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 ここは一旦逃げるしかない。数で圧倒されている以上、広い場所では不利になる。
 アスラはすぐには襲い掛からず、慎重に私の出方を窺っているようだった。おそらく、先程私がアスラを倒したデータを並列化したのだろう。性能で上回っていても、それだけでは勝てない相手として私を認識しているに違いない。
 正直、それはありがたい過大評価だった。既に私は一人を倒しただけで限界であり、一度に四人も相手にするような離れ業をしようなどと初めから毛頭ない。しかし、私をそういった行動に出る可能性がある、と認識してもらうのは良い意味での牽制となる。
 私はゆっくり慎重に周囲を見渡した。既に閉店したオープンカフェが軒を連ねた周囲からは全く人の気配は感じられない。巻き添えにする心配は無いのだろうが、逆に言えば一切の助けが期待出来ない事にもなる。
 よし、あそこをうまく使えば……。
 私はすぐさま方向転換すると、そこから丁度二十歩の歩幅にある一番狭い路地へ駆け込んだ。狭い場所へわざわざ入る利点は、迎え撃つ構図が必ず一対一になる事だ。最も危惧する、一度に襲い掛かられて押し切られる危険性が無いのである。
 基本的に町を設計するに当たって路地というものは設計の対象に入っていない。それは、路地というものは歩道のように敷くものではなく、建物と建物の間に出来てしまう境界線がそれであるからだ。境界線としての役割を果たせば、実際はどれだけの横幅があろうとも別段支障は生まれない。だからわざわざ広く路地を作る業者はいない。人が一人優に通れるほどの路地なんてむしろ珍しいくらいだ。
 路地は丁度私の肩幅より一回りほど広い程度で、方向転換するのがやっとだった。この幅なら、幾らアスラでも一度に襲い掛かる事は出来ない。建物を破壊すれば話は別だが、そんな事をしている間に私は遥か先まで逃げる事が可能だ。
 飛び込んだ路地は思ったよりも長く伸びていた。どうやら建物が二つ連なっているようだ。けれど、駆け抜けるにはそれほど時間は要しないし、排熱にもまだ余裕がある。場合によっては更に横路地へ曲がるのも良い。後は、この路地を抜けてから別な路地を探すなりの逃走手段を考えよう。
 薄暗い路地の先にある、ぽっかりと見える光の漏れ入る地点が出口だ。視覚素子にも聴覚素子にも前方から異常は感じ取れない。
 しかし。
 ん……?
 ふと聴覚素子が捉えた物音に、私のメモリ内に緊張が走った。
 この音は!
 聞こえて来たのは先程逃げ惑う人込みの中で聞いたあの駆動音だった。明らかに人の流れとは反対に向かってくる音であったため殊更はっきりと覚えている。先程は雑踏の中だったため正確に認識出来なかったが、今ようやくそれが排気量の大きい大型二輪のものである事が分かった。なるほど、私達を追走するには最適の乗り物だ。乗用車と同じ速度が出せるにも関わらず遥かに小回りが利くため、このように入り組んだ場所では断然有利だ。
 駆動音は唐突に大きく響かせながら反対側から路地へ入り込んできた。アクセルを鳴らし、より加速させながら真っ直ぐこちらへ向かってくる。
 まずい、出口を塞がれてしまった。このままでは挟み撃ちにされてしまう。
 すぐさま足を止めるものの、その直後に聴覚素子が背後からこちらへ向かってくる足音を捉えた。既にアスラ達は私を追走し、この狭い路地へ入ってきてしまっている。入り口へ引き返す事はもはや不可能だ。
 完璧な挟撃の構図である。この深刻な状況を脱するには、もはや逃げ道は上下へ求めるしかないのだが、あいにく周囲にマンホールのような地下道に類するものは見つからず、かと言って建物の壁を這い上がっていくには今の左肩の状態でアスラ達を振り切るのは不可能だろう。
 どうすれば。
 私は思考野へリソースを回して打開策を考えたが、一向に思いつかなかった。状況が圧倒的に不利過ぎる。物理的な戦力差もさることながら、準備に費やせる時間も無い。歴史上には様々な奇策を用いて敵軍を震え上がらせたという智将が幾人もいたそうだが、彼らは皆、それ相応の時間があったからこそ絶望的な状況も覆せたのだ。私が同じ事をしようとした所で、それは絶対に不可能なのである。
