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 翌日。私はこれまでにない憂鬱な朝を迎えていた。
 無言のまま始まり、そして終わる朝食。マスターは食べ終えるなりすぐさまリビングへと行ってしまった。その普段とはまるで違う素っ気ない仕草に、ココは怪訝な顔で私を見ている。
「なあ、エリカと何かあったの?」
 ふと我に帰った私は、何事もなかったような仕草でマスターの食器を片付け始める。
「いえ、何もありませんよ」
「なんだよう。ロボットは説教だけじゃなくて隠し事もするのか?」
「そういう意味ではありませんよ。私には心当たりが無い、という事です」
 ふうん、と怪訝な顔のままコーヒーを飲むココ。私の言葉を明らかに信じていないといった様子だ。
 疑われても無理は無い。昨夜、あんな出来事があったのだ。私達の様子がおかしければ何かあったのだと疑われて当然である。
 厳密に言うと、私がしているのは隠し事ではなく嘘だ。けれど、どちらにしても命令以外の独断でしている事だから、悪い意味で、ロボットらしくない行為だ。
 私はキッチンに立って汚れた食器を洗い始めた。いつもはどこか楽しさの込み上げる作業なのだけれど、今日ばかりはさすがに憂鬱さを否めず没頭出来なかった。
 マスターは私に対して腹を立てている。その理由を私ははっきりと理解している。昨夜の私の行為が行き過ぎた為だ。
 けれど、私は何一つ自分に落ち度はないと思っている。元々は私達が負い目と思うような事は無いのだから、マスコミの筋の通らない行いに対して毅然とした態度を取る事は当然なのだ。
 もしかするとマスターは何か別の考えを持っていたかも知れないし、それを確認しなかったのは良くなかった。だけど、マスターは私に対して何も不平や不満をぶつけて来ない。過ぎた事にあまり囚われたくは無いだけだとしても、明らかにマスターの態度には別な意図が感じられる。それを口にしてくれない、つまり私を拒絶しているのは、必要とされる事で初めて存在意義が生まれるロボットにとって最も辛い事だ。
 そういえば昨夜、マスターは私に対して『ココにこだわり過ぎている』と指摘した。きっとそれが今のマスターの心境を理解する何らかのきっかけになるはずだ。
 私はマスターに答えばかりを求めてはいけない。私には考える力があるのだから、マスターが私に対しどんな不満を持っているのか、そしてその具体的な解決方法を考える事が出来る。仮にも私は従者でロボットなのだ。マスターに折れさせるような方法は論外だ。だが、ただ謝るにしても何故謝らなければいけないのかを理解していなくては意味がない。重要なのは、何よりマスターを理解する事だ。考える方向性はそこに収束されるべきなのだ。
「ラムダー、もっとコーヒー頂戴」
 ふと、そう私を呼んだのはココの声だった。振り返るとココは空になったカップを私に示している。
「このコーヒーはノンカフェインではありませんので、飲み過ぎは体によくありませんよ」
「また子供差別してるな。エリカには何も言わないクセにさ」
「いえ、そんな事はありませんけど……」
 ふと私は、これまで自分がマスターに従者としての枠を越えた進言を日常的に繰り返していた事に気がついた。けれど、それに対してマスターが本気で不満をぶつけて来た事は一度も無かったから、私の進言は考慮する価値のあるものとしてマスターには捉えられているのだろうと思う。しかし実際、マスターは私の事をどう位置づけ捉えているのだろうか。私はマスターにとっては家族同然の存在だが、そうと知りながらあえて従者と謙っている。この格差に何か問題があるのかもしれない。
 ココのコーヒーのお代わりは、なんとか牛乳と半々に割って幾分か胃への負担を軽くしたもので譲歩して貰った。ココはマスターと違い、苦味が完全に消えるほど沢山の砂糖を入れる。人工甘味料と言えど過剰な摂取は体に良いものではないし、コーヒーそのものにも胃への負担がある。逆に牛乳には栄養価の高さだけでなく胃を労わる効能もあるから、コーヒーの割り物としては実に最適だ。
「なあ、ラムダ。もしかしてエリカとケンカしてるのか?」
 やがて洗い物を終えてダイニングテーブルに戻ってきた頃、飲み終えたココが唐突にそんな事を訊ねて来た。
「いいえ、違いますよ。別に何もありません」
「じゃあどうしてエリカが、あんな難しい顔してんだよ。アタシは別に怒られるような事は何もしてないぞ」
 ココにはマスターの表情がそんな風に見えたのか。
