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 現在時刻、午前五時。
 休眠モードより通常モードへダブルシフト。熱上昇率修正。
 最低限の機能だけを残して待機状態にしていたシステムを起動させ、簡易的なボディチェックを行う。内部熱、放熱パネル、エネルギーバス、いずれにも不具合は見つからず正常な値を返して来る。今日も私のシステムは良好だ。
 私はゆっくりとベッドから体を起こした。仕事には朝でも休みは無い。私が自分に与えられた業務をこなさなければ、マスターの生活に大きな支障を来たしてしまうのだ。そうならないために働くのは、生活補助を目的とするロボットの存在意義である。
 と。
 起き上がった瞬間、私は一瞬ぎょっとした。何故なら、周囲の風景が普段見慣れた寝室とはまるで違っていたからである。
 ああ、そうだ。すっかり忘れていた。データ的には理由が存在するのに、日頃思考の大部分をエモーションシステムに依存しているから、データとの連携に誤差が生じてこういう混乱をしてしまうのだ。
 私は何故自分が見知らぬ部屋で目が覚めたのか、その理由を思い出した。今、私達はテレジア女史の所有する別荘の一つを間借りしているのである。それは昨夜、衛国総省の関係者と思われる部隊に自宅を襲撃され半壊し、命からがら逃げて来たからである。偶然にもテレジア女史とシヴァが居合わせていたのは幸運だった。おそらく私達だけではあの事態を切り抜ける事は出来なかったはずだ。私は戦闘用に換装されてはいないし、マスターは戦闘訓練を受けた人間ではない。ココに至っては全くの論外だ。その点、シヴァは専門に設計された完全な戦闘用ロボットだ。あの程度の部隊などまるで物ともせず、ほとんど一人で鎮圧してしまった。まだシヴァには理解できる概念なのかどうかは分からないけれど、私は随分大きな借りを作ってしまった事になる。本来なら私が助けなくてはならないマスターを助けてもらったのだから。
 視覚素子を調整し周囲を見渡す。およそ三十畳ほどの広いゲストルーム、私の居るベッドの隣にはもう一つベッドがあり、そこにはココが着ているものを跳ね除け大の字になりながら眠っていた。昨夜は色々な事が起こって目まぐるしかったはずだから疲れたのだろう。まだ起きる時間には早いため、私は起こさぬようそっと毛布を駆け直した。
 服を着替えて寝室を後にする。廊下の突き当たりに位置するこの寝室は、向かい合うようにもう一つのゲストルームがあった。マスターは昨夜はここに泊まっている。時刻はまだ五時を過ぎたばかりの早朝だ、夜型のマスターが起きて来る時間でもなければ、起きなければいけない必要も無い。
 廊下のもう端の階段を下りてリビングに下りる。広がるリビングはやはり広く、十数人ぐらいのホームパーティならすぐに出来そうなほどであるが、一人しかいない今は逆に殺風景なだけだった。
 テレジア女史はこういった別荘を幾つか所有しているという話を聞いたが、ここはその中でも比較的古くて狭い部類に入るそうだ。都心へのアクセスが容易という立地条件が良かったため買ったのだが、当時はまだ物件を見極める目が無く、建物自体も外からざっと見ただけで買ってしまい、実際に購入してみて失敗したと思ったそうである。その、当時、とは一体幾つの時の話なのかは聞かなかったのだけれど。だが、建物は実際非常に真新しく、新築と呼んでも問題は無いほどだ。確かに収納の中には何も入ってはいないため生活臭が感じられないが基本的な家具は全て揃っており、これほどの物件をしばらくの間無償で借りられるなんて一般人にはとても信じられない話である。さすがはテレジアグループ総帥といったところか。
 広々としたキッチンは染み一つ無く、まるでショールームのような真新しさが目に付いた。けれどコックを倒せばすぐに綺麗な水が出てきて幾らでも汲む事が出来るし、ホットプレートも調理には全く問題ない。
 続いて、どうなっているのかは知っているが、それでも冷蔵庫を開けて見た。やはり中身どころか電源すら入っておらず、中は家電売り場に展示されているものと同じプラスチック独特の奇妙な温かさが充満している。
 キッチン周りを調べてみたが、調理器具は一通り揃っていた。けれど肝心の材料が無くては意味が無い。私はともかくマスターやココは食事を取らなくてはいけないのだから買出しに行かなくては。私は早速冷蔵庫の電源を入れた。
 すぐさま私は玄関に急ぐと、かけていたコートを着込みドアに手をかけた。けれど、そこで私はふと立ち止まった。今の私達は衛国総省にマークされている身なのだ。ここは周囲に人家も無いため、突然ここに私達が住み始めてもすぐには誰も気づかないだろうし、衛国総省の方もテレジアグループがうまくフォローしてくれるはず。でも、外出するリスクは決してゼロではない。偶然の不幸というものは必ず日常に付きまとうのだ。私はその可能性を最小限にする義務がある。
 だがここで、もう少し考えてみる。