 音の接近速度からして、先に遭遇するのは前方のバイクの方だろう。バイクは自動車より小回りが利くものの、それはあくまで相対的なものだ。ぎりぎりまで引き付けてかわしてしまえばすぐには追って来れないだろうし、その間に逃げながら何か良い手段を考える事も出来る。非常に具体性が無く状況への依存度が高い案だが、もはやこれに賭けるしかない。
 私はココを背から下ろし前で横抱きにする。体を屈めれば、ある程度の盾になってココが怪我をする可能性が低くなるからだ。横の壁の素材を触って確かめる。一般的なアスファルトだったが、私の握力では指を突き立てるのは無理だろう。バイクを横にすり抜けさせる程の道幅は無いから上へ跳んでかわす事を考えたが、あらかじめ上方へ跳んで壁に張り付く事は出来そうに無い。しかし摩擦係数は高いため、一時的な足場として使う事は出来る。タイミングを図って跳躍し、バイクをやり過ごすしか方法は無さそうだ。
 と。
「あっ!」
 視覚素子と聴覚素子を同期させてバイクとの距離を測っていたのだが、突然バイクのハイビームに視覚素子を撃たれてしまった。光量の調節機能は汎用型の性能であるため即座に最適化する事は出来ない。そのため人間と同様、一瞬視界がブラックアウトしてしまう。
 致命的なタイミングで行動の判断が遅れた。状況を理解した私は、咄嗟に体を半身にして右肩を前方にし軽く腰を落とした。バイクとの距離が測れなければ回避する事も出来ないので後は衝突するしかないからである。だからせめて衝撃を軽減しようという苦肉の策だ。もっとも、大排気量のバイクと真っ向から激突しておいてその衝撃に耐え切れるとは初めから思っていないのだが。
 とにかく今はココが最優先だ。私は向かってくるバイクの衝撃に備える。
 だが。
「ラムダ、飛びなさい!」
 突然、私へ激しい口調の言葉が飛んできた。あまりに予想外だった私は、思わずその言葉に従って右側の壁に向かって跳んでしまった。
 すぐさま甲高いブレーキ音が周囲に鳴り響く。私は構わず連続した次の動作へ移る。慣性で張り付いていた壁を足がかりとし、反対側の壁へ飛びつくように更に上へと自らの体を打ち出す。体が最初に想定したバイクを飛び越せるほどの高度に達すると同時に、眩んでいた視覚素子の光量の最適化が完了した。空中でくるりと弧を描き姿勢を取りながら眼下を見下ろす。感覚素子が認識していた通りの大型バイクが、丁度私がすぐ先程まで立っていた場所で前のめりになりながら急停車した。バイクに跨っているのは二人、一人がハンドルを握りもう一人が振り放されぬようその腰にしっかりと掴まっている。一人はタキシードを着た青年、もう一人は髪をアップにまとめレザースーツを着た女性だった。
 着地点を定め、膝で衝撃を吸収しながら着地する。ココはいきなり私が飛んだ事で驚いたらしく、目を白黒させている。この様子ではどこも怪我などはしていないようだ。
 何が何だか分からないが、ひとまずは助かったようだ。本当はまだ緊張を解くには早いのだが、軽く張っていた肩の力を抜きニュートラルを努める。
 すると、
「これは一体どういう事なのです!?」
 後部に跨った女性がバイクから降りて来るなり、いきなり激しい口調で私へ詰め寄ってきた。急に怒鳴られた私は思わず肩をびくりと震わせ、一歩後ろへ下がってしまう。
「いえ、その、どうしてこちらに? 確か本日の予定では……」
 慣れない強い調子に思わず言葉がしどろもどろになってしまう。言葉が出ないのではなく、言葉を選べなくて曖昧な信号にインターフェースが混乱しているためだ。
 その女性はテレジア女史本人だった。普段はビジネススーツかドレス等の服装ばかり見ていただけに、初めて見た活動的な服装をしたテレジア女史をすぐにそうだと認識出来ず、しかも認識した後も普段とのギャップに驚いたのである。
「何故ここにですって? 自宅で事件が起これば、一番最初に誰へ連絡が行くのかを考えれば当然でしょう! ここへ来るまでどれだけ苦労したことか! それよりも、この状況は何なのです! あなた、一体何をしたの!?」
