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 テレジア女史が血相を変えて部屋を飛び出したのは、それから間も無くの事だった。
 あまりに深刻な事態である事は私にも理解が出来た。ココが行方不明になった事は、それだけでも大事件である。だがその他にもココには、マスターが私を使って虐待を加えたと嫌疑をかけられた事件の、当事者という面からでの重要な参考人でもある。検察がこの事態をどう判断するのかは分からないけれど、少なくともこういった事で刺激するため非常に良くないと思う。
 マスターへ新たな嫌疑をかけられやしないだろうか、という不安もあったが、一体ココは今どこで何をしているのか、そんな不安感が今の私を大きく占めていた。嫌でもココを助けたあの時の事を思い出してしまう。拳銃を持った黒服の男達。ずっと衛国総省の人間だと思っていたけれど、それが実はテレジアグループの人間だったなんて。もしかすると行方が知れなくなったのは彼らの仕業ではないのだろうか。そんな憶測が飛び交い、多重化した思考が混乱を始める。
 それでも私は、消灯と同時にそのまま眠りについた。ロボットは人間とは違って睡眠はプログラムの制御によって行えるから、どんな精神状態であろうともきっちり決められた時間眠る事が出来るのだ。
 あなたはここにいなさい。
 それが出掛けにテレジア女史が私へ言い残した言葉だった。それはつまり、私はこの問題に対して何もする必要は無いという、事実上の戦力外通告だ。そもそも、ロボットは人間の手には負えない事や人間の手を煩わせないための存在であるはず。それがこうして保護されるのは、自分が明らかな負担となっている感が否めなかった。
 私は大切な時に何も出来ない、本当に無力な存在だ。
 ロボットは人間の補佐をするための存在なのに、人間のために働けないでどうするのだろう。そればかりか、私はいつも周囲に依存してばかりで、自分から人のために何かをしようとした事がどれだけあっただろう。
 マスターに言わせれば、この思考傾向は自虐的で全く意味の無いものだそうだ。私には責任を自分だけに負わせる傾向にあり、それは必要以上のストレスを作り出してしまう。けれど、私には自分以外の誰かに責任を追及するなんてとても出来ない。マスターへ害意がある人間なら別だが、少なくとも自分の精神的な負担を軽減するための転嫁は絶対に出来ない。
 明日、私を取り巻く環境はどうなっているのだろうか。
 今の私が抱える一抹の不安を象徴するかのようなその言葉を最後のログとして、私は完全に主思考を停止した。
 一つだけ副思考を立ち上げ、最小限周囲の状況だけを監視する。本当はテレジアグループの敷地内に居るのだからそんな必要は無いはず。けど、テレジア女史ははっきりと敵の黒幕は身内に居ると断言しているのだから、決して安全とは言えないのだ。絶対的な安全を保障された場所に居るようで、実は敵が同じ屋根の下に潜んでいるかもしれない。そして私は、その事実には気づいていない振りをしなければならない。
 最初の頃に比べて事件の核心へ遥かに近づいたが、それと同時に身の危険性も遥かに高まった。現に社会性でのレベルなら致命傷に近いダメージを受けている。社会的立場の喪失は単純に修復が非常に困難だ。敵はおそらくこの方面へターゲットを絞っているように考えられるから、防衛手段も多方面へ精通していなければならない。その上、現状のこちらは行動すら制限されているのだから、圧倒的に不利であると言わざるを得ない。
 何故私は汎用型なのだろうか、と時々考えるようになった。
 汎用型とはどんな状況にも柔軟に対処出来る反面、どんな状況にも特化していない。つまり、何をやらせてもそれなりにしかこなす事は出来ないのだ。シヴァは戦闘型であるため、戦闘以外に出来る事は私よりも劣るだろう。けれど戦闘ならば如何なる相手でも必ず打ち破ってみせる確実性がある。出来る事が限られたこの状況で、必要とされるのはシヴァのような特化性ではないのだろうか。私が自分を無力に感じるのは、その特化性の無さから、これだけは誰にも負けない、という自信が持てないからなのかもしれない。つまりはコンプレックスなのだ。
 時がゆっくりと着実に朝へ向かって刻み込まれる。
 夜が明けても、暗く影を落とした私の目の前は晴れる事は無い。晴らさなければいけないのだけれど、その手段が私には見つからず、それだけの力も持ち合わせていない。
 せめて自分の正義だけは貫けるだけの力が欲しい。
 私はそういう意味でもマスターは意志の強い人間だと思う。世間からどれだけ批難されようとも、自分が正しいと思った事は絶対に曲げたりしないからだ。だから、私もそれに相応しいロボットにならなければ不釣り合いというものである。私は自分の意思の弱さを認識した。問題点が明確になったのだから、後は行動に移すのみである。私は目的さえ分かっていればすぐにでも行動が出来る。命令を受けて忠実に従うのが当たり前のロボットにとってそれは簡単な事だ。
