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「おーっす、ただいま」
 そういつもの口調でマスターが帰宅したのは、いつもの夕食の時間から一時間ほど経過した頃だった。
「おかえりなさい」
 すぐさま玄関で出迎える私。
 マスターは俯き加減で小さく溜息をついた。どうやら相当疲れている様子である。
「マスター、お風呂の準備が出来ていますよ。それと、ノンカロリーのものではありませんがビールもありますよ」
 するとマスターは、突然私の頭を引き寄せて抱き締めた。
「ああ、もう。お前は本当に気が利くなあ、そういう所に癒されるよあたしは」
 そうですか、と私は曖昧に微笑んだ。マスターにこうして感謝されるのはこの上ない喜びなのだけれど、その気持ちをストレートに表現する事は少々はしたないように思うからだ。私としては、嬉しい気持ちはあまり開けっ広げにせず静かに胸の中に留めておくのがスマートだと思うのである。
「あはははは! ばっかでー」
 と、リビングからココの笑い声が聞こえてきた。先に夕食を済ませ、お茶を飲みながらテレビのバラエティ番組を見ているのである。この時間は確か有名な若手お笑いグループの番組があったはず。それがお気に召しているようだ。
「ったく、あいつは。こっちの苦労も知らないでいい気なもんよね。さてと、私は先にひとっ風呂浴びるから着替え用意しておいて。それとビールはグラスも冷やしといてね」
「普通のビールですけど良いのですか?」
「今日はそのぐらいカロリー消費したからいいのいいの」
 そう言ってマスターは浴室へと向かった。
 マスターの疲れはどちらかと言うと精神的なものだ。今日一日で取材やら警察の事情聴取やら建設会社からの見積もりを依頼するやら、日常では縁の無い事ばかりが鮨詰めになっている。その上、ココの事や衛国総省の問題、あまつさえテレジア女史にはあんな事まであったのだ。一時すら気は休まらなかったはず。また明日からも身辺整理を行わなくてはいけないから、今夜はゆっくり休んでもらわなければ。
 私は二階の寝室へ向かうと、マスターの下着と部屋着を持って浴室へ向かった。脱衣所にはマスターの脱いだ服が散乱するいつもの光景があった。中からはマスターの気分良さそうな、しかし正しい旋律を若干踏み違えた歌声が聞こえて来る。
「着替え、ここに置いておきますね」
「おう、サンキュー」
 それからキッチンに向かうと、グラスを綺麗に洗って冷凍室へ入れる。それから肉じゃがと豚汁を温め直し始め、炊飯器の中の御飯を確認。ココは今日もたっぷり三杯食べたが、マスターの夕食に必要な分は十分に残っている。マスターの茶碗と箸、それからホウレン草の胡麻和えを盛りつけた小鉢をダイニングテーブルの上に並べた。
 やがて肉じゃがと豚汁が食べるのに丁度良い温度になったので火力を弱火に落とす。後はマスターを待つばかりとなり、私は特にする事もなくなったのでとりあえずマスターの向かい席に座った。
 それにしても、さすがにこの別荘は有名なデザイナーが設計したのかキッチンは使いやすく家事が非常にはかどるのだけれど、使い慣れていないせいかどこか引っかかるような違和感があった。やっぱり普段使い慣れたキッチンで家事をする方が良い。でもそれが今は物理的に不可能だから懐かしく思ってしまう。
「おいこら、子供は寝る時間だぞ」
「あ、エリカお帰りー」
「早寝しないと、いつまで経っても大きくなれないぞ」
「エリカだってさほど変わんないじゃん」
「うっせ、意味が違うわ」
 二十分ほど経過した頃、リビングの方からそんなマスターとココとのやり取りが聞こえて来た。マスターはお風呂から上がったようだ。すぐに私は立ち上がると、冷凍室から先程入れたグラスを、冷蔵庫から瓶ビールを取り出しテーブルの上へ。それからシンクの側にある小物入れから栓抜きを取り出した。ビールの栓ぐらい、ロボットなら指だけでも抜く事が出来るのだけれど、道具を使わず指や歯で栓を抜く人は少数派で、私は人間のように振る舞いたいから一般的な人間のように栓抜きを使うのである。
「ふう、さっぱりした」
 間もなくマスターは紅潮した顔で濡れた髪をタオルで拭きながらやって来た。
「お疲れさまです。さあ、どうぞ」
 私はマスターに冷えて白く曇ったグラスを差し出した。
「ではでは早速」
 マスターはすぐさま席に座ってグラスを受け取る。私はビールの栓を栓抜きで勢い良く開け、そっと瓶口をグラスに傾けてビールを注いだ。そして徐々に傾斜角を高くしグラスに泡を作っていく。これが上手なビールの注ぎ方だ。
