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 翌日も朝から雨が降っていた。
 昇降口から教室のある廊下まで階段であがるのだが、まるでバケツでも引っ繰り返したかのようにそこかしこが濡れている。梅雨時の学校はいつもこんな有様だ。なまじコンクリートなんかで出来ているせいで湿気が篭もる上、外から濡れた制服やカバンで生徒が入って来るせいだ。濡れた床に文句をこぼしはするが、率先して掃除を行おうとする人間も俺を含めて誰一人としていない。濡れた床に文句をこぼすのが普通の生徒なのだからだ。
 教室のある二階に上がると、廊下は思ったよりも濡れていなかった。しかし、窓ガラスはじっとりと水滴が浮かび外の景色が見えないほど潤んでいる。こういう時に限って窓枠の黒ずみがカビに見えてきて気分を害する。ただの埃の塊だと思うのだけれど、こういうさりげない不潔さが学校の嫌な所でもある。
 朝の騒がしい教室へ出来るだけ音を立てずに入り、静かに息を潜め席に着く。下手に音を立てて気づかれるのが嫌だからだ。さすがにそこまで露骨に避けられている訳でもないとは思うが、とにかく人の目に付くのが俺は嫌だったのだ。
 カバンの中身を机の中に移しながら黒板の上に張ってある時間割をチェックする。今日は一時間目から体育がある。外は雨だから体育館を使う事になるんだろうけど、多分またバスケを何ゲームかやって終わりだろう。とりあえず適当に流すとしようか。
 春先に行っていたスポーツテストは割と好きだったのだけれど。さすがにテストと銘打っているだけあって、基本的には一回勝負だ。また来年まで待つにしてもまだまだ長い。基本的に球技を初めとする団体競技が苦手な俺にとって、娯楽要素の強い授業は苦手だ。個人技で記録を争うのも好きではないけれど、まだその方が気持ちは楽である。
 今年のスポーツテストの結果は割と満足のいく内容だった。特に千五百メートル走にいたっては陸上部の奴すら追い抜く記録を出した。普段からキロメートル単位で街のあちこちを走り込んでいるのだ、整備されたトラックをぐるぐる回るなんて長距離の内に入らない。ただ、幅跳びは少々お粗末な記録だった。やはり瞬発力は人並みよりも少しある程度らしい。
 これだけの結果を出せばどこかの部活から誘いが来るだろうか。そんな事を考えていた俺は断りのセリフも用意していたのだけれど、全く声がかからない所を見るとどうやらとんだ自意識過剰だったようだ。考えている以上に俺は目立たない存在か、もしくは声をかけ難い存在らしい。もしくは、それ以前に誰とも馴れ合わないのが鼻につくだけなのかも知れないが。
 そういえば。
 どうして湊は幅跳びと高跳びを辞めたのだろうか。普通に部活に行っていれば、俺みたいにクラスで変に浮く事も無いだろうし、放課後をただ一人黙々と走り込むような状況にだってならない。スポーツが出来ればそれだけでヒーロー扱いだ。
 昨日はさほど興味は湧かなかったものの、よくよく考えてみれば非常に不自然で謎深い事だ。走る事を辞めた自分の姿が想像出来ないように、湊にもそれなりの理由があって跳ぶ事を辞めたんだろうが、並大抵の理由ではないはずだ。俺ならそう簡単に走る事は辞めたりはしないから。
 うちのクラスにも陸上部の奴がいる事だし、ちょっと湊について訊いてみよう。
 思い立った俺は教室内をぐるりと見渡した。未だにクラスメートの名前と顔は全て一致はしていないが、たまたま耳に入ってきた日常の会話で陸上部の人間は一人だけ知っている。それに、例のスポーツテストで一緒に走っているから記憶はまだ新しいのだ。
 そいつは丁度同じぐらいに教室へ入ってきたようで、カバンの中身を机の中へ移している所だった。早速俺はそいつの席へと向かった。
「なあ、相田湊って知ってるか? 陸上部に居ると思うんだけど」
 特別親交のある人間ではないため、出来る限り何気ない素振りで俺は訊ねた。こんな事で後々騒がれたくは無いからである。
「……え?」
 すると、そいつはあからさまに表情を変えて見せた。空気を読む事に特別長けている訳ではないけれど、そんな俺でもはっきり分かるほど動揺しているのが見て取れたのである。
「誰だよ、それ。そんなの知らないよ」
「おい、ちょっと待てよ」
 俺の制止も聞かず、整理の途中だった教科書類を机に放ったままそそくさと教室から出て行った。もうホームルームは始まる時間だって言うのにトイレもないだろう。
 妙な反応である。湊が陸上部に所属している事は本人に聞いたのだが、県の記録も持っているのだから所属していても不思議は無い。全てが俺に走りを教えさせる嘘だったという事も考えられなくも無いが、幾らなんでも県記録なんて大胆な嘘はつかないだろう。
 一応、今の反応からして湊が陸上部に籍を置いているのは本当のようではある。でも、どうして知らないと答えるのだろうか。動揺した末の咄嗟の答えだろうが、何故湊の事を訊かれただけで動揺するのだろうか。
 まあ、考えたってしょうがないか。
 案外、また神谷の奴が一枚噛んでいるのかも知れない。下手を打つと後でどやされるから、あまり関わり合いたくないのだろう。
 湊の件は諦め、俺は自分の席へ戻る事にした。あまりしつこく食い下がっても、要らぬ注目を集めるだけだからである。
「ん?」
 ふとその時、俺の視点が正門の入り口で止まった。
 それはビニールの透明傘を差した湊だったが、何故か登校だというのに学校指定のジャージを着ていた。
 どうしてだろう。
 そうこうしている内に、湊の姿は建物の影に隠れて見えなくなってしまった。
 まさか、学校に来る前にも走り込んでいたのだろうか?
 もしそうだとすると、練習への熱心さは相当なものだ。そこまで一生懸命やってあの鈍足ではあまりに報われないものである。県記録を持っている以上、運動神経が悪いという事はないはず。わざとやっているのかと思えてさえ来る鈍足だ。
 やはり湊の行動には釈然としない所がある。
 どうしてそこまでの熱意を持ちながら、陸上部には籍を置くだけの幽霊部員で、放課後に一人黙々と走り込んでいるのだろう。挙句、俺のようなはみ出し者に教えを請うてまで。
 足が遅い事を気に病むような性格でもないはずだ。それにうちの陸上部は、速い人間しか認めないような厳しい方針を掲げている訳でもない。第一、今から長距離へ転向するなんて顧問も絶対に許さないはずだ。
 昨日は気にしないつもりにしたはずの湊への疑問は、より大きく膨らんでしまった。
 果たして湊は何を考えているのだろうか。
 これはやはり神谷に訊かなければならないのかも知れない。あまり気乗りはしないが。