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 明朝。
 私はいつもの時間にベッドから起きて服を着替えた。まだ外は日が低く夜のように薄暗い。気温も低く、きっと冷蔵庫の中に閉じこもったらこんな感じなのだろう、なんて朝から考えてしまった自分が恥ずかしい。
 まずは朝食の仕込みに取り掛かる。今朝はスープ代わりにポトフにしよう。幸いにも、昨日ビスマルク氏に届けて頂いた食材はたっぷりとあるから心配する必要は無い。それから、サンドイッチを作る事にしよう。どうせなら具材も色々と豊富に用意すると食卓が華やかになる。最後に新鮮なレタスを使ったサラダを一品つけよう。
 業務用としか思えない、大人が一人二人なら簡単に収納出来てしまうほど巨大な冷蔵庫を開け、中からそれぞれ必要な材料を取り出す。ふと思ったのだが、この冷蔵庫は奥行きもあるため、いずれは身を乗り出して奥の方へ手を伸ばさなければならなくなる。そんな時、もしもこの厚い扉が閉まり閉じ込められてしまったら。ロボットの私は空気が無くともそれほど問題は無く、体温の調節もある程度は意のままだから特に問題は無い。でも、人間はそうもいかない。一時間も閉じ込められてしまったら非常に危険ではないだろうか。幾ら業務用とは言っても、こんな危険な冷蔵庫があるなんて少々メーカーの常識を疑ってしまう。
「材料はこんなところでしょうか」
 ふと、扉側の棚へ目を移したその時。私は普通の冷蔵庫ではまず見かけない妙なものを見つけた。それは、うっすらと赤く光るボタンだった。よく見れば、非常用、と記されている。なるほど、閉じ込められた時の応急機能なのだろう。だけど、どこか後付けの応急措置のような気がしてならなかった。案外、電化製品の設計とは、何か一つの売りに気を取られ過ぎるとこんな風にとんでもない盲点を生み出してしまうのかもしれない。
 と。
「おはよう、ラムダ」
 突然キッチンに姿を現したのはマスターだった。
「おはようございます、マスター。こんな時間に珍しいですね」
「ああ、なんか目ェ冴えちゃってさ。おっかしいなあ、歳取ったか?」
 そうおかしそうに笑うマスター。けれど私は何が何だかよく分からず、ただきょとんとそれを見ていた。
「ここ、笑うとこだぞ。マジに取られると余計シャレにならねえ」
 すみません、と私は思わず肩をすくめた。やはり人間の嗜むジョークとは非常に理解に難しい。私もまだまだ勉強が足りない。
「さて、たまには掃除でもしてみようかな。ラムダ、掃除用具ってどこ?」
「廊下の突き当たりの用具入れに一式揃っています」
 マスターは意気揚々と廊下の方へ向かって行った。
 本来、掃除は私の役目だから、マスターにやらせるなんて事はまず有り得ない。けれど、今日ばかりは少々事情が違う。それは、マスターが動きたがる時は無意識の内に不安感を紛らわせようとしている時だからである。そんな時は私の我を通すのではなくて、マスターのやりたいようにさせてあげるのが当然の配慮である。それに、私にとって命令の優先度は、自分自身よりもマスターの方が上なのだから。
 掃除はマスターにお任せし、私は朝食の準備に取り掛かった。
 まずはポトフの準備だ。鍋に水、鶏肉、少量の白ワインを入れ、塩とスパイスを加えてから強火にかける。次に具材の準備だ。野菜は、ニンジン、じゃがいも、タマネギ、カブ、セロリを入れる事にする。それぞれを一口大ほどに切り揃え、いったん水を張ったボウルに浸しておく。鍋は肉が柔らかくなるまで煮込まなくてはいけない。
「ラムダー、今日は私、朝ご飯食べたら迎えが来次第出かけるから」
 リビングの方からマスターの声が聞こえてきた。
「はい、分かりました。今日はどちらへ?」