 私はマスターの顔をほとんどまともに見ていなかったので、ココの口から聞かされたマスターの情報には居ても立っても居られなかった。少しでも今のマスターの心境を判断するのに必要な材料が欲しかったからである。
「どうせ昨夜の騒いでたアレの事だろ。ラムダ、何かしたのか?」
「その……少し出過ぎただけです」
「ほら、やってるじゃんか」
 得意気なココの言葉に、私は揚げ足を取られたような気分にさせられた。
 確かにココの指摘には間違いはないのだけれど、それをそのまま素直に受け入れる事も出来なければ反論する余地も無い。それが揚げ足を取られるという事なのだと、私は眉を潜めながら言葉の無い口をつぐんだ。
「早く謝ればいいのに。エリカは元々ラムダには甘いんだからさ」
「でも、私は自分の落ち度を良く理解してませんから。謝るにしても、その理由がはっきりしなければ。形式だけの謝罪なんて意味がありませんし」
「別に間違っててもいいじゃん。ロボットだから分からなくてしょうがないか、って許してくれるよ」
「私は、自分がロボットである事を理由にしたくありませんから」
「バカ真面目。いや、真面目バカだ」
 ココの言い放った『バカ』という言葉には過剰に執着するフリーク的な意味合いがあるが、それは本来の意味である蔑称の域を抜け出ていない感が強いものだ。しかしココの使い方にはむしろ、臆面無く本来の意味での強調がされている。つまりココには私の行動がそんな風に映ったのだ。
「真面目なのはそれほどいけない事でしょうか?」
「分かってないなあ。真面目っていうのは、大人のルールに従順って事だぞ。大人のルールって万能だと思うか?」
「確かに万能のルールというものは、スポーツにも存在しませんが……」
 ロボットの判断能力はあくまで擬似的なものだから、人間のルールに従う事は極当たり前の行動だ。それを笑う事が出来るのは、自分で正しいと思える行動を判断出来る者だけである。だから、それがそのままココに大人と同様の判断能力がある事にはならないけれど、そういった自分への自信はむしろ羨ましく思う。
 それから私は普段通り当たり前の家事に従事した。ココはそんな私の仕事を邪魔しない程度に従事する私の話し相手になったり、時には直接的なコミニュケーションを取って来た。私にはその時間が本当に心地良かった。ココに構われるだけで、自分が必要とされる実感が湧いて来るからである。ロボットにとって誰かに必要とされる感覚は何物にも変え難い心地良さがある。それは理屈ではなく、己の存在意義を実感する瞬間だ。
 けれど、そんな充実感の中にも、マスターとの事が暗い影を落とし続ける。それは、人間的な表現で言えば喉のつかえだ。今すぐ何とかしなければならないような死活問題ではない。だが決して無視出来るものでもなければ、放置し続けて良いものでもない。そんな薄い深刻さが二の足を踏む余裕を与え、何事も合理的にと決断する強さの無い私を掻き乱すのである。
 と。
 時刻はそろそろ昼食の準備を考えようかという頃合に入った。すると、
「あれ。ラムダ、誰か来たみたいだよ」
 不意に聞こえて来る来訪音。来客だ。
「ミレンダかなあ?」
「いえ、おそらくは違うかと。それに……」
 今はまだそんな状況でもないだろう。
 そう言いかけ、私は出過ぎた言葉を口に仕掛けた事に気づいてすかさず言葉を飲み込んだ。
 私は慎重にインターフォンの映像を見つめる。そこにはコートを着込んだスーツ姿の男性が二人立っていた。冬とはいえ、これほどきっちり着込む姿には明らかな異様さを感じさせる。
 私は俄に自らの注意レベルを引き上げ、思考を日常のものから切り替えた。
 昨日の事もある。全ての来客には注意しなければならない。私達は追われる立場、それも潜伏場所まで知られているのだから。
「どちら様でしょう?」
『公安警察の者です。エリカ=鷹ノ宮氏にお会いしたい』
 公安……?
 公安警察と言えば、国家レベルでの重大犯罪を取り締まる治安機構だ。およそ一般人には縁のない、特殊な警察官のようなものである。しかし、捜査員の能力は所轄警察とは比べ物にならないほど高く、年間の凶悪犯罪者の実に八割以上が彼ら公安の力によって検挙されているのである。
 さすがに無下に扱う訳にもいかない。それに、公安がわざわざ民間人の家を訪ねるなんて、そう何度もあるような事でもない。時期が時期だし、間違いなく例の件で来た事は明白である。この場合、こちらに正当性があるとか別にして、きちんと対応しなければ余計な疑惑を招いてしまう。私はすぐさまマスターの居るリビングへ向かって駆けた。



TO BE CONTINUED...