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 世界が変わる、という言葉がある。
 それは往々に、これまで自分が持ち合わせていた価値観が如何にさもしいものであるかに気づいたり、未知なる価値観に大きな刺激を受けた時などに使われる表現だ。しかし俺の場合は悪い意味でのたとえが相応しいと思う。何故なら、変化の訪れた自分の生活を全面的に肯定している訳ではないからだ。
 俺の一日は放課後から始まる。一日六時限の授業を消化し初めて自由を得られるのが一般的な学生だが、俺の場合は部活動に参加していないせいか、やたらその自由という言葉にナーバスだ。放課後という時間を浸食する全ての要素に過敏になっているのだ。そんななけなしの時間を今、俺は性質の悪い悪ふざけに使っている。そう、湊の件だ。
 正直、俺は湊を本気でどうこうしようと思ってはいない。湊が本気で上達しようという気構えを持っているのは分かっているし、それを知りながらあえて関係の無い道を示してやるほど意地が悪い訳でもない。ただ、俺と湊では明らかに走りに対するスタンスが違うという事だ。タバコに関してもそうだし、練習の頻度や一回一回に求める密度も全く異なっている。いつまでも同じ事をやれるはずがないし、こんな事をしたってお互いに時間の無駄でしかないから、惰性で次のステップ次のステップと手を引いてやっているのが現状だ。
 放課後。掃除当番の無い俺は早々と教室を後にした。昇降口から校庭に出ると、グラウンドではもう幾つかの運動部が練習を始めていた。まだ梅雨前だというのに、まるで大会を目前にしているかのような気合の入れ様である。誰しも本気で優勝やら新記録やらと目標を掲げているのだろう。
 うちの学校は取り立ててスポーツの強豪という訳ではないが、陸上部だけは辛うじて県内にそれなりの名を馳せている。確か一度だけ地元のケーブルテレビが取材に来た事があった。丁度、去年の今ぐらいだっただろうか。なんでも中学の時の有名な選手がうちの学校に入ったとからしい。幸いにも悪名高い俺の事ではなかったようだが、そもそも俺は自分が走る事以外にはあまり興味を持たなかった人間だったから、一体どこの誰が入ったとかなんて初めからどうでもいいのだけれど。
 ポケットに手を突っ込んでタバコの箱を確かめる。ポケットが突っ張って目立つからソフトケースを愛用しているのだけれど、ちゃんとポケットに入っているのかいつも気になるのだ。落とすのが怖いのならカバンにでも入れておくべきなのだが、すぐに確かめられないのは逆に不安なのである。早い話、俺はそういう小心者なのだ。
 タバコは昨日の夜に買ったばかり。あれからまだ一本しか吸っていないから、手に伝わってくる感触はたっぷりと重い。今日食べるものだけ買えばいいだろう。
「おい」
 突然、俺のすぐ背後から浴びせられたその声。それは明らかに自分へ向けられていた。この広いグラウンドの端を歩く自分が勘違いするような言葉のやり取りなんてとてもありそうにない。
「ん、なんだ?」
 努めて冷静に振舞いつつ、後ろを振り返る。同時に、ポケットの中のタバコを奥へ押し込み、そのまま両手をポケットに入れて平静を装った。
「外海だな」
 振り返った先には、学校指定のジャージを着た一人の男が立っていた。背は若干俺より高く肩幅もがっしりしている。如何にも短距離走か走り幅跳びをやっていそうな筋肉質の体型だ。
「そうだが、何か用か?」
「とぼけなくていい。初対面って訳じゃないだろ?」
「そうだったか?」
 いきなり図星を指されて少し気持ちが動揺した。本当に忘れていれば良かったのだけれど、俺はこいつの顔と形に少なからず覚えがあった。
 同じ二年で名前は確か神谷、陸上部で周囲からは次期主将と囁かれている有望なスプリンター。文武両道で品行方正と教師にも信頼が厚いらしい。皮肉った言い方をすれば、俺と対照的な人間だ。
「お前、最近湊と何してんだよ」
「は? 何だよ急に」
「湊と会っているんだろ。知ってるぞ」
 だから何だよ。
 そう思う前に、神谷が俺と湊の事を知っている事に驚いた。別に隠していた訳じゃないが、逆にどうやって知ったのか、その経緯の方が気になる。
「で、だから何だよ。先生にでも言いつけるってか?」
「別に。ただ、一つだけ警告する。今後、二度と湊には近づくな」
「はあ?」
 何だこいつ。
 そう、訝しい表情を浮かべそうになるのを抑えるだけで、逆に一番抑えなければならない不満気な声を堂々とぶちまけてしまった。
 神谷が何を考えているのか、大方の予想がついてしまった。その途端に、神谷への警戒心が消えて逆に気持ちが引いていってしまった。まともに張り合おうという気持ちすら失せてしまう。
「近づくな、って言われてもな」
「別にお前が何を企んでいようが関係は無い。大人しく湊からは手を引け」
 随分な言われようだ。
 自分はあまり人に好かれるタイプではないと思っていたが、普段から交流の無い人間に、露骨に避けられるならまだしも正面切ってこんな暴言を吐かれるのはさすがに心外もいい所だ。けれど、この場は適当に流してしまうのが得策である。主観的な物言いしか出来ない人間とはあまり関わらない方がいい。それに、下手に反論するとどう逆ギレされるか分かったものじゃない。
「おい」
 すると、神谷はいきなり俺の胸倉を掴み上げてきた。背丈は神谷の方が遥かに大きく、俺は自然と爪先立ちの姿勢になってしまった。こういう事に慣れていない俺は慌ててポケットから手を出し神谷の腕を振り払おうとした。しかし、その拍子に運悪く突っ込んでいたタバコが地面に零れ落ちた。気づいた神谷の視線が落ちたタバコへ向く。それが何なのか理解した神谷はゆっくり視線を戻し、俺に対する表情を変える。明らかな、嘲笑だ。
 神谷は俺を突き飛ばすように胸倉から手を離した。そして、
「いいか、警告したからな」
 そう神谷は言い残し、踵を返してその場から立ち去って行った。
 びっくりした。正直な感想がそれだった。もしかすると、あのまま殴られてもおかしくはない勢いだった。いや、案外最初はそのつもりでいたのだが、たまたま俺がタバコを落としたのを見て、弱味を握ったとやめた可能性もある。
 どちらにせよ、今回は何とか切り抜けられたようではあるが、今後も何かと噛み付いてきそうな不穏な感じである。
 落ちたタバコを拾い上げ、ついた土を払ってポケットに突っ込む。今すぐ一服したい気分ではあったが、さすがに堂々と校内や街中で吸う度胸は無い。
 そういえば、あいつは結構しつこい走りをする奴だったな。
 思い返しながら、乱れた襟元を直した。