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 何となくいつもより腹の空いていた今日は、コンビニでおにぎりとカップラーメンを買って来た。お湯の入ったカップを持って砂浜や岩場を歩くのは少々辛いものがあったが、コンビニを出てから高台まで辿り着くのにカップラーメンが丁度出来上がるぐらいの時間だったので都合が良かった。
 東屋の中、いつもの場所に腰を落ち着けて早速カップラーメンの蓋を開けると、真っ白な湯気が俺の顔に向かって吹き上がって来た。その白靄に息を吹きかけて中を覗き込むと、一番最初に目に飛び込んだのは焼豚の代わりに浮かんでいる豚の角煮だった。けど、パッケージの写真と比べ随分と大きさが異なっている。実際の製品とは若干異なります、と小さな注意書きはあるものの、どう見てもこれは若干じゃない。誇大広告も良い所だ。
 それでも腹の空いていた俺は、時折ぶつぶつと文句を漏らしつつラーメンを食べおにぎりをほお張った。あの野良は今日は姿を見せない。いつもの事だが、インスタントにはまるで目も向けないのだ。きっと今頃は、別な誰かにうまく取り入って餌をせしめている事だろう。
 やがて麺を食べ尽くした俺は、最後に残ったスープを一気に飲み干した。インスタントのスープは体に悪いそうだが、具体的にどういう症状が出たのかなんて聞いた事もないから多分デマだろう。インスタントで体を壊した奴はどうせ普段から食生活に気を配って無かったのだろうから、インスタントが原因で体を壊したと考えるのはおかしい。それに、どうせこれは間食なのだ。腹が膨れればいい訳で、栄養どうこうは初めから考えちゃいない。
 腹が落ち着くと、食欲にばかり向いていた思考が先程の校庭での出来事に向けられた。
 まさか神谷と顔を合わせる事になるなんて。
 特別な感慨に耽るほど懐かしい顔という訳でもなかったが、どこか溜息を否めない奇妙な気分だった。多分、俺にとって神谷の存在が、中学時代のエピソードの一つという意味合いだからだと思う。当時を連想させる全ての要素が憂鬱なのだ。
 俺はタバコに火を点け、それでも普段はあまり考えないようにしている中学時代を思い返してみた。
 俺は中学の時に一度だけ公式戦で神谷と走った事がある。当時、神谷はまだ俺と同じ長距離走の選手だった。しかし、今でこそ俺よりも一回り以上大きな体格をしていたが、あの頃の神谷は逆に一回りは小柄で貧弱そのものだった。それは単純に成長期の訪れる時期の問題なのだが、一定の速さを維持出来る筋力があるかどうかは中学レベルの勝負においては非常に大きな問題だ。
 神谷は中学時代に出た公式戦はこの時が最初で最後だったそうだ。俺にとっては単なる予選でしかなかったが、神谷にとってはようやく掴んだチャンスだったのだろう。
 その日の神谷の走り方は、前半から予選とは思えないペースで飛ばすような激しいものだった。しかし、誰の目からもそれは明らかなオーバーワークである。やがてスタミナの尽きた神谷は目に見えて失速して行き、一人、また一人と追い抜かれ、そして最後に俺が抜いた。
 俺は初めから予選をギリギリで通過するつもりで最後尾を走っていたから、そろそろ前に出ておこうぐらいにしか考えていなかった。けれど、神谷はビリに甘んじたく無かったのだろう、すぐさま俺の背中をしきりに追って来た。もっとも、その背中はあっという間に見えなくなっただろうけれど。
 その後も神谷は、誰かに抜かれそうになるたびに簡単には抜かせまいと速度を上げるのだが、フォームを大きく崩している神谷とは、誰もが接触せぬよう外側から大回りに、いとも簡単に抜き去っていた。自分がこれほど簡単に抜かれる事が信じられなかったのか、自分だけが抜きん出て遅い現実が受け入れ難かったのか。抜かれるたびに顔を上げる神谷は唇を強く噛んでいた。
 そして神谷は二周の周回遅れになっても決してリタイアはせず、何とか完走を成し遂げた。新たに引き直されたテープを胸で切った瞬間、観客から敢闘を讃える拍手が送られはしたものの、神谷はそのまま脇目も振らず足早に会場を後にした。多分、居たたまれなかったのだと思う。あれだけ多くの人間に同情されるなんて、人生でもそうそうある体験ではないのだから。