 マスターはグラスに口をつけ、一気にごくごくと飲み始める。喉を鳴らして一心不乱に流し込む姿を、私は何かに取り付かれたようにじっと見つめていた。ロボットには食事が不要であるため、飲食の嗜好という概念を持っていない。だから、嬉しそうに特定の何かを、マスターの場合ならビールを、摂取する姿を見ると自分には無いものであるためとても羨ましく思うのだ。
 人間的な主観ならば、ロボットの飲食も決して不可能ではない。しかし、味覚というインターフェースは他の感覚器官と違って定義が価値観の分だけ存在するから調整が難しく、たとえ実現したとしても人間ほどの喜びは得られないだろう。飲食物を楽しめるのは人間だけの特権なのである。だから、それだけのためでもロボットから人間になる理由としては十分なのかもしれない。
「あー、うまい! やっぱ風呂上りにはサイコー!」
 一息でグラス一杯のビールを飲んでしまったマスターは、何かに堪えるかのように顔のパーツを中心に集めた表情で歯を食いしばる。それは多分、こういったシチュエーションで飲むビールが大きな刺激をマスターに与えるからなのだと、私は勝手に想像してみた。そこまで震えるほど、ビールのもたらす刺激とは大きいものなのだろうか? 私はいつものように、無駄とは分かっていながら自分も飲んでみたい衝動に駆られた。
「どうぞ」
「お、どもども」
 私がビール瓶を示すと、マスターは空になったグラスを差し出し、そこへもう一度ビールを注いだ。今度は一気には飲まず、こくりと一口だけ飲んでグラスをテーブルに置いた。どれだけビールを欲していても一杯目を一気に飲んでしまえば、不思議な事に二杯目からは極端に落ち着くのである。これも人間独特の構造上の理由なのだろうか。
「今、御飯の用意をしますね」
 私はキッチンへと戻り、温めていた肉じゃがと豚汁の様子を見た。丁度良い具合に香ばしい香りを立てており、もしも人間だったなら食欲をそそられるだろう。
「ん? ねえ、ラムダ。なんかそこらへんに随分ダンボールがない?」
 と、ダイニングテーブルの方からマスターの不思議そうな声が聞こえてきた。
「はい。昼間、テレジアグループからビスマルク様という方がお見えになりまして。今後、食料品や生活用品はテレジアグループが搬送しますので、マスコミ対策のためにも外出は控えるようにとの事でした」
「ビスマルク? ああ、あいつか。ミレンダの親父の腹心だったヤツだ。私、ああいうクソ真面目タイプは苦手なんだよなあ」
 そう苦笑いし、グラスをあおった。
 食器に肉じゃがと豚汁を盛りつけマスターの元へ運び差し出す。マスターは早速箸を持って、まずは豚汁から口をつけた。その嬉しそうな表情、たとえ言葉が無くともマスターが美味しいと思ってくれてるのが分かり、くすぐったいような気持ちが込み上げてくる。
「ラムダ、御飯も。今日は大盛りでね。明日に備えて少しでも体力つけないといけないからね」
 はい、と朗らかに答え、私は茶碗を持って炊飯器の元へ行き、要望通り普段よりも多めに御飯を盛りつけた。それを受け取ったマスターは、肉じゃがやホウレン草と一緒にもりもりと食べ始める。よほど空腹なのだろう、とにかく今日は忙しかったのだからこれぐらい食べなければ体が持たないのかもしれない。
「いやあ、それにしてもまいったよ」
 マスターがおよそ半分ほど食事を食べ終わる頃、私は三杯目のビールをグラスに注いだ。ビールには食欲を増進させる効果もあるから、まだまだ食べ足りていない感じだ。
「警察ではどうでした?」
「ったく連中ときたらさ、真っ先に『また変なものでも作ってたろ』なんて言いやがるしさ。ホント、ロボット工学者を何だと思ってんだろ。漫画に出てくるような紙一重と一緒にすんなっての」
 マスターは憤慨を示すように眉の間に皺を寄せながらグラスをあおぐ。
 それは多分、ロボット工学者ではなくマスター個人に対する疑いだろう。そう私は思ったのだが、それはあえて明言しなかった。思った事をそのまま何でもすぐ口にするのは子供のする事だからである。
「明朝、わざわざ公安が来て調査するってさ。所轄の鑑識に現場見せりゃ薬莢なんてすぐ見つかるってのに。テロの可能性もある、とか言ってんだけど、どうせやるならもっと有名なとこ狙うだろって思わないもんかね。マジでやってんだか、まったく」
 マスターは面白く無さそうに、豚汁を音を立てながら一気に飲んだ。お椀の中には僅かに残った汁と具が寄せ合うように集まっている。
「でも、マスターはどうお考えです? やっぱり、衛国総省の仕業だと?」
「仮説なんて幾らでも立てられるけど、もしココと衛国総省との繋がりを証明出来たら、それでまず正解でしょうね。連中が簡単に尻尾を掴ませてくれるとも思わないけど」
