戻る

 日中の空気がじんわりと染み入るような熱を帯び始めた。
 そろそろ春も終わり梅雨の季節に入る。月のほとんどが雨で占められる憂鬱な日々だ。
 俺は梅雨が嫌いだった。理由はありがちなもので、じめじめとした空気や蒸し暑くシャツが肌に張り付く感覚が不快だからだ。それにもう一つ。俺が時間を潰す高台の階段は綺麗に舗装されている訳ではないので、上まで登ろうとするとどうしても泥濘みへ足を突っ込んでしまう。靴が汚れるのはあまり気持ちの良いものではない。だから普段の走るコースもアスファルトばかりを選び、結果的に同じ道ばかり走るようになってしまう。
「今日も雨、か……」
 東屋の中で俺はボーッと雨の海を眺めていた。海は深い青緑に染まり、白く泡立った小さな波を何度も浜辺へ打ち上げている。視線を地面へ落とすと、黄緑を濃くしたような薄気味の悪い水溜がそこかしこに点々としていた。梅雨が進むに連れ、水溜りもどんどん広がって足の踏み場も小さくなってしまう。そうなるとここへ辿り着くのにも一苦労だ。走るのは得意でも、ぴょんぴょん飛び跳ねるのはあまり得意ではない。
 丁度、一本目のタバコを吸い終える頃、ばちゃばちゃと水溜りや泥を踏みしめる音が登ってくるのが聞こえてきた。
 程無くして現れた湊は、いつものジャージではなく薄青のウィンドブレーカーを着ていた。しかし泥道を駆け上ってきたせいか、スニーカーは茶色に汚れ、泥の斑点は膝近くまで跳ね上がっている。ウィンドブレーカーは洗えばすぐに落ちるだろうけど、スニーカーは色が白なだけに、もう元の色には戻りそうにない。
「なんだ、今日も走ってるのか? 雨は体に良くないぞ」
「そっちこそ。こんな日に何しに来たの? 雨宿りには見えないけど」
「実は俺、嫌われ者なんだ。だから他に行く所が無い」
「知ってるよ、そんなの」
 少しはツッコめよ、と湊の素っ気無い返事に眉をひそめるものの、湊はさして気にも留めていない様子でさっさと東屋の中へ入ってきた。そしてウィンドブレーカーをたくし上げると、現れたヒップバッグからタオルを取り出し顔をごしごしと拭き始めた。フードは被っているものの、走ると雨が横殴りに顔へ向かって来るので汗よりも濡れるからだ。
「膝はもういいのか?」
「大丈夫。ちょっと疲れが溜まってただけだから。少し腫れたけど、氷で冷やしたらすぐ引いた」
 そう湊は小さく何度か跳びはねて見せる。軽快なその仕草に痛みのある様子は見られないが、膝は痛みが無くとも忘れた頃に突然ぶり返すものだ。そういう意味では手放しで安心出来る訳でも無い。
「なあ。練習熱心なのは結構だが、なんでそんなに力入れちゃってんの? なんていうかさ、変わってるぜ。その必死さは。雨が降ったらお休みにするもんだ」
「早く上達したいからに決まってるじゃん。継続は力なりって習わなかった?」
「風邪引くよりもマシだと思うんだけどな」
 価値観の相違だな、と俺は肩をすくめて新しいタバコに火を点ける。そんな俺を湊は露骨に顔をしかめて見せるのだけれど、俺はさして気には留めなかった。湊はある程度俺の習慣を容認しているからだ。そもそも、こんな事でいちいちケチをつけられていたら、いつまで経っても走りを教えるなんて出来ない。
「ほら、飲めよ。俺の奢り」
 俺はコンビニの袋からペットボトルのスポーツ飲料を取り出し、湊に差し出した。湊は少し驚いた表情を浮かべて受け取ると、口を開けて一気に半分ほど飲み干した。随分な行儀だがこれも湊の流儀だ。つまり行儀がなってない。
「ところで。ちょっと訊きたいんだけどさ、豊って私のこと知らない?」
「は?」
「だから、本当に初対面かって訊いてるの。名前も聞き覚えない?」
「意味深な発言だな、それ。テレビに脳をやられたか」
 突然投げかけられた湊の意外な質問に、溜息と同時に煙を吐き出した。
 昔、どこかで似たようなネタのホラー映画があったような気がする。こういうジョークが最近の流行なのかは分からないが、あまり面白いとは思えない。と言うよりも、あまりの脈絡の無さにむしろ戸惑いすら覚える。
「じゃあ逆に、どうしてそう思うんだ? 俺がお前を知ってるかも知れないってさ」
「私ね、実は中学まで陸上やってたんだよ」
「それは初耳だな。その鈍足でか?」
「だって、やってた競技は走るやつじゃないもん」
「それが駄目だったから転向した訳?」
「駄目じゃありません。これでも、県内記録保持者なんです」
「へえ。何やってたんだ?」
「幅跳びと高跳び。私の記録ってまだ破られてないんだよ。だからさ、私の名前知らないって訊いたの。名前ぐらい、絶対どっかで聞いてるはずなんだけどな」
「俺は自分以外の事にはあんまり興味無くてね。ましてや別の畑なんか眼中にない」
「ま、どうせそんなとこでしょう」
 そう言って湊は再びペットボトルを傾けると、今度は中身を一気に飲み干してしまった。俺が期待通りの返事をしてくれなかったのが気に入らないといった様子だが、言いがかりもいい所である。湊は少々自意識過剰だ。確かに県の記録を持っていれば地方レベルで名は通るかも知れないが、かと言って誰彼にも通じるという訳ではないのだから。
「それで、なんで続けなかったんだ?」
「別に辞めてないよ。まだ部に籍は置いてるもん」
「そうじゃなくて、その幅跳びと高跳びの事。この時期からランナーに転向するなんて聞いた事もないぞ。野球じゃあるまいし」
「いいじゃん別に。再スタートみたいなものだよ」
 再スタート、ね。
 最近、リストラなんて言葉がよく聞かれるようになったけど、まるで人生をやり直そうとしているかのような人間のセリフだ。若い内は何度でもやり直しが利くとか言うが、よほどの事でも無い限りわざわざリセットする必要はないと思う。なら、湊にはそれほどの事があったのか考えたのだが、さしてそれ以上の興味は湧かなかった。ここで興味を抱くような人間なら、初めから湊が陸上選手だった事も知っていただろう。
「一つ答えておきますと、豊みたいな人種には理解し難い発想です」
「人をへたれたみたいに言うな」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ、どうしてまだ走ってるの?」
「お前みたいな人種には理解し難い理由があるのさ」
 屁理屈を、と湊が空になったペットボトルを投げつけてきた。咄嗟に受け止める俺だが、俺にぶつけようとしたのではなく、単純にゴミを片付けさせようという魂胆のようである。折角奢ってやったのにその態度は無いだろ、とは思いつつ、そんな事でいちいち腹を立てるのも馬鹿らしいと思い、黙って空のペットボトルをビニール袋の中へ入れた。