「引き続き警察で事情聴取よ。うちに行って立会い検分だとかするっていうしさ。帰りはまた遅くなるから先に御飯食べてて」
「緊急の時の連絡はどうしましょう?」
「ああ、ホットラインはまずいな。後で中継先教えるからそれ使って。ミレンダのとこで転送サーバー用意してもらったから」
 やがて鍋の中の鶏肉が丁度良い硬さになったので、浮かんだ灰汁は残らず取り除きチキンブイヨンと切り揃えた野菜を入れて蓋をし、火力を弱火に落とす。後はこのまま朝食の時間までじっくりと煮込めば良い。スパイスや調味料も当然だけれど、何より具材の旨味をじっくり煮込んで凝縮する事で味が引き立つのである。少し多めに作っておき、余った分へミルクとホワイトソースを加える事でクリームシチューにしても良いだろう。
「そうそう、ハムエッグ作ってよ。卵は二個で」
「分かりました。何人分作ります?」
「私が三つも四つも食べると? 一人前のカロリーが幾らだと思ってる?」
「い、いえ、ココの分の事を訊ねただけでして……」
「冗談よ。すぐ本気にする」
 そんな普通のやりとりをする中で、どこか私は喉の詰まる不快感を否めなかった。マスターも私も、意図してテレジア女史の件には触れないようにし、そして互いがそういった配慮をしている事に気が付いているからだ。
 どうしても今、テレジア女史の話題に触れるのは、ガラス細工に触れるのも同じ気がして足踏みをしてしまうのである。
「ようし、こんなもんかな。さてと、時間もそろそろ良い頃だし、ココのネボスケでも起こして来ようかね」
 あ、それは私が行きます。
 そう言おうとキッチンから飛び出しかけたのだが、マスターがあまりにも楽しそうな表情をしていたので制止するのもはばかられ、またもやマスターに任せてしまった。けれどすぐに、やはり自分が代わっておくべきだった、と後悔してしまった。それは、
「おい、こら! 朝だぞ、このガキンチョめ!」
「ああう……うっさいなあ。まだ早いってば」
「いいから顔洗って来い!」
「アタシは年寄りじゃないから、朝は遅いんだよー」
 感度を上げた聴覚素子から、そんな二人のやり取りが聞こえて来る。
 やっぱりだ。そう私は、つけるものなら溜息をつきたくなった。
 マスターとココは決して仲が悪い間柄ではないのだけれど、コミニュケーションの仕方が幼稚というか粗雑というか、とにかく諍いを介在させなければ成り立たない、実に複雑で不穏な関係なのである。だから、特に諍いの種になりそうな状況で二人を会わせるのは得策ではないのだ。やはり、理想的な生活とは平穏無事であるべきだと私は思うのである。
 とりあえず、コーヒーを入れる事にしよう。
 ビスマルク氏に届けて頂いた中には普段飲むようなインスタントコーヒーはなく、コーヒー豆を挽いて真空パックしたドリップ専用のものしか入っていなかった。しかし、幸いにもコーヒーメーカーはキッチンの棚にしっかりと備えてあり、コーヒーを入れる事自体は何とか出来るようだ。不慣れではあるけれどノウハウは知識として持っており、それを忠実に再生すれば全く問題は無い。デジタルで構成されるロボットならではの特技だ。私は難無くセットしアルコールランプに火をつけた。
 と。
 どたどたと階段を一気に駆け下りる騒がしい音が聞こえてきた。この足音の主はココだろう。マスターは階段を駆け下りる時は、三段ほど飛ばして降りるのだ。
 騒がしい足音は真っ直ぐ私の居るキッチンへと向かってくる。飛び込んできたのはやはりパジャマ姿のココだった。ファイバーを思わす青い髪はまるでアロエのようにあちこちへ向かって跳ねている。
「うー、ラムダー。エリカになんか言ってよー」
 ココが懇願するのはきっと、私にマスターへココの主張を通すように直談判して欲しい、という事なのだろう。けれど私はイエスともノーとも言えず、ただ曖昧に微笑むしかなかった。二人の内、どちらかの味方をしてしまうと我が家のパワーバランスというものが崩れ、関係がぎすぎすしてくるからである。