「それに、このまま成り行きを静観してるとも思えません」
「相手より先に動かなくちゃならないけれど、迂闊に動いたらそれこそ相手の思う壷。とにかく焦らない事ね。機は必ず来るモンなんだから。後はそれを見誤らない事と、自分達の足場固めをしっかりする事ね」
 改めて自分達の置かれた立場の危うさを自覚する。一歩間違えれば容易に谷底へ落ちて行く、崖同士を結ぶ細いワイヤーの上を歩いているようなものだ。それを渡りきれば、きっとこれまで通りの日常がやって来るだろう。でも、少しでも気を抜き足を踏み外してしまえば、二度と取り返しのつかない事になってしまう。それはまさに、崩壊、という表現が相応しい。何もかもが壊れてしまうのだ。マスターとの生活も、私が大切にしてきたものも、私のこの気持ちも全てが。考えるだけでもおぞましい、人の世の地獄の体現だ。
「ところで、自宅の修理の見積もりはどれぐらいになりそうですか?」
「一応代理人経由で話は聞いたんだけど、実際見ないと何とも言えないけど結構かかりそうだって。まあ、どうせ保険下りればなんとかなるだろうし。となると、なんとしてもこっちには過失は無いって事を保険屋の調査員にも証明してもらわないとね」
 とはいっても、私はこの件に関してそれほど問題はないと思う。何故なら、家屋の壊れ方を見ればマスターに非が無い事くらいすぐ分かるはずだからだ。マスターの言う通り薬莢だって残っているだろうし、他にもトラックの轍や装甲服の繊維の欠片だって落ちている。それらを結びつければ、マスターが一方的な被害者である事など火を見るより明らかだ。後は警察に被害届けを、建設会社には補修工事依頼を、保険会社には保険金を申請すれば良い。
 だから、当面の問題はやはりココと衛国総省だ。ココがロボットどうこうより、如何にして衛国総省と折り合いをつけるのか、そこが重要だ。私個人の意見だけれど、仮にも相手は政府機関なのだから戦ってどうこうなる相手ではないので、こちらはこれ以上騒ぎ立てないからそちらも関わらないで欲しいと双方で折り合いをつけるのが理想的だと思う。そうすれば私達の生活はこれまで通り続けられるし、衛国総省にとっても公にしたくない事を穏便に済ませられるのだから、一番平和的解決なのだけれど。人間の観点から考慮したら良策なのか下策なのか分からない。でも、私は一考する価値はあると思う。争わないで解決する事が一番の良策であると、古事にもあるぐらいなのだから。
 やがてマスターは夕食を綺麗に平らげると、最後のビールをゆっくりとあおり、満足そうに息をついた。今日も喜んでもらえた。マスターのように満腹感を得られない代わりに、私はそんな満足感に浸った。
 私は食べ終えた食器類を重ねキッチンへと運ぶ。シンクへそれらをそっと置いて水を出し、湿らせたスポンジに中性洗剤を染み渡らせる。今日の料理はそれほど油汚れの酷いものではないから、そっと撫でただけで食器は見る見る綺麗になっていった。
 そういえば、まだ、私にはマスターに訊きたくても訊いていなかった事があった。
 それは、なんとなく気まずくて後回しにしていた事なのだけれど、はっきりさせなくてはいけない大事な事でもある。直接は繋がりはないかもしれないけれど、決して無関係でもないのだ。しかも私はともかく、ココは随分気にしている事だ。別に悪い事を訊くのではないから、ここでちゃんと訊いておくべきだ。幸いにも、洗い物をしている間は背を向けるから、自然に視線から逃れられる。
「あの、テレジア女史から連絡などはありましたでしょうか?」
「ああ、さっき携帯にね。強がってはみたものの、いまいち自分が何言ってるのか分かってないみたいだったわ。ああ見えて、あいつは結構打たれ弱いんだよね。急にこんな事になって、相当ショックなはずさ。なんせ、朝出る時に顔を合わせたばっかりだっていうし」
「そんなに急に? テレジア女史の父君は、それほど病状が悪かったのですね」
「病状? 違う違う。ミレンダの親父、歳は取って多少無理は利かない体になってたけど健康そのものよ」
「え? それでは一体どうして?」
 丁度洗い物が終わり、私はコックを上げて水を止める。そしてハンドタオルで手を拭きながらゆっくりと振り返った。
 その先でマスターは、空になったグラスを怒りとも悲しみとも付かない、複雑な無表情で見つめていた。
「事故にあったのよ、交通事故。車で移動中、居眠り運転でもしてたのかタンクローリーがセンターラインを外して正面衝突。かなりの火災になったんだけど、さすがに車はその辺の耐圧性には優れてて無事だったんだって。でも、爆発に巻き込まれて車が高く巻き上げられちゃって、その落下の衝撃で……」



TO BE CONTINUED...