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 朝。
 見慣れぬ部屋で通常モードへシフトした私は、ゆっくりと体を起こしベッドの上に腰掛ける。
 ここは私にあてがわれた、来客用の一室だった。テレジアグループの所有する研究施設の一室とは言え、まるで国の重役が泊まるためのような広くてデザインも凝った部屋だった。これが研究室で長い間使われていない部屋の、その中の一つにしか過ぎないなんて、相変わらずテレジアグループの単位は現実離れしている。
 ベッドの側に置かれているクローゼットを開けると、そこに並んでいたのはロボット用の検査着だった。色は白一色でポケットのような装飾もなく、ロボットを裸にせず人間と同じ扱いをしている、という詭弁を弄するための着衣に思えた。
 これだけ豪華な部屋でありながら、用意された衣服の無機質さはあまりに異様で、感じている非現実感を悪い意味として私に認識させた。この囚人服のような衣服が私の現実であり、また目が覚めても傍らに誰もいなければ起こす相手も無く、これからしなければならない仕事すら無いのも、どれだけ受け入れ難くとも紛れも無い現実なのだ。
 クローゼット内の一着を手に取り着替える。クローゼットの扉の裏側にはめ込まれた姿見に映る自分を見て、俄に胸を締め付けられるような苦しさが込み上げてきた。あまりに無個性な格好をさせられる事で、私の存在そのものまでが量産品のような沢山ある中の一つになってしまったように思えたからである。
 ロボットには強い感情が引き起こす生理は存在しない。だけど、感じているこの苦しみははっきりと確かに胸の内に存在している。精神の過負荷が引き起こす仕様上のバグかもしれない。けど、自分の感じている全てのものは、誰かにそうなるように設計されたものとは違うのだと、今はただそう信じたかった。
 現在時刻は午前六時。
 本日の予定は午前九時からとなっているのだが、起動時間の設定を変えていなかったせいで、こんな時間に起きてしまったのだ。
 私は部屋の真ん中にあった革張りのチェアーにそっと腰を降ろす。
 部屋を見渡しても、家具を除き情報機器の類いは一切置いて無かった。私自身の内蔵機器もネットワークへアクセス出来ないようプロテクトがかけられている。あらゆる外部からの刺激から隔離する事で事件当時に極めて近い精神状態を維持するためだ。そうする事で鑑定の結果がより正確になるのである。
 しかし、私にはこの孤独感はあまりに苦痛だった。話す相手もいなければ、自分以外の外部から得られる情報も無い。私を取り巻く環境に変化というものがないのだ。そしてその停滞感は時間の流れから取り残されていく錯覚を起こさせる。圧倒的な疎外感だ。正直、気が狂いそうになる。ロボットは主観だけで自分を認識するのが困難な存在だから、周囲と同じものを共有している実感がなければ主観を成り立たせられない。
 私は誰かに必要とされなければ存在出来ない存在である。誰も必要としないのなら、いっそ一思いに処分して欲しい。だけど、こうして生かされている事実が私のメモリにノイズを走らせる。そして、そのノイズを取り除く単調な作業が、同時に精神的な負荷を募らせていく。
 精神負荷がかかり過ぎてまともな思考が出来ない。そう判断した私は、自分で自分の主思考を一時閉鎖した。
 主観が消えると、驚くほどメモリ内のざわめきが消えて行き胸の苦しさが抜けていった。しかし、その静寂は喪失感も伴う静寂だった。誰かに話しかけられても、私が眠っているため声をかけるのをやめてしまうような、そんな物寂しさだ。
 時間の概念も止め、決められた午前九時までの間を空白で埋める。時間を跳躍するような感覚で、客観的に停止した自分を観察する観念はあるのだが、時間という概念が無いためまるでビデオの早回しのような他人事に見える。奇妙な視覚だ。
 このまま永久に主観を閉じてしまったらどうだろう? きっと一切の苦痛を感じる事無く生きていけるようになるはずだ。いや、何を馬鹿な事を。今感じている苦痛がいつまでも続く訳ではないのに。ならば、苦痛が過ぎるまで心を閉ざしてみる? そんな事をした所で、苦痛はいつまでも居座り続けるだけだ。
 副思考が増殖し無駄なノイズを出力し始める。特に思考を稼働し続けなければならない理由も無い私は副思考も終了させ、最小限の判断能力だけ持たされた原始的な制御にリソースを明け渡す。人間と違い、どんな精神状態でも即座に思考が切り替えられるのはロボットだけの利点だ。
 やがて時刻が八時五十分に達した頃。
 コンコン。
 部屋のドアをノックする音を聴覚素子が捉える。私はすぐさま制御システムを介して主観を再起し通常モードへシフトした。
