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 それはまるで、巨大なプリンの中を潜ったかのような感覚だった。
 まとわりついては来るものの残留はせず、圧迫してくるものの粘着はせず、とにかく例え以外には奇妙としか言いようの無い感覚である。
 つるっと滑るように再び外へ飛び出した私は、今の出来事がとても信じられず、ただただ唖然としたまま自分の体をどうなっているのかと見つめた。そして振り返り見た背後の防火壁。恐る恐る触れてみるものの、伝わってきた感触は当たり前の硬度そのもので、たった今、自分が突き抜けて来たとは到底思えないものだった。
「ココ? 今のは一体……」
 とても今の出来事が信じられず、そう私はココへ訊ねてみる。けれどココは再び薬の睡魔によって夢の中へ連れ去られてしまっていた。
 果たして物理的にこんな現象が起こるものなのだろうか。この現象を説明する科学的理由とは一体。
 疑問に思いつつも、私は思考を切り替え、今は脱出する事に専念すべきと正面玄関から外へ向かった。メモリ内に展開していた研究棟のマップデータをクリアし、庭内のデータへ切り替える。しかし私の持つデータは研究棟周辺の極一部のものにしか過ぎず、ここから正門までの道順しか分からない。しかも大通りへ最短距離で向かうため、敵の追走を最も受け易い危険な道順だ。ある程度方角が分かれば自分で経路を作成する事も出来るが、セキュリティ機能の全貌まで把握している訳ではない。下手な迂回はかえって遠回りになりかねないのだ。
 そして。
「キャアッ!?」
 外へ飛び出した私を真っ先に襲ったのは、すぐ目の前を歩いていた帰宅途中らしい女性社員の悲鳴だった。けれど私は謝罪のため立ち止まる暇も惜しみ、そのまま鋭角に向きを変え駆け出す。
 まるで高級別荘地のような街路を、大通りに向かって直走る。行き交う人達は皆、ココを抱えて走る私を見てぎょっと目を見開き一様の驚愕を見せた。現在の時刻はまだ宵の口、未だ業務中の者もいるだろうし研究者が夜遅くまで残っていてもおかしくはない。むしろ、私達のいた研究棟に誰もいなかったのが不自然なのだ。おそらくビスマルク氏が予め人払いをしていたのだろう。
 黙っていても道を空ける人々の表情に、私は今とんでもない事をしでかしている恐怖に苛まれた。それは私の良心に背くという意味ではなく、世間体的にという観点からだ。こんな時期に、セミメタル症候群であると認定されたロボットが行方不明になった子供を抱えて突如研究棟から飛び出したのだ。誰の目にも私の精神野にバグが発生し暴走しているようにしか見えない。
 静寂一色だった研究棟から一変して賑やかな通りとのギャップには驚きはしたが、少なくとも人込みの中へ居る内はビスマルク氏も露骨な手段に打って出る事はないだろうと考えた。幾らなんでも他人や監視カメラの目がある中で、ココを拳銃でどうにかしようなどと出来るはずがないのである。
 しかし。
「えっ!?」
 私は前方に群がる人込みの中に、絶対に居るはずの無い姿を見つけてしまった。
 大通りを目前に立ちはだかっていたのは、あの真っ赤な短髪の青年だった。ビスマルク氏がアスラと呼んだ彼である。
 もう追いつかれたというのだろうか。しかし、それは有り得ない。防火壁は依然降りたままだったのだ、裏口へ迂回するにしてもこの速さは尋常じゃない。
 いや、考えるのは後だ。今は目の前の状況をどうにかしなければ。まさかこんな人込みの中で襲い掛かるような真似はしないだろうが、素直に道を空けるとはとても考えにくい。
 どうやってこの場を突破しようか。
 ココをしっかりと抱きながらメモリ内に様々な案を展開し思案を始める。
 と。
『緊急放送、緊急放送!』
 突如大音量で鳴り響く人の声。それは街路に一定間隔で設置されているスピーカーから放たれたものだった。