 人間は体を維持するため食事を取る必要性があり、危険だからと言って食べない訳にはいかない。買出し以外にもデリバリーという手段があるが、これは見知らぬ人間を招き入れるためリスクが更に高くなる。私も世間は誰も知らない顔ではないし、今日はココの事をマスコミに伝えるのだから、わざわざ自分達がここに居る事を伝えるなんて実に馬鹿げた行為だ。しかも事前にリークされていたら、やって来るのは配達員ではなく、昨夜のような武装した男達だ。やはりどの道、食料の買出しは行わなくてはいけない。
 近所には二十四時間開いている有名チェーンの小規模スーパーがある。付近のこういった別荘住まいの人が主な利用客層だろう。固定客の多い所では目立ってしまうだろうが、監視カメラが幾つも付けられ店内も狭いコンビニエンスストアに行くよりはまだ安全だろう。
 ふと私は上着掛けの天辺を見やった。そこには誰かが忘れて行ったらしい濃紺のニット帽がかけられていた。私の髪は明らかにロボットの色で目を引くから、それを隠すには丁度いい。私はニット帽を拝借すると、髪がすっぽり隠れるように深く被った。だが、髪は排熱の役割も持っているため、帽子を被るとどうにも違和感を感じて仕方が無い。他に排熱パネルもあり、早朝だから気温も低く、決して内部熱が溜まる事は無いのだけれど、それは犬が耳を触られるのを嫌がるように、どこか違和感を覚えて仕方ないのである。
 玄関を後にすると鍵がしっかりかかっているかドアを確認し、私は歩道に出て歩き始めた。
 上着の下に着たジャケットの胸ポケットにはマスターのキャッシュカードが仕舞い込まれている。これが無くてはどこの店でも買い物をする事が出来ない。
 私はマスターのキャッシュカードの管理をしている。マスターは生活に必要な支出を全て私に任せているからだ。だから使用して良いのは、マスターにとって必要な物を購入する場合と、そのために必要な費用のみだ。無論、私の勝手で使用してはならない。ロボットにそういった衝動は起こらないものではあるけれど。
 朝の歩道は全く人気は無く、人どころか車すら通らず、歩くのは私一人だった。隣の家すら何百メートルも離れているのだから、それも当然だろう。都心が近いという事で二十四時間経営なのだろうが、これほど人口密度が低い地域で果たして採算は取れているのだろうか? それとも、その分客単価を上げているのか。もしそうだとしたら、ただの買出しも少し高い買い物になるかもしれない。場合によってはマスターに判断を仰がなくては。
 と。
『ラムダ、どこいるの?』
 突然、プライベート回線から通信が入った。
 聞こえてきたのはマスターの声だった。普段はマスターとは顔を合わせて会話をするため通信する事がなかったため、久し振りの通信で思わず驚いてしまった。
「おはようございます、マスター。近所のスーパーへ向かっている途中です。食べるものが何もありませんでしたので」
『そっか。じゃあついでにミントキャンディもよろしく。タブレットタイプの携帯出来るヤツね』
「分かりました。朝食については何かリクエストはありますか?」
『特には無いけどさ、今日はちょっと忙しくなるから力の出るヤツがいいわね。がっちりと重く。それと、ミレンダも来るからさあいつの分も用意して。その後で打ち合わせもするからさ、そうだな、コーヒーもあった方がいいわ』
「了解しました」
『んじゃ、分かってると思うけど気をつけてね。何かあったらすぐ通信で連絡して』
 マスターとの通信が途切れる。それは繋いでいた手を離すような別離にも似て、そこはかとなく物寂しさが込み上げて来る。
 そういえば、マスターとの通信にもある程度のリスクが付きまとって来るのではないのだろうか。この付近で通信の傍受を草の根を分けて探すように展開している可能性は必ずしもゼロとは言い切れない。何故なら、昨夜投入された敵の数を考えても尋常ではないからだ。粘り強い力技で来られたらどんな暗号も無意味となってしまうように、ローラー作戦で捜索されてしまったらどれだけ慎重になろうとも必ず見つけられてしまう。慎重になるという事は、完全な防護ではなくてただの時間稼ぎなのだから。
 通信は本当に必要最小限に留め、行う場合もちゃんと暗号化をしておこう。レスポンスに若干不具合が生じるけれど、身の安全を考えれば致し方ない事だ。
 それにしても、私達の置かれた状況のなんと窮屈な事か。普段当たり前に行っている事に、いちいち最小限の注意を払わなくてはいけないなんて。
 以前に見た、マスターと気性が良く似ている刑事が巨大なマフィア組織と戦う映画もこんな状況だったけれど、現実には映画のように形式立った勧善懲悪は存在しない。正しい人間が必ず生きられるとは限らないのだ。生き残る事が出来るのは、危険を受け付けない力を持った人間、危機を打破出来る機転の早さを持った人間、そもそも死活問題とは縁の無い強運を持った人間のいずれかだ。
 これが誰かに命を狙われる緊張感。決して映画とは違う、紛れも無いリアル。
 見えない敵に、ただ漠然と抱く恐怖。ココが感じる重圧がどれほどのものなのか、ようやく私は感じられるようになった。



TO BE CONTINUED...