BACK

「大体の状況は分かりました」
 翌朝。
 昨日よりも疲れの色が濃く滲み出ているテレジア女史が、重苦しい溜息をつく。
「しかし、どうしてまた……。厄介な事になりましたわね」
 私と向かい合って座るこのテーブルから離れた、部屋の奥にある応接スペース。そこには二人がけのソファーとクリスタルのローテーブル。そこでココはビスマルク氏に給仕されながら朝食を取っていた。テーブルの上に並ぶ朝食メニューは、今朝焼いたばかりの麦芽パンと、生ハムやスクランブルエッグを初めとする様々なサンドイッチの具材達。ピッチャーに注がれてるのは専属農家から直送しているというオレンジジュースだ。まるでホテルの朝食のようなラインナップである。
 それらをビスマルク氏が一つ一つ丁寧に取り分けて拵えていくのだが、ココは次々と食欲旺盛に食べていくため作る早さが追いついていない。そのせいでココにせかされているビスマルク氏はうっすら焦りの表情を浮かべている。普段はこういった仕事は給仕にがするため専門外なのだろうけど、ココの存在を明かすのは少ない方が当然良い訳だし、そもそもココはテレジア女史のような落ち着きとは無縁だから、こうなっても仕方が無いのだろう。
「さて当面の問題ですが。今朝のニュースはご覧になりまして?」
「いえ、まだですが」
「そう。では簡単に説明いたしますと、本日付けで警察当局には緊急捜査本部が設置されました。通常、子供の行方不明程度ではここまでする事はまずありませんが、関わっている事件が事件だけに営利誘拐等の様々な事態が予測出来るため、公安からの要請もあってこのようになりました」
 捜査本部が設置されたという事は、所轄だけでなく本庁からも応援が要請され、本格的な捜査を執り行う事を意味する。投入される捜査員の数は桁違いに増えるだろうし、公開捜査にでもなれば世間にはまた一つ大きな波紋が広がる事になる。
「言うまでもありませんが、ココの所在が我々にあると知られてしまったら、当然嫌疑どころでは済まなくなります。それを防ぐためにまず、事実確認も必要でしょうが、それよりも先に私達の潔白性から証明しなくてはいけません」
「でも、どうやって証明すれば良いのでしょうか? 物的な証拠はこちらには何もありません」
「勿論、それも承知済みです。ですからもうしばらくはココをこの部屋から出さないようにお願いします。その間、私は準備を進めますから」
「準備?」
「偽装工作ですよ。ココがさも別な場所で見つかったように思わせるための」
 テレジア女史の口から飛び出した思わぬ言葉に、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。偽装工作とは、公に知られたくない事を知られても問題無いものに本質を歪曲する卑劣な行為だ。その性質上、ほとんどの場合は非合法的な事に対して行われる行為だ。そのため一般的にこの行為自体が違法なニュアンスを含んでいる。
 だから、これまで私達の正当性を証明する事のみに尽力してきたテレジア女史の言葉とは俄かには信じ難かった。確かに敗北は許されない状況ではあるが、絶対に卑怯な手は使わない信念を持って戦っていたと思っていた。彼らとは同じ姑息な手段を使わない事が私達の信念であると、そんな暗黙の了承があったはずである。
 しかし。
「汚いやり方と思いまして? ですが、他に方法はありませんもの。これも必要悪と割り切りなさい」
 私は知らぬ間によほど不服そうな顔をしていたのかもしれない。
 そう答えるテレジア女史に対し、私は反論する言葉を持っていなかった。
 信念とは人間にとって魂そのものでもある、生きていく上での非常に重要な人生観だ。けれど、信念だけではどうにもならない状況は現実的に幾つもあって、今の私達の置かれた状況もそれに当てはまる。
 だから、実利を得るために自ら信念を折る。それは妥協とも言う、言わば精神的な自殺だ。自分の価値観を自分で変える事は非常に困難で苦痛である。しかし、それすらも良しとせねばならないほど私達が追い詰められているのは、私もテレジア女史と同じぐらい理解しているつもりだ。そんな背景があるから、決して納得がいく訳ではなかったが、テレジア女史への反論の言葉は見つからなかったのだ。
 私もまた現実をきちんと直視しなければならないと思った。テレジア女史とて、自分の信念を曲げてまでこんな事をするのは本意ではないはずだ。けれど、そこまでしてでもやらなければならない事があって、それは私と同じ目的である。テレジア女史は私よりもずっと明確に現状が把握出来ているし、それに対する手段も遥かに多く持っている。だから私はテレジア女史に従うべきなのだ。それはロボット以前の問題である。
「ひとまず、あなたがしなければならない事は分かりましたね?」