『第三十四研究棟よりロボットが一体脱走しました! このロボットはセミメタル症候群と認定されているため非常に危険です! 庭内に残っている方はただちに付近の建物へ避難して下さい!』
 けたたましいサイレンと共に放たれる避難勧告。直後、雲霞の如く道行く人々が悲鳴交じりの声を上げて我先にと走り始めた。
 思った通り、最悪の展開をなぞっている。そう悪くなる一方の状況に苛立ちを覚えた。彼らにとって私は、さながら子供を人質に取った凶悪ロボットといった所だろうか。これは確実にマスターの起訴判断に悪い印象を与える。ココを守るために仕方ないとは言え、マスターやマスターのために尽力しているテレジア女史には本当に申し訳無く思った。
 いや、きっと二人とも分かってくれる。マスターもテレジア女史も、浅慮とは程遠い方なのだから。それに、今やるべき事はココだ。ココを如何に守りきるか、それ以外を考える必要は無い。
 そして。
 すっかり閑散とした通りを一度ぐるりと見回して確認すると、おもむろにアスラは私を見据えて半身の構えを取った。
 やるしかない……。
 私はココを路地脇へ座らせると、前へ進み出て相対する構えを取った。
 排熱パネルは搭載しているものの、依然私は生活換装の汎用型ロボットだ。出力を初めとする様々な点で戦闘型には遠く及ばない。私の武器は、かつてメタルオリンピアのギャラクシカにおいて決勝戦にまで上り詰めた戦闘経験だ。しかし、たったこれだけで倒す事が出来るものなのか。だが、無理を承知でもやらなくてはならないのだ。それが、ココを守るという事なのだから。
 持久戦はこちら側が不利になる。やはり先手必勝だ。
 私は鋭く前へ踏み込んで一気に間合いを詰める。両手を腰で溜め、肩を前方に突き出すように構える。それは日本刀の居合いの構えにも似ている。
 鼻先が触れ合いそうな程の間合い。ここまで接近出来たという事は、私がイニシアチブを取ったという事だ。
 自分の優位性を再確認するなり、私は早速攻撃に出た。まずは左手の手のひらを突然アスラの目の前に広げてかざし、視界を一時的に制限する。同時に、腰で低く引き絞った右掌を、上半身の旋回運動に併せて繰り出した。
 放った掌打はいとも簡単にアスラの鳩尾へ吸い込まれる。掌へ伝わってきた外殻の硬度も戦闘型というレベルでは十分に予測していた範囲内で、みしっと指関節が軋む音が伝わって来た。
 やはり戦闘型の外殻は硬く、そうではない私の手ではそう何度も打つ事は出来ない。拳を使えば一発で潰していただろう。しかし、今の掌打は手ごたえがあった。衝撃が完全に外殻の内側まで貫通したのを掌と手首とで感じ取れたのだ。
 アスラの両足が一瞬路面から離れ、体を折り曲げながら宙に浮く。私の掌打の衝撃によるものである。しかし、すぐにアスラは姿勢を戻すと、幾分もよろめく事も無く、自らの両足だけでしっかりと着地し、同じように構えを取り直した。内側も衝撃に対して耐性があるようである。
 正直、戦闘型と事を構えるのはかなり分が悪い。汎用型である私は日常生活で起こり得る様々な場面に適用出来るように設計されているが、戦闘型は戦闘のみに特化しているため根本的な設計から異なるのだ。おそらく今の一連の行動で私の実力は数値化し解析されているだろう。私が初撃で勝負を決めたかった事も知られたはずだ。
 せめて、ジェットカッターがあれば。
 ギャラクシカで私は両手の指先にジェットカッターと呼ばれる白兵戦用の武器を搭載していた。ジェットカッターとは高圧のイオンを指先から発し、対象物を切り裂く兵器である。汎用型はそもそもメインフレームが戦闘型ほど頑丈ではないため、出力を上げれば上げるほど掛かる負担は大きくなる。そのためにジェットカッターのような反動の少ない兵器を搭載していたのである。
 マスターのジェットカッターなら、たとえ相手が戦闘型であろうとも外殻は紙のように切り裂く事が出来る。メイン動力炉を破壊してしまえば戦闘不能になることは既にシヴァで実証済みだ。この国でシヴァよりも強い戦闘型ロボットはいないから方法としては間違い無いのだろうが、しかし今の私にジェットカッターは無いため彼を倒すには全く別のアプローチが必要になる。