 と。
『ねえ、ねえってば』
 主思考を切ってから、どれだけ時間が過ぎただろうか。
 既に日付も変わった時刻、最小限の状態で待機させていた体表素子が何らかの情報を副思考へ伝えてきた。即座に聴覚素子を起動させ状況の把握を始める。
 まさか敵が襲ってきたのだろうか? 決して有り得ない事ではない。ここはこの国で最も安全な場所の一つでありながら、敵の腹の中でもあるのだから。俄かに緊張感が走り、私は主思考の再起動を開始する。
『起きろよなー、ラムダ』
 それが人の声だと認識出来た直後、私の体が揺さ振られるのを体表素子が捉えた。まるで眠っている私を揺り起こしているかのような行動だ。
 声のパターンを調べるとそれが女の子の声という事が分かった。しかし一体こんな時間に何の用だというのか。そもそも誰が私の元へ訊ねて来るのか。一度待機状態に陥ったシステムを完全に回復させるのには時間がかかり、思うようにデータから状況を理解出来ない事にじれったさを覚える。
 そして。
 主思考が完全に起動してまず初めに見たものは、自分の目の前に立つ一人の女の子の姿だった。
「え……? ココ?」
「あはは、驚いた?」
 ココは唖然とする私に抱きついてきた。混乱しながらも私はココの体を受け止めて、ただいつもするように頭を撫ぜる。
 待て。これは何かおかしい。
 主思考が起動した事で判断力が軽快になった私は、すぐさま今の状況が普通では有り得ないという事に気がついた。
 まず、ココのいたカウンセリングセンターからここまでの距離は車でも二時間はかかる。とても子供の足で辿り着ける距離ではない。ココが車の運転方法を知っているとは思えないし、第一ココはテレジアグループの邸宅の場所は知らないはずだ。たとえ知っていたとしても、厳重なセキュリティをどうやって掻い潜ったのかが問題になる。それに、
「わっ、何すんだよ」
 ココの体を離し、持ち上げて確認した足はやはり裸足で、しかも綺麗でつるつるとしている。素足で外を歩いたならものの数分で汚れてしまうはず。本当にここまで自分の足でやって来たとしたら、この足の状態は絶対に有り得ない事だ。
「ここにはどうやって来たのですか?」
「さあ? アタシにも良く分からない。なんか気がついたら廊下に居てさ」
 分からない?
 目を大きくさせて首を傾げるココの表情はいつもと何ら変わらず、その辻褄の合わない答えに嘘や強制は存在しない事が伺える。ならば、まさか誰かが誘拐してここへ連れて来たのだろうか。となると、この状況は敵が私を陥れるために作り出したものであるという事になる。ココと私は公の判断で引き離されたのだから、一緒にいる事を知られたら大変まずい事になる。
 私はすぐさまベッドから飛び出すと、部屋の出入り口へ向かってドアの状態を調べた。しかしドアの鍵はかかったままで、どこにも無理やり抉じ開けたような形跡は見当たらない。
 これもおかしな状況だった。ココは廊下に居た、と言ったが、鍵はかかったままだというのにどうやって部屋の中へ入って来たのだろうか。
「なんだよー、さっきから。寝惚けてるのか?」
 ココが頬を膨らませながらぺたぺたと足音を立ててやって来る。私が何故こんなにも焦っているのか分かっていないようだ。
「廊下からこの部屋へはどうやって?」
「さあ? なんとなくかなあ」
 またしても首を傾げながら目をきょろきょろさせるココ。本当に理由を知らないようだ。
 一体何がどうなっているのだろうか。
 私は過去に似たような物理現象の報告例が無いか検索を試みたが、ざっと検索した程度の文献ではオカルト関連がほとんどでとても説明がつけられなかった。だけど、常識で考えてこんな状況が本当に起こり得るのだろうか? 私はまず有り得ないと思う。車で二時間もかかるような距離のある初めて行く場所へ、誰にも知られず、しかも子供の足でやって来たのだ。靴も履かずに足を汚さぬまま。どんな過程を経てそうなったのかは全くもって不明だが、結果だけは紛れも無い事実としてここにある。私の感覚素子に狂いがなければ、今、目の前にいるのはココ本人に相違無い。ここに存在する事は説明出来ないけれど、この事実を否定する事もまた出来ない。
「ねえ、ラムダ。一緒に寝ようよ。アタシ、眠くなってきちゃった」
 ココが身を寄せてじゃれついてくる。なんだかくすぐったい感覚が懐かしくて、私はこれ以上考えるのはやめる事にした。最近は主思考を酷使し過ぎている。思考には緩急を持たせるのが効率の良い頭の使い方だとマスターも言っている事だし、今日はもういいだろう。
 広いベッドは私とココが並んで寝ても十分な面積があったが、ココは私の腕をぎゅっと掴んで放さなかった。嬉しさ、というよりは寂しさを埋めるかのような、そんな印象のある仕草だ。あれからずっと寂しい思いをさせてしまったからだろう。
 今夜はこのままこうしてあげよう。
 私は寄り添いながらそっと意識を切った。



TO BE CONTINUED...