「はい。ところで、検査が終わったという事は、私がここに居て問題は生じないのでしょうか?」
「それは問題ありません。公安には検査の後、経過を観察するという事でしばらくの間テレジアグループへの管理委託を承認させましたから」
 つまり、当分の間は何をする訳でも無く、ここに日長居られるという事になる。どこかで私は安心した。またココと引き離されてしまうのでは、という不安感が少なからずあったからである。
 敵は最後の駄目押しと言わんばかりに、追撃の手を一層強めてくる。なんとしてでもそれを振り切り、私達の正当性を世間に知らしめなくてはいけない。私の幸せはマスターとの生活の中にしか存在し得ない。だから、文字通り命懸けで戦い抜く、そんな覚悟だ。
「何か質問はあるかしら?」
「あの、やはりどうしても気になるのですが。ココは一体どうやって来たのでしょうか? 私は誰かが今の構図を作るため意図的に行った工作なのではないかと思うのです。だから、やっぱりこれもちゃんと考えるべきだと思います」
「ココの件に関してはそれが妥当な所でしょう。まさか子供の足でこんな所まで歩いて来れるはずがありませんし、子供如きに侵入されるようなテレジアグループのセキュリティではありませんからね。何者かがココを薬で眠らせてセンターから連れ出し、ここまで車で運んで連れてきた。そんな所でしょうか。これまでの推理では犯人はテレジアグループの身内ですから、当然廷内への出入りも可能でしょうし、地理にも明るくて当然です。そして、廷内に自由に出入り出来るというのは犯人を特定するための重要な手がかりとなります。深夜の廷内への出入りは非常に制限されていますし、それに全ての入退の記録は中央サーバーにしっかりと映像付きで保管されていますの。ですから、調べようと思えばこれ以上非の打ち所の無い記録を公表する事が可能ですわ」
「それでは、犯人への目星は更につけやすくなったという事なんですね」
「ええ。彼らはきっとこの事実を公表して世間の非難を蒸し返すつもりなのでしょうが、それが逆に仇となりましたわね。しかしそれにしても、本当に嫌らしいやり方ですわ。少しばかりの信念も無いのかしら」
 テレジア女史が僅かに声を荒げた事に私は目を瞬かせた。テレジア女史がこういった詰るような言葉遣いをするのは初めて聞く。やはりよほど追い詰められているからなのだろうか。
 敵がテレジアグループ内にあるとすれば、確かにココをこの建物内へ連れてくるのも容易な事だ。ドアのロックの件もそういう事だからなのだろう。しかし、良く考えてみれば、それはとても恐ろしい事だ。無防備な私のすぐ近くまで敵がやって来ていたという事なのだから。決してここは安全ではない、と私は今一度自らに戒めのためそう言い聞かせた。
「今日は午後からあなたのメンテナンス作業があります。近い内にこちらも攻勢に出ますから、そのつもりでいなさいね。くれぐれもそれまでは慎重な行動を心がけなさい。そして、いつでも動けるよう心の準備を」
「はい」
 ロボットに対して心の準備とは全く意味の無い命令である。けれど、そう指示される事がまるで人間のように扱って貰えている気がして心なしか嬉しく思えた。テレジア女史が味方で本当に良かったと思う。マスターが拘束されてしまった以上、人権の持たぬロボットは必然的に誰か人間を頼らなくてはならないが、少なくともテレジア女史以外には全面的な信用の置ける人間を私は知らない。
「さて、私はそろそろ出かける事にいたします。何かあったらビスマルクに言いなさい。彼なら早急に対処してくれるでしょう」
「分かりました」
 テレジア女史とシヴァが連れ立って部屋を後にする。通常の業務の他、表向きのマスターのための調査の上、更にココの件での裏工作までしなければならない。そんな多忙の身でありながら、私はただ待ち続ける事ばかりで、ただ望みを向けるしか出来ないでいる。もっとも、テレジア女史にしてみれば私には下手に動かれた方がかえって迷惑なのだろうけれど、せめてもっと具体的な支援をしたいと、その欲求は未だ涸れる事無く私の胸中に存在し続けている。
 と。
「はー、お腹一杯。なんだか眠くなってきちゃった」
 こちらの状況を知ってか知らずか、そうココは呑気にソファーで横に転がる。
 そんなココの姿を見て、やはり私達の抱える問題には出来るだけ関わらせないようにしなければ、と私は思った。ココにはこんな非日常を味わわせてはいけないのだ。私達の関わっているこの状況は、針の筵を歩くようなものなのだから。
 偶然目が合ったビスマルク氏が微苦笑を浮かべてみせる。お互い同じ事を考えているのだろう。この緊迫した状況ではなく、ココのあまりのマイペースぶりに対する思う所についてだ。



TO BE CONTINUED...