BACK

「あー、やっぱ家が一番よね。懐かしい柱の傷とか無くなったのはちと寂しいけど」
 マスターはアクリル生地のホットパンツに、膝ほども丈のある男性用のシャツを着ただけ格好でリビングのソファーに勢い良く腰を下ろした。首に巻いたタオルで湯上りの汗ばむ肌を拭いつつ、ソファーに体を預けて天井を仰ぐ。火照った肌からはまだ湯気がゆらゆらと立っている。
「あの、マスター。そろそろテレジア女史がいらっしゃる時間ですから着替えた方が……」
「別にいいってば。どうせ身内でやる飲み会だし。それよりも、さっき買った生牡蠣、今どうなってる?」
「はい、半分は酢がきにしてもう半分は酒蒸しにしています。そろそろ出来上がりますよ」
「おし、じゃあ今夜は久し振りに飲むか! 徹底的に! しばらく臭い飯ばっかだったもんなあ」
 そう張り切るマスターに、私は飲み過ぎは良くありませんとも言えず、ただ曖昧に微笑んで答えた。
 事件から一週間が経過した。
 大統領から特赦を受けたマスターは即日釈放され、私は驚くほどあっけなくマスターとの再会を果たした。マスターの罪状は全て破棄され、しかも勾留されていた期間分の日当までもが支払われる事になった。公安が誤認逮捕を認めたためだと思う。私はマスターを一方的に犯罪者と決め付けた公安にあまり良い印象は無かったのだけれど、自らの非を素直に認めた公安の姿を見る限り、公安は自らの仕事に対して並々ならぬプライドを持っているのだと感じた。自らの過ちを認めるのは簡単な事ではないが、それをあえて認めて正そうという姿勢は、生半可な信念で出来るものではない。感情のレベルでは未だ公安を認めたくはないのだけれど、理性的な部分ではそんな公安の体質を認めるだけでなく賛辞を送らずにはいられなかった。
 しばらくの間は衛国総省と公安、そして所轄とたらい回しにされながら聴取を受け、その合間にマスコミとも何度か会見をした。私のセミメタル症候群という診断は覆されていないが、大統領特権による保護により月に一度の心理診断を受ける意外に特別な拘束は無い。だが、何よりも驚いたのが、そんな私へ対する世論の反応だ。大統領に保護されているとは言っても、世間は私を危険なロボットだと見るのではないかと思っていた。しかし意外にも、私は外を歩いたところで行き交う人が露骨に嫌悪感を見せて離れていく訳でもなく、ただいつもの通り風景の一部としてしか認識されなかった。
 私の存在に人間はそれだけ無関心だからなのかと最初は思った。けれど先週末、取材に協力したとあるテレビ局から私に宛てたと思われるメールが幾つか転送されてきて、その内容にとても驚かされた。あの日、現場で起こった事件の一部始終はテレビで報道されていたのだが、それを見た人が『あなたに心を打たれた』と感想を述べていたからである。私が町を歩いても非難を受けないのは、私が大統領から特別に保護を受けるだけの価値がある存在であると、大衆に認められているからなのかもしれない。
 ずっと私は、ロボットの言葉なんて人間は意に介さないものだと思っていた。けれど、私は結果的にではあるけれど、確かに現代社会におけるロボットの在り方に対し、一石を投じたのである。今後、その小さな波が大きく渦巻いていくのか、ただの漣で終わるのかは分からない。だけど、ロボットでも人間の心を動かす事は出来るのだと、それを証明出来ただけでも全てのロボットに対し小さな希望を示した事になる。
 衛国総省に扮したビスマルク氏の部下によって襲撃を受けほぼ半壊された家は、ようやく昨日になって再建が終了し、戻って来れたのが今日の昼の出来事。これまで私達を取り巻いていた異常事態は嘘のように収束し元の生活が戻ってきた。私はいつものように、マスターが何も不自由無く生活出来るよう家事に精を出す。他から見ればさもない事かもしれないが、私にとってマスターとのこういった生活こそが自らの存在意義を実感し幸せ足り得るものなのだ。極論を言えば、私はこの日常さえあれば幸せなのである。この生活の中で得られる全てのものが、私にとっての幸福の定義になるのである。
