なら、同じ音を二度続けるのはあまりに安易すぎるからである。
 しかし、その子は思ったよりも興味深そうな反応を示した。初めて自分に固有の名称を与えられた事に喜びを感じているのだろうか。
 私が安易だと思ったとしても、本人が気に入っていればそれで良いだろう。何よりも名前の選択権は、本人自身にあるのだから。
「私もそう呼んでいいでしょうか?」
「いいよ。でも、そっちのおばさんは駄目」
「まだ言うか、このクソガキ!」



TO BE CONTINUED...