 正直、ここまで感情を露にしたテレジア女史を私は初めて見た。ただでさえ精神的な重圧がかかっていた所にこんな事件が起こったのだから無理もないのだが、マスターとは対照的な静のイメージが強いテレジア女史であるだけに、納得よりも驚きの方が強かった。
 血相を変えて更に詰め寄るテレジア女史を前に、私は再び一歩後退ってしまった。私の性格設定のせいなのか、人に怒鳴られるのはどうしても苦手なのである。
「ミレンダ様、コード不明の機体が四機、こちらへ向かって来ます」
「鬱陶しい。そのバイクでもぶつけてやりなさい」
 バイクから降りたシヴァに向かって、テレジア女史はまるで吐き捨てるように感情も露にそう指示する。そうとうこの事態に怒っているのがひしひしと伝わってきた。
「爆発を伴う危険性がありますので、ここから離れて下さい」
「そうですわね。こういう所は私の性にも合いませんし。とにかくラムダ、話は通りで聞きますわ」
 はい、ととにかく頷いて私はすぐさま通りに向かって駆けた。
「うわ、ミレンダってば、おっかなー」
 ココがこそこそと私に囁いてくる。さすがに肯定も否定も出来なかった私は、ただ曖昧に微笑むしかなかったが、その表情はきっと苦笑いになっていただろう。
 路地を抜けて通りに出るなり、路地の奥から爆発音が聞こえてきた。路地から私の背を目掛けて突風が吹き出してくる。テレジア女史の言った通り、シヴァはアスラ達に向かってあのバイクを投げつけたのだろう。考えてみれば、テレジア女史らしからぬ実に粗雑な内容の命令だと思う。感情的になり過ぎているせいだ。
「それで、一体何の騒ぎです? 機動隊どころか、衛国総省にまで出撃要請が出ていますわよ。ギャラクシカでシヴァを大破させた事もあるロボットが子供を人質に暴走を始めた、とね」
「実は、犯人が分かったんです。今回の事件の黒幕が」
 幾分か落ち着きを取り戻した様子テレジア女史。私は口にするのももどかしいほどに、この事実を告げようと早口で口火を切った。その事実にテレジア女史はきっと驚きを見せるはず。何故なら真犯人は私達にとってはあまりに身近で意外な人物だからだ。けれど、
「ええ、知ってますわ。ビスマルクでしょう?」
 私が告げようとしていたその名を、あっさりとさもなさげに答えてしまったテレジア女史に私は驚きの目を向けた。何故、テレジア女史がそれを知っているのか、私とてつい先程に本人が直接行動に出てきた事でようやく知り得た事実だというのに。
「まさかとは思いましたわ。ですが、捜査を進めるに連れてそうとしか考えられない物が幾つも出てきましたもの。あなたに打ち明けていなかったのは、それにあくまで疑っているだけで確信に至るだけの材料を手に入れていなかったからです。ビスマルクの性格上、あからさまに私が嗅ぎ回ってももう少し慎重に行動するだろうと踏んでいましたが、まさかここまで大胆な行動に出るとは思いませんでした。念のため排熱パネルをつけさせておいて正解でしたわ。ですが、こんな事になるのでしたら、疑惑レベルでもやはりあなたには打ち明けるべきだったのでしょう」
 今の私は生活換装であるが、小型の排熱パネルを幾つか搭載しているため、熱効率だけは戦闘型に匹敵する。それが単純な戦闘力に直結する訳ではないが、長時間限界に近い出力を安定して出せるという大きな利点がある。そのおかげで私はここまで逃げて来れたようなものだ。普段の換装であったなら、建物を飛び出した辺りでオーバーヒートしていたかもしれない。まさにテレジア女史の慎重さが功を奏したと言えるだろう。
「さて。状況は分かりましたが、あまり芳しくありませんね。既に弁解の余地が無いほどに状況証拠が出来上がっていますから。私もシヴァもこの状況では、エリカやあなたへの加担者という構図はほぼ確定的です。さすがに衛国総省と事を構えるとなったら、火傷では済まされません。過度な期待は今まで以上に持てなくなるでしょう」
「ですが、私はどうなっても構いませんから、せめてココだけでも」