 でも何かが足りない。
 家に戻って来て以来ずっと、私はメモリの片隅に持ち続けていた。それは、多分マスターも同じように頭の片隅にずっと思ってきていたと思う。それは、マスターは未だその疑問を口には出さずに居るからだ。だから私もマスターの口から話されるまではマスターに倣っている。私から進言する事は出過ぎた真似だと思うからだ。
 そう、今の生活にココはいない。
 元々、この家に住んでいたのはマスターと私の二人である。だから、本来の暮らしという意味では今の状態が正しいのだけれど、どうしても心の内に根付く喪失感は否めないのだ。私がココをこの家に連れてきてまだ一ヶ月ほどである。だけど、その間にココは欠かせぬ存在になっていたから、こんな喪失感を感じるのだと私は思う。つまり、私にとっての幸せの定義は、マスターだけで完成しなくなったのだ。
 現在、ココの身柄は大統領府に引き取られている。それは、ビスマルク氏がこれまでにどんな研究を行ってきたのかを明らかにするため、その証拠として連れて行かれたのだ。今頃どんな扱いを受けているのかは分からないが、あの時の大統領の言葉を文字通り受け止めるなら、少なくとも人格を無視する非人道的な待遇ではないはずである。こればかりは確認のしようが無いので、大統領の言葉を信じるしかないのだけれど。口約束だが全世界に中継された場での事だが、かと言ってもそれだけで約束を守るかどうかまでは保証の範囲外だ。普通に考えて、大統領が本気で隠そうとすれば現在のココの状況などマスコミへ漏れるはずがないのだから。
 と。
 家の外に一台の車が止まる音を私の聴覚素子が捉えた。車は機種によってエンジンの駆動音が異なるのだが、私はそこまで聞き分けられるほどの認識力は無い。けれど、少なくとも一般車とそうでないものの聞き分けはついた。今、家の前に止まったのは前者、ただの一般車ではない車だ。
 私はすぐに玄関へ向かい、来訪者を出迎える。真新しいインターホンの画面で確認するまでもなく、私はすぐにドアを開けた。
「こんばんわ、ラムダ。もう、家の中の整理はついたのかしら?」
 立っていたのは、銀色のドレスを身にまとったテレジア女史とタキシード姿のシヴァの二人。二人とも普段通りの隙の無い装いだ。
「はい、通常の生活をする分には全く支障はありません。研究室は地下にあるため、幸いにも機材は無傷で済みました。後はネットワーク系の復旧待ちです」
 私は早速二人をリビングへと案内する。廊下は壊される前と比べて広めに設計されているため、大人が二人並んで歩く事も出来る。けれどシヴァは相変わらずテレジア女史より一歩下がって歩いている。そんな姿が心なしか、やはりシヴァは私の兄弟機なんだと、妙な仲間意識を私に持たせた。
「お、来たわね。珍しく時間通りじゃん」
 マスターはソファに座ったままの姿でやってきた私達を出迎える。
「まったく、またそんな格好で」
「いいじゃん、自分ん家でどんな格好しようと」
「羞恥心の問題よ。それに、そのような粗末なものをシヴァに見せるのは教育上好ましくありませんね」
「粗末って何だ、てめー」
 そんないつも通りのやりとりをかわしつつ、私はテーブルの上へ料理とグラスを手早く並べていった。今日は夕方近くまで家の片付けを行っていたため、料理は小鉢も含めて八皿と普段よりも少ない。けれど、久しぶりに行った料理としては特にこれといった問題も無くスムーズに出来上がったと思う。私は味を感じる事は出来ないが、出来栄えが普段と遜色が無い以上はきっといつも通りの味は出せているだろう。
「さて、乾杯といたしましょうか。これはささやかなお祝いの品ですわよ」