 比較的負担の少ない掌打でも、狙う部位を選ばなければ十分な破壊力は期待出来ない。如何に効率良くダメージを与えるかを考えたら、やはり狙うのは顎だろう。戦闘型とて首は構造上最も耐久力が低い。顎を正確に打ち抜けば電脳にも大きな衝撃を与え、強制的に休止モードへ陥らせる事が出来るはず。ただし、敵も自分の弱点は理解しているだろうし、そこを重点的に守ってくる。戦闘型の意表を突くのは簡単な事ではない。初打でそれは把握されている。私が変則的な戦い方をすると知られた上で、更に変則的な方法を考えなければならない。
 と。
「開始」
 アスラが前足を踏み込んで来た。
 滑らかな体重移動から繰り出してくる右拳の鋭い乱打。しかしそれは牽制目的らしく、まるで体重の乗っていない軽いものだった。それを私は両手の甲を利用して方向を変えながら捌いていくものの、さすがに戦闘型の出力は桁違いであるため、捌く手の甲にもかなりの負荷がかかる。
 しかし、辛うじてではあるがついていけないほどのラッシュでもなかった。思考クロックを特に調整しなくとも、十分彼の攻撃パターンに対応する事が出来る。それだけでも随分な救いである。
 断続的なジャブの後、突然左腕が水平に閃いた。真横から私の顎を狙うフックだ。アスラはボクシングの攻撃パターンをインストールされているのだろうか。私にとってそれは好都合だった。一般的に知られる攻撃パターンほど、私には対応しやすいのである。
 私は唸りをあげて襲い掛かる左の拳を上半身を逸らしてかわす。そしてすかさず通過途中の腕を、手首を左手で掴んで引きながら肘を持ち上げるように右手で押し上げた。すると、彼の体が自分の放った拳の勢いでバランスを崩した。そのまま私は彼の体を投げ、顔付近から着地するよう不自然な姿勢のまま石畳へ叩き付けた。
 しかし。
「ッ!?」
 叩き付けた瞬間、私は自分の左腕に違和感を覚え思わず視線を落とした。すると、アスラの左手が私の袖を掴んでいたのである。
 そのままアスラの腕は強引に引っ張り投げ飛ばそうとしてきた。咄嗟に私は空いた右手で掴まれた袖を払うように千切ると、すかさず後方へ飛んで間合いを取った。
 アスラは何事も無かったかのように起き上がると、上着の埃を払いもせずに私の方をじっと見据え再び構えを取り直した。
 全てが不気味なほど戦闘へ集中されていた。エモーションシステムを搭載されていないから、無気質な行動パターンにそんな印象を受けるのだろう。けれど、アスラから伝わって来るこの抜き身の刃を首筋に当てられるような感覚は、事を交える都度、その冷たさや鋭さを増してくる。
 そう、この感覚は以前にも味わったことがある。
 ロボットにも既視感はあるものなのだろうか。極めて酷似したデータパターンを受けるとそう錯覚してしまうと、ただそれだけなのだろうか。いや、ただ似ているだけにしても理由はある。そもそも私は、家事が専業のロボットなのだからロボットと戦った経験など数える程しかないのだ。
「目標戦闘レベル修正。レベルBの標的と判断。『フラッシュナックル』の使用許可申請」
 淡々と自らのデータを補正していくアスラの目は、瞬き一つしない、ただ目の前の相手に集中する戦闘マシーンのようだった。
 そうだ、私はこのデータパターンを知っている。
「使用許可コード受理。排除に移る」
 アスラは徐に上着へ手をかけると、それを引き千切りながら無理やり脱ぎ放り投げた。前腕部が人間とは明らかに異なるのが服の膨らみから見て取れた。戦闘型ロボットには良くあるフォルムだが、私にはその形状が疑問を確信へと変える要素のひとつとなった。
 これはそう、ギャラクシカの決勝戦での感覚にそっくりなのだ。アスラは、あのシヴァと行動パターンが極めて酷似しているのである。
 間違いない。
 アスラはシヴァの流れを組むロボットだ。



TO BE CONTINUED...