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 高台の上ではタバコに火を点けにくい。それは、砂浜とは比べ物にならないほど風に勢いがあるせいだ。だからいつも、火を点ける時は深く屈んで東屋の壁と右手の囲いを駆使する。傍から見ると滑稽な姿だろうが、ここには誰もいないから我が身など省みる必要は無い。
 東屋にどっしりと腰を落ち着け、タバコに火を点ける。そして膝の上に買ってきた紙袋を乗せて開く。今日は途中のコンビニでタイヤキを買って来ている。小倉が二つにクリームが二つ。よくクリームなんて邪道だと言う奴がいるけれど、自分の人生に拘りなんて持っていないクセに、そんな小さな事に拘ってどうするんだと、耳にするたびにいつも思う。価値観の相違、というものだが、何かにつけてこれは邪道あれは邪道と難癖をつける人間はあまり好きになれない。そういうのは拘りというのではなくて、単に感性が風化しているだけなのだ。要するに、旨ければそれが正解。
「おっ?」
 突然、俺の目の前に一つの影が飛び出してきた。けれど俺は少しも慌てず、現れたそれを出入り口のある右側へ促す。
 いきなり身を乗り出してきたそれは、時々この辺りで見かける野良犬だ。薄茶色の毛並みに目は黒と非常に典型的な雑種犬。けれど、野良のくせに毛並はそれほど汚れてはいない。
 こいつは見かけによらず非常に世渡りのうまい犬だ。動物に甘い人を見つけてはうまく入り込み、餌はおろか時には宿にまでありつく。だが、決して特定の飼主を決めないのが変わっている所だ。特技は勿論、相手に気に入られる事。それも普通の犬のようにただ媚びるだけではない。誰かしらからエサを貰う時、勝手に名前をつけられるのだが、どんな名前で呼ばれようとさも自分の名前がそれであるかのように元気の良い返事を返すのだ。つまりこいつは、一匹で幾つも名前を持っているのだ。その辺りをちゃんと自覚して使い分けているのかどうかまでは分からないが、結婚詐欺師のような犬である事は間違いない。
 野良は俺の足元まで回りこんで来ると、ぴたりと身を寄せたままお座りの姿勢を取り、こちらをじっと見上げてきた。どうやら俺が買ってきたタイヤキが気になって仕方ないらしい。
「ああ、これが欲しいのか? いや、丸ごとは駄目だ。餡もクリームも犬には良くないから。尻尾のあまり詰まってない所を……って、そういう目で見るなよ。嗅いだって駄目」
 野良とタイヤキの事でじゃれあいつつ、またじっといつもように波の様子を見つめ始めた。野良はエサをねだる時は貪欲だが、基本的にこちらへ向かって咆えたり落ち着き無く動き回ったりはしない、非常におとなしい犬だ。俺に合わせているのかは分からないが、食べ物を貰った後は傍らでおとなしく毛づくろいなどをしながら佇んでいる。そういうでしゃばらない静かな犬だからこそ、俺は一人になるためにここへ来ていても、こいつだけは決して邪険にしない。
「また来てたんだ」
 ふと、そんな朴訥としたセリフと共に現れたのは、昨日のあの女だった。今日もまた同じ上下対のジャージにスニーカーという、如何にもこれから走り込もうといったいでたちである。
「今日は灰皿持って来たぞ」
 俺はコンビニで買った携帯用の灰皿を掲げて見せる。皮肉に聞こえたのか、そいつはぷいと視線をそらし、高台の先端へ向かっていった。
「それ、あんたの犬?」
「いや。ここいらに住んでる野良だよ」
「そう。一昨日、そいつにオヤツ掠め取られててね」
「じゃあ犬違いだ。こいつは人のものを取るような真似はしない」
 高台の先端で体操を始める姿を、同じ方角に視界を陣取っていた俺は波を数える代わりにぼんやりと眺めた。真新しいジャージといいスニーカーといい、何となく趣味でジョギングでも始めた奴だろうと俺は思っていた。しかし、その準備体操は実に念入りで、どこが怪我をし易いのかをきちんと理解しているようである。もしかすると実は陸上経験者で、単にジャージやスニーカーを新調しただけなのかもしれない。
 やがて体操を一通り終えると、今度は俺達の居る東屋の方へ歩み寄ってくる。
 また文句でも言われるのだろうか。うんざりした気持ちが込み上げて来るのを押さえつつ、咥えていたタバコを灰皿で揉み消した。
「あんた、もしかして外海豊でしょ?」
 俺は思わずきょとんとした目で見返した。どうして俺の名前を知っているのだろうか、と。けれどそれは、決してそう驚く事でもないと考えた。陸上をかじった人間なら、俺の名前を知っていてもそんなに不思議ではないからである。
「さて、どうかな。俺がお前の知ってる外海ではないかもしれない」
「中学校の時、二年連続で男子千五百と三千の中学記録を塗り替えて優勝しまくった有名アスリート。でしょ?」
 やはり、そこまで知っていたか。
 思わぬ所で自分の過去を突きつけられ、ちくりと胸に痛みが走る。
「まだ知ってるよ。三年生の時も決勝まで勝ち進んだけれど、決勝戦直前に会場の裏口でタバコを吸っている所を係員に見つかって。それが原因で失格になって、決勝戦は出る事が出来なくなっちゃって」
「やめろ」
「以来、公式大会から音沙汰は無し。陸上界から追放されたとか聞いた事もあるし」