 そう言ってテレジア女史はシヴァに手荷物を出させる。それは一本のワインボトルだった。
「うわ、ワインだ。相性最悪。牡蠣だって言ったじゃんか」
「あら、白はそうでもありませんわよ。中でもこの銘柄は牡蠣とも相性が宜しいですもの」
「さっきテレビで、株で儲けた成金が同じこと言ってたし」
 左隣に座る人間がグラスへ注ぐのがここでのルールである。今回もまたそれに則り、それぞれのグラスへワインを注いだ。私やシヴァは飲食は出来ないけれど、ポーズだけでも行うのがマスターやテレジア女史の方針である。二人とも私達ロボットを自分と同系列、つまり家族という単位で考えているからだ。
「では、そうね、何に乾杯しようか?」
「互いの息災でよろしくて? 色々ありましたけれど、結果的にはこうしてまた同じ食卓を囲む事が出来たのですから」
「じゃあそれで行こうか」
 そして、互いのグラスを鳴らす乾杯を皮切りに食事会が始まった。
 マスターだけでなく、テレジア女史が無防備な表情をするのは私の知る限りこの時だけだ。マスターとテレジア女史は元は同じ場所にいたけれど、ある時を機にそれぞれ違う道を進んだ。マスターで言う所の私、テレジア女史で言う所のシヴァである。けれどそれは決別では無い。ただ選んだ方向性が異なっているだけで、そこにある信念を双方は認め合っている。だからこうして定期的に食卓を囲み、互いの無事を確認しつつ食事を楽しむのだ。私にははっきりと理解出来る概念ではないけれど、単なる友人という関係ではなく、切磋し合う対象としているのだろう。
 マスターはお酒を飲むのが好きだけれど、テレジア女史も実は意外と飲む人である。普段から立ち居振る舞いに隙が無いからそういうイメージがあるのだろうけれど、こういった砕けた場では遠慮をしない。マスターとテレジア女史は何から何まで対照的な二人だが、案外その本質は一緒だと私は思う。少なくとも、自分の信念は決して曲げない妥協の無い所が。
「それにしても驚いたわね。最近ってさ、こんなに早く家なんて建てられるんだ?」
「建築技術の進歩もありましょうが、新しい機材の影響もあるでしょう。それにしてもあなたは、相変わらずロボット工学以外は何も知らないのですね」
「うっさい。そっちこそ、もうちょい世間の常識を勉強しろっての。あ、ワインもう終わり? ラムダ、ビール持って来て」
 私はすぐさま席を立ち、台所へと向かった。台所の冷蔵庫を開けると、ビール瓶がコンビニのようにずらりと並んでいる。酒屋に急遽注文して配達してきて貰ったものだ。他の棚を見てみると、買出しには行ったのだが夕食会に使ってしまったためほとんど食材が無い。明日もう一度スーパーへ行かなければならなさそうだ。
 マスターは基本的にノンカロリービールを飲む事が多いが、今日は普通のビールをケースで買ってある。これを全部飲めばどれだけのカロリーになるのか、と考えるのが普段だけれど、今夜は互いの無事を祝うための席なのだから特別なのだろう。でも、明日からはきっとカロリーの事に付いて神経を研ぎ澄ますようになるのかもしれない。考えてみたら少し前までは、カロリーの少ない料理を作る事の方が多かった。カツ丼やらハンバーグやら、カロリーの高いものを作るようになったのは最近になっての事である。
 ココは私の料理をいつも美味しいと言って食べてくれた。その時に感じる充実感、達成感を、もう一度味わいたいと私は思う。だが、その日は一体何時になれば来るのだろうか。私はあの時、本当に正しい選択をしたのだろうか。大統領の言葉を全て鵜呑みにし、パフォーマンスに騙され、一番やってはいけない選択をしてしまったのかもしれない。どちらにしても、今はただ待つしかない。大統領の、悔恨の言葉と私との約束を信じて。
 ふと私は、冷蔵庫の扉につけている銀行で貰った粗品のカレンダーを見た。
 そういえば、来月は連合国大統領選挙だ。



TO BE CONTINUED...