「そろそろ朝ご飯にしますから、顔を洗って来て下さい。髪はその後で梳いてあげますから」
「ぶー。ラムダはエリカに逆らわないんだから」
 そうココは不機嫌な顔で私の胸をバンッと叩くと、すかさずその場から走り去った。足音は洗面所の方へ向かっていく。とりあえず、私の言う事を聞いてくれたようだ。
「ったく、ココのヤツめ。思いっきり弁慶蹴りやがった」
 マスターが不機嫌そうな表情で階段を下りてキッチンにやって来た。時折、左足だけで立って右足を痛そうにさすっている。
「すみません、マスター。大丈夫ですか? ココには私からよく言って聞かせますので」
「あ? ああ、そうね。よろしく頼むわ」
 一瞬、マスターが不自然に声が裏返った。何か私が変な事を言ったのだろうか、と思ったが、その後の様子にはこれと言って変わった所が見当たらなかったため、大した事ではなかったのだろうと気に留めるのを止めた。
「お、コーヒー出来てるみたいね。じゃあ早速出来立てを貰おうかな。ブラックでね」
「はい、分かりました」
 私はすぐさまキッチンの棚からコーヒーカップとソーサーを取り出すと、それを一度綺麗に洗って良く拭き、コーヒーメーカーから抽出したばかりのコーヒーを静かに注いだ。まだ朝も早く寒いせいか、いつもより立つ湯気が濃いように思える。しかしそれが、ただのコーヒーであるはずなのに見えない香気を際立たせているように感じた。
「どうぞ」
「サンキュ。ん、いつもと違うな、このコーヒー」
「はい、そこのドリップで淹れたものですので」
「ふうん。うちはもっぱらインスタントばっかだったしなあ。でも、そんなに違うもんかね? 私が貧乏舌ってだけか」
 マスターはゆっくりとカップに口をつけて傾ける。砂糖もミルクも使わないスタイルは、私の周囲ではマスターぐらいしか知らない。最近の健康ブームの定説では、コーヒーをブラックで飲むのは体に良くない、とされているけれど、私にしてみれば脂肪分の多いミルクやカロリーの高い砂糖を加える方が体に良くないと思う。もっとも、コーヒーそのものを問題視している説もあるぐらいだから、入れる入れないなんて大差のない論理なのだろうけれど。
「んじゃさ、今日は私だけ出かけるからココの方をよろしくね。くれぐれも外へ出さないように」
「はい、分かりました。夕食は何にいたしましょうか?」
「んー、任せるわ。でも、何か温かいものがいいな。すっかり寒くなった事だし」
 体が温まるものと言ったら、やはり鍋料理が定番だろう。マスターは私の作る鳥団子が好きだから、今晩はそれにしよう。鍋料理なら野菜も無理なく取れるから栄養のバランスが非常に良い。後は付き物のビールだが、マスターはあまり通常のビールは飲まず、専らノンカロリービールだ。ビスマルク氏に頂いた中にはさすがにそれは無かったが、それだけのためにわざわざ届けさせるのもどうかと思う。自分で買いに行くのも無理だから、こればかりは妥協して頂かなくては。
 と、その時。
「ねえ、ラムダ! ちょっと来てよ! これって、うちらの事じゃない?」
 リビングから聞こえてくるココの呼ぶ声。いつの間に洗面所から戻ったのだろうか、と首を傾げつつ、マスターと私は早速リビングへと向かった。
「こらこら、そんなに近づいて見るな。目ェ悪くなるぞ」
 ディスプレイにかじりついて見入っているココに溜息をつき、マスターはソファーの上にどっかりと腰を下ろして足を組み、カップを口に傾ける。私はココのすぐ後ろにひざまづき、ココの肩越しにディスプレイを見た。