 モードの移行が完全に終了するなり、私はドアを開けに行こうとチェアーから立とうとしたが、既にテレジア女史は部屋の中に入って来ており、私のすぐ目の前にいた。その後ろには、テレジア女史よりも一回り上背のあるシヴァの姿もあった。シヴァは私に視線を向けながら訝しげな表情を浮かべている。私の様子がおかしい事に気づいたらしい。
「おはよう、ラムダ。気分はいかがかしら?」
「その……あまり良くはありません」
 私は思ったより再起に時間がかかってしまっていた事に驚き、テレジア女史の問いかけに対してうまく答える事が出来ず口ごもってしまった。
「そう。ショックなのは分かりますけれど、辛いのはあなただけではありません。今はお互いに出来る事をしましょう」
 そんな私の言動を別な意味に解釈し、にっこりと微笑むテレジア女史。どうにも説明をつけられず、とにかく私も何とか笑顔を作って返した。
 当面の課題。
 今、私がしなければならないのは自分をより正確に判断して貰う事だ。そしてその結果を考慮した上でテレジア女史と弁護団に方針を決めて貰い、マスターの罪を出来る限り軽くする。そうすればココの件も自然と良い方向へ解決するはずだ。それで何もかもが元通りになる。私が幸せに思った、何の変哲も無い、三人での平凡な暮らしだ。
「ではラムダ。昨日言った通りこれからメンテナンスを行ってから早速精神鑑定を行います。私は弁護団との打ち合わせに向かいますので、後の事はビスマルクに任せます」
「はい、分かりました」
 ただ、能動的な行動を何一つ取る事が出来ないのは非常に焦りを募らされる。マスターのために何かしてやりたい。しかし私に出来る事は何も無く、そればかりか私が行動する事で余計な疑惑を作り出し、マスターの首を余計に絞めかねないのだ。
 こんな自分が不甲斐なくて情けなく思う。役に立たないロボットなんて存在する価値が無い。けれど、こうやってマスターや私を支援してくれる人もいる。だから絶望のあまり全てを放棄し自分を追い詰めるような事はもう考えないようにしようと思った。私を助けてくれるのは私を少なからず必要としているからであって、その期待を反故にするのは出来ない。
「ミレンダ様、そろそろお時間です」
 と、後ろからシヴァがスーツの内ポケットから取り出した懐中時計を見てそうテレジア女史に知らせた。
 ロボットは体内時計があるため本来は人間の時計など必要ないように思われるが、人間の時計は人間と同じ時間を共有している事の現れであるため、腕時計などをわざわざ与えられるロボットは決して少なくない。ただ、さすがにシヴァは他のロボットとは持つものからして違う。高級な腕時計は沢山あるしテレジア女史の財力なら幾らでも買い与えられるのだろうが、あえてクラシックな懐中時計を持たせる所に独特の拘りが感じられる。
 ロボットに拘りを反映させるのは、それだけロボットを身近に感じ大切にしている事の表れだ。シヴァも私がマスターにそうされているのと同じように、テレジア女史に愛されているのだろう。そうでなければ、あんなに輝いた目は出来ない。
「そうね。では私はこれで。後からビスマルクが迎えに来ますので彼の指示に従いなさい。何か質問はありまして?」
「いえ、問題はありません。それでは、テレジア女史もお気をつけて」
「私の事なら大丈夫ですわ。私には」
 テレジア女史は振り向いてそっとシヴァへ手を伸ばすと、シヴァのスーツの襟の乱れを直した。
「シヴァがいますからね」
 それもそうですね、と私は微笑み頷き返した。シヴァはおそらくこの国で最も優れた戦闘型ロボットだ。そのシヴァが一緒にいる状態でテレジア女史が不慮の事態に遭遇して深刻な事に陥る状況が想定出来ない。少なくとも日常で起こり得る全ての可能性は、シヴァがいるだけで十分解決するのだ。
「行きますわよ、シヴァ」
「はい」
 二人がくるりと踵を返し、部屋のドアへと向かって行く。振り向き様、軽く目を合わせ一礼するシヴァの表情はどこか物憂げで、それはテレジア女史や自分自身にではなく、私に対する心配なのだろうと思った。傍目にも私の様子は普段と比べてどこかおかしいようだ。
 テレジア女史とシヴァの背中が並んで歩く様を私はじっと見つめた。
 羨ましい。
 ふと、手に届く幸せを内包する二人へ明らかな嫉妬心を覚えた事に戸惑い、そして頭から振り払った。こういった感情を抱き行動へ反映させる事がセミメタル症候群の典型的な症状なのだ。これ以上不可解な行動を取る訳にはいかない。
 頑張らなければ。
 私は今一度、自らの気を引き締める意味で自分にそう決心させた。今が一番辛い時だ。ここをなんとか切り抜ける事が出来れば、きっと望みは繋がり先は開ける。だから、こんな所で諦めて可能性を自ら塞ぐ訳にはいかない。
 どんな辛い事にも耐えてみせる。私が取り落とした幸せを、もう一度拾い直すために。
 何故だろう、そう一貫した意志を構築した瞬間、これまでの胸の苦しみが嘘のように消えた。



TO BE CONTINUED...