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「うわ、もう来やがった!」
 そう叫ぶマスターの視線は、私を越えた更に後方へ注がれている。走りながら私も振り返ると、そこには先程シヴァが横転させたのと同じ大型トラックが猛スピードでこちらに向かって来ていた。予め待機していた増援部隊が異変を察知してやってきたのだろう。たったこれだけの民間人相手に、なんと手の込んだ事である。
 車の後部座席に私達は雪崩れ込むように乗り込んだ。
「出しなさい!」
 ドアを閉める暇も無く、空かさず鋭い声で指示を下したテレジア女史を合図に車が甲高い摩擦音を立てながら急発進した。私達は半ばもつれながら慣性の法則によってシートへ体を押し付けられ、すぐさまその反動で前方へ体を投げ出される。それでもなんとか私は、半開きになっているドアをきちんと閉めた。
「うわ、ぶつかるよ!」
 そう声を上げたのは、運転席後ろにつけられている覗き窓からフロントガラス越しに前方を見た、反動で一番前方へ投げ出されたココだった。
 もう一台のトラックは全く避ける素振りなど見せず、むしろあえてこちらにぶつかって来るようであった。もしもそんな事になってしまったらひとたまりも無い。この車がどれだけ頑丈だったとしてもそれは単に壊れないだけで、もしも接触してしまったら、鉄の箱に卵を入れて転がすのと同じ結果になってしまうのだ。
「どこかへ掴まっていて下さい」
 天井の隅につけられた小型の送受信インターフェースからシヴァのやや劣化した声が聞こえて来る。次の事態はすぐに予想が出来た。それはまさに、つい先週見たばかりの映画と同じ光景である。
 瞬間。
 まるで見えない腕に背中を突き飛ばされたような態勢で反対側の側面へつんのめると同時に、車の外から聴覚素子へ突き刺さるような激しいブレーキ音が聞こえてきた。
 咄嗟に体位を入れ替えて、革張りのソファーに背中からぶつかる。それでも体はぎりぎりとその方向へ押さえ付けられて身動きが取れない。車は前タイヤを中心にしてリアを振り子のように滑らせている。それは格闘技の試合で相手から繰り出されたパンチを、素早く半身をそらす事で相手との軸をずらし回避するテクニックによく似ていた。車の愛好家達なら、もっと適切なスラングで表現するのだろうけど。
「わわっ!」
 すると、一番前にいたはずのココが、文字通りまるでボールのように私へ向かって突っ込んできた。思わず受け止めたはいいが、ただでさえベクトルがかかっている所へ更に衝撃を受けたため、私は元からありもしない自分の息が止まってしまったかのような錯覚にとらわれた。
 車の横滑りが止まる。すると今度は、前方へ急加速したため、またしても体が後ろへ引っ張られた。けれど私はソファーの袖を掴み、今度は飛ばされぬようなんとか反動に耐えた。
 この乱暴な運転の仕方、おそらくシヴァはかなり強引にトラックをかわしたのだろう。向こうにしてみれば、何も必ずしも車に当てる必要は無い。ただ減速させるだけ良いのだ。再加速にもたついている所へ、改めてもう一度ぶつけてやるだけの話である。しかもこんな目と鼻の先の距離でだ、彼らにとってみれば有利この上なく実に造作も無い事だ。
 にもかかわらず、全く減速や接触もせずに車を操って回避したシヴァ。きっと運転技術もプロ級のデータが入力されているのだろう。プロの運転技術にロボットの演算能力が加われば、まさに最強のドライバーである。
「ふう、ようやくまきましたわね」
 そうテレジア女史が安堵したのをきっかけに、私も思わず自らの緊張を解いた。
 マスターは一番後部のソファー、テレジア女史のすぐ隣にいた。しかし、まるで滑り落ちたかのような格好で床に腰をついている。私も似たように側面のソファーで仰向けになりかけているし、その上にはココが大の字になって俯せている。ただ一人テレジア女史だけが、悠然と足を組んでソファーに深く腰掛けていた。
 私も起き上がって姿勢を正すと、窓から外の様子を覗き込んだ。既に私の家は見えなくなっており、中央通りを随分と北上していた。街を行き交う人達は普段と変わりなく、あんな出来事が近所で起こったなんて微塵も知らないような素振りである。
 そんな姿を見ていると、まるで自分が知らない世界へ紛れ込んでしまった異邦人のように思えた。本来なら共有して当然のはずの日常に、これほどの格差が生じる事そのものが異常なのである。そう、今の私達が身を置いているのは紛れも無く非日常の領分だ。
「で、どうする訳? 政府敵に回しちゃったら、こっちも迂闊に動けないんだけど」
「御心配には及びませんわ。今夜の出来事をありのままに報道してしまえば、芋蔓式に触れられたくない所までジャーナリストに知られてしまいますもの。連中も迂闊に公には出来ませんわ。予定通りにココの存在をマスコミにリークするだけです。迷子の子供を保護している事と、その結果あのようなトラブルに巻き込まれた事をね」