 ココが見ているのは、マスコミグループの総合ニュースサイトのページだった。どうやらこの事件はかなり話題性が大きかったらしく、マスターの名前のカテゴリが作られて各社の特集記事へのリンクが連ねられていた。その中に最新記事として掲載されていたのが昨日の取材内容だ。事件から二日、周囲もいい加減に落ち着きより詳細な情報を求めて来る頃だ、きっと大勢の人間がこの記事を食い入るように見ているだろう。
「なお、事件の調査には公安も乗り出し、組織的なテロ活動との見方が強い? ラムダ、テロ活動ってなんだ?」
 すると、
「行動力のある馬鹿の迷惑な自己主張よ」
 私が口を開くよりも先にそうマスターが答えた。それを聞いたココは、
「エリカと同じじゃん」
 と何の気ない口調で答えた。マスターはココの言葉があまりにも的を射ていた事に驚いたらしく、コーヒーを喉につかえて咳き込んだ。
 テロ活動の意味はマスターの表現も遠からずと言った所だが、一般的な定義は、宗教などのある一定の思想に基づき、予告無く大勢の人間に危害を加えるという陰惨な形で行うプロパガンダだ。近年では無差別殺人を意味する場合が多く、過去のテロ犯罪の受刑者は皆例外無く極刑になっている。彼らには自分だけしか見えておらず、被害に遭った人間を全く考えられないからである。主張が正しくとも悪くともそれは問題ではなくて、人を傷つける行為そのものが悪だとして裁かれるのだ。
 記事を見る限り、立場はあくまで中立だが私達の主張は取材時のまま伝わるように編集されていた。ココについても出来る限りの配慮がなされ、大まかな特徴は記載されているものの顔写真等は一切無かった。ただでさえ人目を引く特徴だからだろう。そういった配慮が出来るという事は、それだけ良心的でジャーナリズムを商品としていない表れだ。私はあまりマスコミが好きでなかっただけに、あまりの理想的な記事に感心すらしてしまった。私が思うほどマスコミとは悪いものではないのかもしれない。
 記事の末文には、ココを知る者に対しての情報提供、並びに家族親類を探している旨が載せられていた。記事ではココは記憶喪失の迷子とされているが、これは私達がマスコミに対してついた唯一の嘘である。それは、こんな表現をしなければココと事件の繋がりどころか、ココ自体の説明が難しいからだ。もしかすると衛国総省が極秘に開発したロボットかもしれない、なんて言ってしまったら、事件はますます混乱を呼んで私達の立場が一気に悪くなってしまいかねない。本当はココの件は完全に伏せるべきなのだけれど現実的には難しく、衛国総省への牽制もしなければ攻められる一方だから、結局はこんな苦肉の策に頼るしかない。
「またどうせ、私の悪口なんか書いてんでしょ? ああ、ヤダヤダ」
「大丈夫ですよ、マスター。虚偽の記事は全くありませんよ」
「ラムダって単純だもん。人から言われた事をすぐ信用するでしょ? だから、ほのめかすような嫌味が分からないだけよ」
 マスターに言われた言葉に私は、果たして本当にそうなのだろうか、と思わず首を傾げた。自分が嘘と真実の区別をつける能力に乏しい事は知っているが、どう読んでも文面にはマスターを批判中傷するようなものは見られない。それにマスターは記事も読んでいないのだから、きっといつものようなイメージで言っているだけかもしれない。
 あまり気に留めることもない。そう思った私は視線をココへ戻し、朝食へ促そうとした。けれど、ふと私はディスプレイを見るココの視線がどこかうつろな感じになっている事に気がついた。目は文字を追ってはいるようだけれど、心ここにあらずといった様子で文字を読んでいるように見えないのだ。
「どうかしましたか?」
 すると、ココは振り返り私の顔をじっと見つめてきた。それは今までに見た事の無い、実に神妙な表情だった。
 そして。
「なあ、ラムダ。アタシって、人間なのかな? ロボットなのかな?」



TO BE CONTINUED...