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 その高台は、地球上で一番俺に優しい場所だと思う。不快な街の喧騒から解放してくれるだけでなく、聞こえてくる音が全て控えめだからだ。
 およそ三キロメートルに渡って続く砂浜の片隅に、誰からも忘れられたようにひっそりと聳え立つこの断崖。岩肌にはびっしりと苔が生え、外観はお世辞にも綺麗とは言えない。天辺へ続くジグザグの階段も、昇りは緩やかであるが雑草が随所に飛び出している。高台の天辺にはこじんまりとした古い東屋が建てられているのだが、長年風雨に晒され続けているにも関わらず手入れをする人間がいないため、まるで廃墟のような様相になっている。ここは誰からも忘れ去られた場所なのだろう。
 俺は決まってここに来ると、東屋の中に海を向きながら腰を下ろしてタバコに火を点ける。そして、途中コンビニで買った菓子をつまんでは波の形を眺め続けた。海に対する思い入れや特別な感情がある訳ではなく、他に眺めるべきものが見つからないだけだ。それを知りながらここに通うのは、ただ時間を消費したいだけなのだろう。
 放課後という時間は、俺に孤独感を押し付けてくる。俺がこうして一人で居ることを意地悪く訊ね、遠回しにせせら笑うのだ。しかし俺は、みんなで仲良く和気藹々と、なんて教科書にありそうな価値観には真っ向から背を向ける。そんなものは人それぞれだ、と。
 少なくとも俺は、孤独を苦痛と感じてはいない。一人で居る方が気楽な人間なんてそう珍しいものではないし、そもそも孤独感という単語の持つイメージが悪い。まるで俺が社会へ背を向けて自分の世界に引きこもっているかのように思わせる。俺はそんなつもりなど毛頭ないし、ただこうしている事が好きだからそうしているだけだ。なのに周囲はそう見てくれない。俺がまるで、拗ねて世間から目を背けているのだと、誰かの勝手な憶測を頑なに信じて止まない。
 俺と世界の構図がこうなってしまった理由は、自分自身が何より知っている。全て俺に原因がある。酌量の余地がある理由だとは思うけれど、自らを弁明するのはあまりにみっともなく、またそれほどの労力を注ぎ恥を忍ぶだけの価値も無い。壊れる前の繋がりなんて、そんな程度のものだ。
 どれだけ波を数えていただろうか。
 ふと俺は空腹感を思い出し、自らに舌打ちした。来る途中にコンビニの前で何か食べるものを買って行こうか少し迷っていたからだ。それほど腹が空いている訳でもなく、食べたくも無いのに買ってしまったら始末に困る事になるので、今日はやめておいたのだが。やっぱり、こんな事になるなら買っておくべきだった。
 少し早いが、そろそろ家に帰ろうか?
 そう思い立つまで時間はかからなかった。空腹には思考を歪曲させるほど強く干渉出来る力がある。しかも、必ずと言って良いほど食べ物に関する連想へ帰結させてしまう。要は、考える事がくだらなくなるから腹を満たした方が良いという事だ。
 想像の食べ物で自分を満たそうとするほど馬鹿ではない。今、吸っている一本を吸い終わったら帰る事にしようと決め、いつもよりも強く咥えたタバコを吸い込んだ。
「ちょっと!」
 その時、いきなりぶつけられた激しい声に、俺は驚きでビクッと肩を震わせ一瞬尻を浮かせてしまった。
「あんただったのね、ここでタバコなんか吸ってたのは!」
 口に咥えたタバコを左手へ移し、声が飛んできた方向へ視線を向ける。丁度、この高台へ続く階段の最終段に声の主は立っていた。
 白を基調とした生地に青いラインの入ったジャージを着込んだ一人の女子。背にはナイロンの小さなバッグを背負い、首には水色のスポーツタオルをかけている。全体の印象から察するに、多分、俺と同じ高校生だ。この付近に高校は一つしか無いし、俺と同じ高校に通っているかもしれない。
「悪かったよ。謝るからさ、学校に言うのは勘弁してくれ」
「そうじゃなくて。ここに吸殻を捨てていくな、って言ってるの。せっかくこんな見晴らしの良い所でさ、ったく気分悪い」
「だったら今度から灰皿持って来るよ。携帯用の奴」
