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 朝食後、マスターは転送サーバーの設定を終えるなり迎えに来たテレジアグループの車で出かけていった。
 残った私はいつものように朝食の後片付けをし、洗濯ものを済ませる。掃除はマスターにお任せしたのだけれど、やはり習慣となっている日常業務は一つでも欠けてしまうとどうにも喉がつかえたすっきりしない気持ちになって落ち着かず、もう一度初めから掃除をやり直した。
 今朝の朝食はとても居心地の悪い空気だった。マスターは意固地な性格だから、明らかに自分に過失があったと認めない限りは滅多な事で人に謝ったりはしない。たとえ大統領が黒と言っても白は白だと主張する性格だから、きっとココに謝るような事はしないだろう。確かにマスターには何の落ち度も無く、謝らなければならない理由は何一つ無い。でも、これが最も穏便に解決する方法でもあるのだけれど。
 小一時間も経過した頃、フローリングは全て磨き、トイレも浴室も掃除し尽くした。ベッドのシーツも取り替えたし、もう後は綺麗にしなくてはいけない場所は無い。元々、建物自体が使った痕跡が無いほど綺麗であるため、掃除をしなくてはならない場所が少ないせいか、いつものような掃除を終えた充実感が少ない。買ったばかりの食器を洗うようなものだから、汚れが落ちずに苦戦する事などあり得ないのだ。
 器具を片付けると、私は洗面所に入って手を洗った。水は氷のように冷たく、やや体内温度が上昇している私には実に心地良かった。最後に鏡を見ながら身形を整える。ロボットとは言え、身形に気を使わなければ人間社会に受け入れられない。それに、私がだらしないとマスターまでもがそんな目で見られてしまう。
 さて、今日の昼食はどうしようか。
 当面の作業が無くなった私はそんな事を考え始めた。今日は体を動かしたにもかかわらず普段より熱が上がらないから、気温は大分冷え込んでいるようだ。だったら昼食も温かいものにしよう。
 私はビスマルク氏から戴いた食材のリストをメモリ内に展開して走らせる。すると間もなく、大王酒苑という有名な高級中華料理店がギフト用に売り出しているラーメンセットが見つかった。そう言えば、昨夜の御飯がまだ若干残っていたからこれを使ってチャーハンを作ろう。ラーメンとなら相性もいいし、食べ盛りのココでも十分満足できるだろう。けれど、これだけでは栄養が偏るから野菜も入れた方がいい。後はラーメンの味だけれど、セットには味噌と醤油の二種類があった。これは人それぞれの好みがあるから直接効かなければならないか。
「ココ?」
 名前を呼びながらリビングに入ってみる。しかし、ぐるりと見回してもそこにココの姿は無く、ただ先程までそこに居たのかディスプレイの電源が付けっ放しになったままになっていた。
 どこに行ったのだろう?
 私はディスプレイの電源を切りながらココの姿を求め、視覚素子と聴覚素子の感度を上げて再度周囲を見渡す。すぐさま普段よりも多くの情報がメモリ内に入り込んでくるが、それを解析しても一向にココに関する有益な情報は見つからない。受動的な情報収集での発見は困難だと判断した私は、ココの取りそうな行動パターンの予測を始めた。ビスマルク氏から戴いたチョコレートバーは、昨夜の内にマスターが寝室のクローゼットの奥に隠している。ココは場所までは知らずその事実のみを知っているから、捜し求めてマスターの寝室へ入り込む可能性もあるだろう。喉が渇いたため、キッチンへ飲み物を探しに行ったかもしれない。いや、もっと単純にトイレに行っただけという事もある。つまり私は、たまたまココが席を外した所へやってきた、ただそれだけの事なのだ。
 早速私はリビングの外へ探しに出た。やはり受動的な捜査では大した実りは得られるものではない。かといって感覚素子にリソースをさくような大掛かりな方法をいちいち取るのも効率が悪い。ロボットは優先順位でしか判断する事が出来ないから、これは仕方の無い非効率性なのかもしれないが。
 と。
 リビングを出て間も無く、感度を高めた聴覚素子がココの声を捉えた。声はリビングから大分離れているためノイズが酷く、正確に居場所を判別出来ない。建物の見取り図と声の聞こえる方向を照らし合わせてみるも、やはり整合性のあるデータが得られない。それでももう一度、声の聞こえてくる方を正確に計測し見取り図と照らし合わせてみるが、何度計算してもココの居場所は家のどの場所にも当てはまらない。どう考えてもこの計算結果に誤りはないと思うのだけれど。
 いや、待て。
 ふと私は、何故こんな計測結果になってしまうのか、その理由と思われる事に気づいた。声の聞こえてくる位置が見取り図と合わないのは、情報が不正確でも計算ミスでもない。ただ、ココは家の外に居るだけの事であって、計算も正確だったからこそ家のどこに居るのか分からなかったのだ。
 そう考えると全てに説明がつく。たちまち目の前が明るく開けていくような気分になった。なんて単純な事に気が付かなかったのだろう。別段、慌てる事でもないというのに。
 しかし。
「あっ!」
 私は間の抜けた自分を笑う間も無く、ハッと息を飲む仕草をしてしまうなりすぐさま玄関へと駆けた。今、私達は迂闊に外へ出て良い立場ではない。それを思い出したからである。
 玄関の扉を開けて勢い良く外へ飛び出す私。すると、いきなり視界に意外なものが飛び込んできた。