 とっくに遥か通り過ぎた過去の事だと、それも自分でもどうかしていた頃の事だから、今更突きつけられても微動だにしないと自分では思っていた。けれど、いざ突きつけられてみると面白いほど自分が動揺しているのが分かる。まだ自分の中で整理出来ていないのか、それとも過去の恥と考えているから苛立っているのか。
「お前、何のつもりだ」
 語気を荒げた俺に、僅かながら驚きを隠せない表情を浮かべた。ようやく俺との温度差にでも気づいたのだろう、得意げだった表情をばつの悪そうに変えてそっと頷いて見せる。
「ごめん、調子に乗り過ぎた。でも聞いて。別に悪気があった訳じゃないの」
 どこが悪気が無いだ。むかつくほど詳しく調べやがって。
 今更しおらしくされても腹の虫がおさまるはずも無い。確かに、俺の周りには未だに陸上の事で何かしら突付いてくる奴はいる。連中に悪意があろうと無かろうと俺にとっては不快感以外に何も感ずるものは無いし、それははっきりと明言もした事がある。普通に考えても触れるべきかどうかはばかられるはずなのに、会って間もない人間が踏み込んでくると一体どう思われるのか。俺を気遣えとは言わないが、ただ一つ思うのは、想像力を働かせろという事。そう言い聞かせてやりたくて、心底何かを掻き毟りたくなるほどイライラする。
「で、なんだよ。わざわざそんな事を調べてさ。手の込んだ嫌がらせか?」
「あんたがさ、本当にあの外海だったらって考えてたんだけど。私に教えてくんない? 速い走り方」
「はあ?」
 眉をしかめながら、苛立ちの混じった声で問い返す。しかし、俺を真っ向から見据えるその目はこれまで見てきた好奇や悪意のものとはまるで違っている。が、かと言って信用しようという気にはなれない。そんな事を急に言われて、分かりましたお引き受けしましょう、と安請け合いするほど迂闊な性格でもないのだ。
「そんな顔しないでよ。私、変なこと言ってる?」
「ここまで知っていて頼むなんてまともじゃねえよ。大体、走り方を教えて欲しけりゃ学校の陸上部にでも行けばいいだろ。顧問の先生が親切に教えてくれる」
 すると、これまで終始強気だった表情に、ふと暗い影が横切った。俺が何の気無しに放った言葉の何れかに、こいつにとって触れられたくない所を掠めるものがあったようである。
「それが出来ない……理由があるの」
「理由ねえ」
「理由が無ければ、わざわざこんな風に一式揃えないってば」
 じゃあ、その理由ってなんだよ。
 そう続けて問い返そうとしたが、俺はやはり寸出の所でその言葉を飲み込んだ。決して気にならない訳ではないのだけれど、それほど深く問い質す事に躊躇いを感じたからだ。俺自身、会って間もない人間をあれこれ詮索する趣味も無ければ、別段こいつに特別な興味をそそられる訳でもない。
「ってか、正直知るか。なんで俺がそんな面倒な事しなくちゃならないんだ」
「じゃあ学校に言いつけてやる。あの、体育担当のムサいヤツとかに」
 ひょっとして俺は脅迫されているのでは?
 そんな間抜けな事を思わず考えてしまった自分を深く呪う。考えるまでもなく、これは脅迫だ。チクられたくなきゃ言う事を聞けと、子供でも分かる形で喉元へ突きつけられているのだ。
 けれど俺が驚いたのは、そんなチープな手口を臆面も無く選択した、その必死さだ。速く走りたければ陸上部へ入れば良いものを、どうしてストリートで走る事に執着しているのだろうか?
 元より、こいつの私情なんて興味は無いし、俺が放課後に何をしていようが学校へ知られて困る訳でもない。俺にとって一番の問題は、これ以上この場所を誰かに知られ踏み込まれたくないという事だ。だから返答は悩むまでも無い。
「別に、手取り足取り教えろって言ってるんじゃないんだから。一応、私だって全くの初心者って訳でもないし。ただ走ってるフォームとか見て、アドバイスとかしてくれるだけでいいの。そんだけだからさ、ね?」
「だから、知るかってんだ。どっか行けよ、鬱陶しい」
「そういう言い方ってないじゃない! ちょっと見てくれればいいだけだってば!」
「分かったから帰れ」
「分かってないじゃない! ちっともさ!」
「分かったのはお前のバカさ加減だ。いいからどっか行ってしまえ」
 俺は露骨に背を向けると、新しいタバコを一本取り出して火を点け直した。そんな俺の態度に諦めをつけたのか居た堪れなくなったのかは分からないが、そのままこの場を立ち去っていく足音が聞こえた。
 これでようやく静かになった。
 そう俺は満足そうに深く煙を吸い込んだ。けれど、どこか胸を刺すような不快な感覚が込み上げているのを否めなかった。
 まさか俺は、罪悪感でも感じているのだろうか。
 そう最初は驚いたものの、それは決して特別な事ではないと気が付いた。誰だって人を無下に追い返せば、少なからずそういう気分になる。俺は度を過ぎて薄情でもない。道端に捨てられた犬猫を漏れなく拾ってくるような慈善家ではないというだけで。
 けれど、さっきの言い草はあまりに酷過ぎやしなかっただろうか。
 今になってそんな事をぽつりと思ってしまった自分に舌打ちし、タバコの煙を深いため息と共に吐き出した。こんな事でいちいち思い悩むなんてどうかしている。あいつは俺にとって不愉快な存在だから追い返した。たったそれだけの事じゃないか。
 すぐ横で野良がじっと俺の顔を見上げてきた。なんだよ、と小突こうとすると、それよりも早く動いた野良がぴたりと足にくっついてきた。一体何をしたいのだろうか。けれど犬の体温はそれほど不快な感覚でもなく、したいようにさせておく事にした。