「その必要無し。そっちが二度と来なければいいだけの話だから」
 なんて自己中心的な人間だ。ここまで言い切れる姿にはある意味清々しさすら感じる。けれど俺は表情に困り顔をしかめた。
「二度とってさ。何? ここ、お前の土地だって?」
 東屋から身を乗り出し反論を試みる。けれどそいつは、こちらの存在を一切無視しているかのように、おもむろに体操を始めた。陣取ったのは高台の先端のもっとも見通しの良い場所。潮風を全身で感じられるそこは、体をほぐすために選んだにしては絶好のポイントかもしれないが、俺にしてみれば視界のど真ん中に入り込んだ異物にしか過ぎず、逆にこちらが無視し返すような事も出来ない。
「お前、ここを見つけたのって割と最近なんだろ? 俺はもっと前から見つけてるんだ。早い者勝ちで俺のもの」
「海の向こうの国は、早い者勝ちルールをねじ伏せて大国に成り上がったって教科書にあるけど」
「先住権上等って事ですか。凄いねえ。じゃあ、それに倣って俺もねじ伏せるのかな?」
 そう露骨なせせら笑いを背中に浴びせかけてやる。
 どうせ相手は女だし、男の俺が腕ずくの勝負になった所で負けるはずが無い。本当にやりあったら勝ち負け以前に後味は悪いだろうけど、向こうも向こうで腕力では勝てない事ぐらい分かってるだろうから、まさか本気で挑んでは来ないだろう。
 俺の目論見はそうだったのだが、しかし事態は意外な方向へ進んでしまった。
 不意に体操を止めたそいつは足元に屈み込んで拳大ほどの石を拾い上げると、こちらへ向き直り、おもむろに不恰好なフォームで振り被った。
 え。
 俺が口から息を吐くのとほぼ同時に、何の躊躇いも無く振り被った腕を振り抜く。咄嗟に俺は尻の位置をずらして亀のように首を縮めながら体を沈める。石は俺の頭のすぐ上を掠めていった。
 こいつは本気だ。
 俺は背筋をぶるっと震わせた。俺の反射神経を考慮して投げつけた訳じゃない。あの石が当たろうが当たるまいがどうでも良いと、初めから割り切ってなけりゃ出来ない行動だ。まさかその歳で、人に石をぶつけたらどうなるかなんて分からない訳でもあるまいに。
「あんたの言葉っていちいち勘に障るんだけど」
「よし、君の気持ちは良く分かった。じゃあ、共存しようじゃないか」
 この女、かなり気が強い。というよりも、少々一線踏み外して危険ですらある。
 まともに議論しても、水掛け論にすらならない。だから俺は自ら妥協案を提示した。しかし、再びそいつは足元に屈み込んだ。また石を投げつけられると、慌てて俺は身構える。
「なに構えてるの?」
「この若さで死にたくないから」
「私も同じだってば」
 そう言って呆れたような溜息をつく。よくよく屈み込んだ足元を見てみると、どうやら靴紐を結び直しているだけのようだった。俺の早とちりと言えばそうなのだが、平気で人に石を投げつけておきながらケロッとしているのも人としてどうなのだろうか。
 とにかく、これ以上居座っても刺激するだけ危険だ。また石でも投げつけられかねない。こいつにはどうも情緒不安定の気がある。蜂の巣と同じで下手に刺激しない方がいい。
「今日の所はこれで帰るとするよ」
 俺は立ち上がって東屋から出ると、軽く制服に付いた埃を叩いて払った。吸いかけのタバコを口に咥え、肩をすくめながら両手をポケットの中へ押し込む。
 ふと見たそいつの履いているスニーカーはやたら真新しかった。きっと最近買ったものだろう。陸上の長距離用のものだが、ファッションで履くにはいささか趣味が悪い。どうやらここをジョギングの拠点にでもしているのだろう。砂浜を走るのは一向に構わないが、わざわざこんな辺鄙な所を拠点にしなければならない理由なんてないはずなのに。結局はこいつの我侭なのだろうが。
「そうだ。踵、ちゃんと潰したか?」
「踵?」
「その靴だよ。そんな真新しい靴でいきなり走ったら、すぐに踵が捲れるぞ」
 そのまま背を向けて手をひらひらと振り、俺は高台からの階段を下りていった。
 潮風が顔に拭きつけ、タバコの灰が一緒に舞い上がる。咥えているタバコはもう残り短い。新しいのに火を点けようとポケットをまさぐったが、あいにくとこれが最後の一本だったようだ。