 それは雪だった。白く降り積もった雪が薄いベールのように周囲の景色を多い尽くしている。すっかり雪化粧が施され、昨日とはまるで別世界のように映る。雪景色を見る事は初めてではないけれど、突然ここまで景色の印象が変わってしまうと自分のデータと周囲の状況との整合性が無くなってしまい、どうしても驚いてしまうのだ。
 確かに今日は寒いと思っていたけれど、どうりで寒い訳だ。まさか雪まで降るなんて。天気予報ではそんな事は言っていなかったのだけれど、そもそも今の季節は毎年こんな事が良くあるから別に珍しいことでもないのだろうか。
 中庭からココの声のはしゃぐが聞こえてきた。それは丁度、先程計算した位置と家の見取り図を合わせればぴったりの場所である。やはり私の計算は間違っていなかった、という安心半面、数値と現状との誤差の理由に気づけなかった迂闊さに不安を覚える。
「ラムダー、これってさ雪でしょ? うわー、ホント冷たーい」
「駄目じゃないですか、勝手に外に出ては」
 中庭には計算した通りココのはしゃぐ姿があった。部屋着のままスニーカーだけを履いた、雪景色には何とも寒そうないでたちで足元の雪をすくっては宙に投げ飛ばしている。しかし当の本人は少しも寒がる様子が無い。子供は寒さに対して高い耐性があるとはよく言うけれど。
「だってさあ、居ても立っても居られなかったんだもん。いえい!」
 ココが急に何かを私に目掛けて投げつけてきた。咄嗟に右腕を前方に構え、投げつけられたそれを掌で受け止める。するとそれはぶつかった衝撃であっさり粉々に砕け散った。見るとそれはただの雪球だった。まだそれほど雪は積もっておらず雪自体も湿り気の無い粉雪であるためそれほどの衝撃はないので雪合戦には程遠いのだが、ココにはこれだけでも遊び道具としては十分魅力的なのだろう。
「ラムダー、ほらほら! 投げ返して!」
「ココ、そろそろ家に戻りましょう。いつまでも外には出ていられません」
「なんでさ? 別にいいじゃん。中庭だけだってば」
「駄目です。何が起こるのか分からないんです。もっと私達の立場を考えて下さい」
 私が人間だったら、きっと溜息の一つもついていたと思う。それは、ココがあまりに私の言う事を意に介してくれないからだ。
 ずしっ、と肩に重石が圧し掛かってくるかのような疲労感。ロボットには疲れるという概念はないため、それは精神的なものであるが、ロボットにしてみればその感覚すらも錯覚でしかない。これはもっと別な感情が適切な表現を見つけられずにこんな形で主張しているのだ。しかし、その感情がいまいち捉えきれない。
 と、急にココは私の方へ駆け寄ってきた。何やら隠しているらしく、両腕を背中側に回した不自然な体勢を取っている。
 次の瞬間、
「とりゃっ!」
 目の前が何かに覆われて真っ暗になる。驚く間も無く、顔を覆ったそれはぱらぱらと自然に剥がれ落ちていった。
「あははー! にぶーい!」
 僅かに残る顔についたものを払いながら、自分はココに雪の塊をぶつけられたのだと把握した。そして、不意打ちとしか言いようの無いそれをかわせなかった私を、ココはさもおかしそうに笑っているのである。
「ココ、早く家に入って下さい」
「やだよー。もっと遊ぶんだい」
 それでもココは私の言う事に従わず、けらけらと楽しそうに笑った。
 だが。
 ふとその時、私の心の中にまるで落雷のように一瞬だけの激しい感情が迸るのを感じた。
 その正体を私はすぐに理解出来た。あまりに勝手で悪びれる事の無いココの態度に思わず、イラッ、としてしまったのだ。
 そして私は―――。
「ココッ!」
 気がつくと私は、声を荒げて一喝し右腕を握り締め高々と振り上げていた。だが、視覚素子に映った驚きを越え怯えているココの表情に、私はすぐにハッと我に帰った。
 拳を握り腕を振り上げ、私は何をするつもりだったのだ? 私の腕は、人間などとは比べ物にならないほどの出力が出せるというのに。
 血の気の引く思い、とはこういう事を言うのだろうか。自分がしでかしたあまりの出来事に、一度冷却された思考が無作為にループを始め無秩序な思考体系を作り出した。それを収めようとする理性はあまりの複雑さに処理が追いつかず、私はしばしの間そのまま呆然と立ち尽くしてしまった。
「す、すみません……とにかく、家の中へ入って下さい。今、私達は非常に危険な身の上なんですから」
「うん……」
 慌てて拳を収め、私はそっとココに右手を差し伸べる。しかしココはその手を取ってはくれず、ただ俯いたまま頷くだけだった。
 仕方なく、手は玄関へ差し出しココをそこへ促した。しかし、その肩を触れてやる事も出来ず、まるで見えない壁があるかのように距離を置き、ただ歩くココを導く事しか出来なかった。
 なんて事をしてしまったのだろう。
 そんな後悔の波が幾度となく私を打ち付ける。ロボットが人間に、それも年端もいかない子供に暴力を奮おうとするなんて。これは紛れも無く立派な殺人だ。この程度の判別がつかないはずはなかったのに。私はどこかおかしくなってしまったのだろうか?
 感情が良識を凌駕するなんて、絶対に異常だ。
「ココ、入る前にちゃんと体についた雪は払い落として下さい。家の中が汚れてしまいますから」
 だが、ココは小さくこくりと頷くだけで、それ以上の反応は示そうとしなかった。
 未だ、私を見るココの目は怯えている。
 何てことを私はしてしまったのか。
 改めて自覚する自分の行いの重大さに、自己嫌悪へ陥るにはそう時間はかからなかった。



TO BE CONTINUED...