「ラムダ、それでは意味が無いのよ。正しい者は一人として犠牲になる必要はありません。それこそ悪に屈する事ですから」
 正義を尊び悪を裁断するのが社会におけるルールだ。しかしそれは絶対のものではなく、同時に倫理性との競合によって幾つもの矛盾を孕んでいる。人間の定義した正義とは具体性に乏しい曖昧なものであると私は理解した上で認識している。だから正義よりも実を取ろうとする選択は必ずしも愚かではないと、そう思っていた。けれど、今回はそんな一筋縄で行くような簡単なものではない。正義とはどれだけ不透明でも、世論はそれを絶対と信奉する。正義の基準がなければ自らにとっての敵味方の区別がつけられないからだ。もしも社会で自らの居場所を確立するならば、世間の敵ではなく味方として認知されなければいけない。つまり、ココの命を助けたとしても、それでは半分の勝利なのだ。私達の完全な勝利とは、その上で自らの潔白を証明しなければならない。
 だが、今の私はこうも思うのだ。潔白を証明しようとすればするほど、更に冤罪の深みに足を絡め取られてはいやしないかと。ただじっとしていても犯罪者として扱われるだけであるが、潔白を証明しようとしてもむしろ罪は余計に深まってしまっている。なら、どの道私たちは潔白を証明する事は不可能なのではないだろうか? だったら、私はロボットだ、完全なリアリズムに則れば最優先されるべきは、罪は問われないであろうココの身の安全だ。
 その時。
「あら、見た事も無い機種ですが、どこのブランドかしら?」
 ふと口元に意味深げな笑みを浮かべるテレジア女史に、私はハッと周囲を見回した。いつの間にか、幾人ものアスラ達が私達を扇状に取り囲んでいる。私が最初に見たアスラなのか、それともこの辺りに配置しておいたアスラなのか。けれど、もはやそれはあまり大きな問題ではなかった。アスラはシヴァを改良した量産型であり、私達の共通の敵であるビスマルク氏の走狗である、この二つだけで十分なのだ。
「ミレンダ様」
 ぬっと路地から現れるシヴァ。爆風を浴びたせいか、多少上着が埃で汚れている。すると、それを見た一人のアスラが不意に前へ進み出てきた。反射的に私は一歩下がり、シヴァはテレジア女史を庇うように自ら前方へ進み出る。だが、
「いいわ、シヴァ。まだ手出しは無用よ」
 テレジア女史はそんなシヴァを右手で制し後ろへ下がらせると、あえて自分から進み出たアスラの方へ歩を進めて真っ向から対峙する。私はその光景を危険か否か判断に悩んだ。アスラの性能を考えれば、人間の命を奪う事など実に容易い。しかし、アスラには私やココを襲う理由はあるが、テレジア女史を襲う理由は無いのだ。迂闊に手を出せば側近に疑いの目を向けられるのは当然の事であるし、ましてやロボットの関わった犯罪は特に厳しく捜査される。ビスマルク氏にとってテレジア女史はいち早く消したい存在であるのだが、一番手を出せない存在でもある。けど、それはあくまで論理上の問題であって、物理的に危険な状況に晒されている事には変わりないのだけれど。
「随分とお早い到着でしたね、ミレンダ様」
 不意に口を開いたアスラ。私は思わず耳を疑ってしまった。放たれた声はビスマルク氏のものだったからである。おそらく遠隔地から特殊なインターフェースを使ってアスラの声帯とリンクしているのだろう。だが、ビスマルク氏を良く知っているだけにアスラの姿からビスマルク氏の声が放たれるのは異様としか言い様がなかった。
「まさかあなたがこれほど冷静さを欠いているとは思いもしませんでしたの。おかげでこのような格好もしなくてはならなくなりましたわ」
「相変わらず強情な所は父親と瓜二つだ」
 浴びせかけられる嘲笑に、テレジア女史は腕組みをしながら悠然と佇んだまま動かない。しかし、かすかに右手の指が左腕に強く食い込んでいるのを私は見つけてしまった。それが悠然とした表情の下に隠したテレジア女史の本音なのだろう。
「しかし、もう手遅れです。あなたはもう間も無く、総帥の椅子を追われるでしょう」
「あなたも相変わらず自信過剰ね。自己評価も出来ないから、いつまでも人に使われるのよ」



TO BE CONTINUED...