 それだけの目に遭って、よく神谷は陸上を続けられたと思う。陸上へ強烈な愛着でもなければ、自分が得意だったはずの長距離から短距離へ転向してまで続けようなんて普通は思わない。神谷が陸上に執着出来るのは、俺とは違う方向を見ているからだと思う。一度のきっかけで、俺はあっさりとこれまでの記録を捨て去ったが、逆に神谷はプライドをかなぐり捨ててしがみ付いた。現状も踏まえて、結果的にどちらの選択が正しいかは論ずるのも無意味だけど、世間は神谷のがむしゃらな姿勢の方に理解を示す。大衆の美意識なんてそんなものだ。
「センセ、今日はそんなの食べてるの?」
 不意に現れた湊の姿。今日はこれから走るようで、いつもの汗ばんだ様子ではない。
「ああ、ちょっと腹が空いてさ」
「よくまあ太らないね。もしかして、まだ走ってたりする?」
「まだ、って何だよ。俺は別に全部辞めたつもりはないさ。ただ、陸上には戻らないだけだ」
「ふうん。でも、それじゃあ一体何のために走ってるの? 意味無くない?」
「大した事じゃないさ。言うほどでもない。それに、メダル貰うだけが走る意味じゃないだろ?」
「もしかして健康のためとか? 意外とオッサン臭いなあ」
 そう湊は冗談っぽく笑い、背負っていたリュックを東屋の中へ下ろした。そんな湊に俺は苦笑しながら黙れと反論するが、湊の言葉を否定したりはしない。とりあえず今はそうとでも思っていて欲しかった。
 俺が何のために走り続けるのか。その具体的な目的を聞いても、湊は笑って馬鹿にしたりはしないだろう。でも、まだ何となく話したくはなかった。自分でもそれが本気なのかどうか、よく分からなくて未だに決心をつけていないからだと思う。
 自分はもっと決断力がある人間と思っていた。あの時、疑問を持ち始めていた陸上にあっさりと見切りをつけたように。でも本当は見限った訳じゃなくて、居辛くなったから適当な理由をつけて逃げてきたのかもしれない。本当の俺は何か理由がなければ一つとして決断出来ないのだろう。責任の所在を自分に置きたくないのだ。
「で、少しは速くなったか? お前、ちょっと足が遅過ぎるぞ。百メートル走るのに、どうして二十秒も切れないんだ」
「うるさい。だから練習してるんでしょ」
 湊の鈍足の原因は、多分筋力の不足だろう。膝の筋力が出来ていないから体を蹴りだす力が弱いのだ。その割に、長い間走り続けるだけのスタミナがあるのが不思議だ。天然の体力なのだろうか。
「あっ、つつつ……」
 その時、湊は奇妙な声を上げて一度体を震わせると、急にその場へ屈み込んだ。
「どうした?」
 見ると、湊は右膝を押さえていた。それもただ押さえているのではなく、手の甲が白くなるほどぎゅっと強く握り締めている。
「おい、膝やったな。ちょっと見せてみろ」
 慌てて立ち上がる俺。すると、
「いや、いいから!」
 湊は膝を押さえながらそう答えた。目には薄っすら涙が浮かんでいる。やはり相当な痛みのようだ。
「いい訳ないだろ。膝は一度怪我すると治すのが難しいんだぞ。いいから見せろってば」
「見て何する気よ、馬鹿」
「恥ずかしがってる場合か、足ぐらいで」
「だから、いいってば。私、今日は走るのやめてもう帰るから」
 そして湊はふらつきながらもどうにか立ち上がった。しかしその姿勢は、左肩が大きく下がったほとんど左足で立っているだけのような危なっかしい姿勢だ。
「じゃあ肩貸すよ」
「いい。一人で帰れる」
 湊はリュックを背負い直すと、足を引き摺るように帰っていった。ふらふらと不安定に体が揺れ、何とも頼りない仕草である。
 意地なんか張ったってしょうがないだろ。素足ぐらいでさ。
 大きくついた溜息が重かった。きっと、どこかで湊には親しみがあったからだろう。だから、拒絶された事がショックだったのだ。
 柄にも無い、とは思うけれど、この気持ちだけは事実なのだから、致し方が無い。