「取り用によっては立派な牽制ね。まあ、そんな事よりもこっちの心配は当面の仮宿。うちにはしばらく帰れないし。チクショウ、あれって保険下りるのかよ」
「では、当分の間は我が家の別荘にでも潜伏しなさいな。ほとぼりが冷めるまで」
「潜伏ねえ。別荘貸してくれるってのはありがたい話だとは思うんだけどさ、なんで悪くも無い私達がこそこそせにゃならんかな」
「仕方ありません。国家というものは、善悪を独善的に決定するものですから。今は我慢の時ですわよ」
「知ってるよ、それくらい。ただ、納得出来ないから愚痴っただけだ」
 今、私達が狙われているのは、国家機関である可能性がかなり高い。むしろ、それを前提に考えて差し支えないと言っても構わないだろう。あまりに情況証拠が揃い過ぎているのだ。家を襲った謎の軍団、テレジア女史が聞いた衛国総省の機密事項、そして、もしかするとその機密かもしれないココ。私達を犯罪者とする包囲網は限りなく完成に近づいている。首の皮一枚、というたとえがそのまま当てはまる状態だ。
 一体これからどうなってしまうのだろうか。
 私はどうしようもない不安に駆られ、心のどこか奥で怯えていた。自分にとって大切な日常の構図を、自分の力の及ばない存在によって引き裂かれてしまいそうな気がしてならなかったのである。そう、エモーションシステムとは、そんな弱さも作り出してしまうものなのだ。私は、そんな形の無い曖昧なものが無ければ、生きていく意欲を生み出す事が出来ないのである。人間が自らの生き甲斐を失ってしまうのと同じように。
 でも、こんな時だからこそ私が弱気になってはいけないのだ。マスターはそれ以上に不安感を覚えているかもしれないし、その裏返しの気持ちが反動となって逆に打破しようと躍起になっているかもしれない。そんな時に、従者である私が使い物にならなくてどうするというのだ。私はマスターの手足となり、マスターの思い描く理想を実現するため粉骨砕身しなくてはならないのだ。私には沈んでいる暇など無い。何かに落ち込むよりも、皿を一枚洗った方が遥かに有意義なのだ。
 当面の課題。
 まずは保険会社へ問い合わせをし、補償してくれるのかどうか、可能ならばその時期について詳しく説明を受ける事。それから家の修理を建設会社に依頼し、費用と期間を見積もって貰う。それから、おそらく警察からの事情聴取もあるだろう。そして忘れてはいけないのは、ココの事をマスコミに明かす事だ。これは事情聴取とほぼ同じ時期になるだろう。マスコミがこんな大事件を放っておく訳がないのだ。衆目の目も集まるのだから、きちんと自分達の立場を明確に示さなくてはならない。ココは怪しい人物に襲われていたのを私が助けて保護している事、それからさも因果関係があるかのように、この事件が起こったという事を。
 だが、法的に責任能力は無いとされるロボットの私に出来るのは見積依頼ぐらいだろうか。そのほとんどは一番の当事者のマスターが行わなくてはならないのである。
 こんな時、私は自分のいたらなさを不甲斐なく思う。責任という概念を理解し、それそのものを持っている自覚が私にはある。けれど、ロボットの責任感とは世間的に存在を認められてはいないのだ。それは、ナイフで人を殺しても罪を問われるのはナイフを使った人間だけという理屈と同じだ。
 だから私は、少しでもマスターの負担を軽くするために、裏方となって徹底的にサポートしていかなくてはならない。マスターの負担が減り効率性が増せば、どれほどの激務もきっと乗り越えられるはずなのだ。あくまで自分はサポートなのだ。ロボットとは本来そんな存在である訳でもあるのだから。
 ふとその時。
 私は、先程からやけにおとなしいココを見やった。すると、体を屈めるように膝を抱き、何やら小刻みに震えているのが分かった。それは明らかに不自然な様子だった。いつもあんなに珍しいものには目が無いココが、大人数人がゆったりと乗れるほど広い高級車の中に居るというのに大人しくしている理由が見当たらないのだ。
「どうしました、ココ?」
「あう、気持ち悪い……。吐きそう……」
 ココは真っ青な顔で更に小さく体を丸める。その格好は自分の中から飛び出そうとする何かを押さえ込んでいるように見えた。顔にはびっしょりと脂汗が浮かんでいた。それなのに体温が若干下がっている。明らかに不調を来たしているようだ。
 そうか、車に酔ったんだ。さっきもあんなに激しく揺さぶられたんだし。
 人間は乗り物に乗った際、歩行では決して起こり得ない不自然な力に見舞われる。するとそれが引き金となり、三半規管が混乱を起こして嘔吐感や目眩に襲われるのだ。これは成長と共に自然と消える現象なのだが、ココはまだそこまでの成長には至って無いようである。
「シヴァ、車を止めなさい!」
 テレジア女史が血相を変えて叫ぶ。
 無理も無い。もうしばらくはこの車で移動しなくてはいけないのだから、汚してしまえば到着までそれと付き合わなければいけなくなるのである。



TO BE CONTINUED...