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「外海君、ちょっと」
 その日、珍しく傘の要らない登校で湿っぽさの無い制服に気を良くしていたホームルーム。自分の席でカバンの中身を移し替えていると、珍しく俺はクラスの奴に呼ばれた。
 ふと顔を上げると、それはこの間に俺が湊の事を訊ねた陸上部の奴だった。周囲の目でも気にしているのか、やけにそわそわして落ち着きが無い。
「なんだ?」
「ちょっと呼んで来いって言われて。教室の外」
 俺を呼んでるだ?
 こいつは陸上部の人間である。それを考えると呼んでいるのは誰なのか容易に想像は付いた。
「分かった」
 朝から何の用だよ。
 せっかくの良い気分を台無しにされ、大きなため息をつきながら教室を出た。
「付いて来い」
 案の定、そこにいたのは神谷だった。
 神谷は普段にも増して凄みを利かせた視線をぶつけて来ると、有無を言わさぬ迫力でくるりと踵を返し歩き始めた。
 はいはい、付いて行きますよ。
 湊が説得もせずに余計な事を言ったのだろう。コンソメ云々もそうだが、今後はただ黙ってもらっていた方が良さそうだ。
 神谷が向かった先は、廊下の一番奥にある、階段の踊り場の下のデッドスペースだった。普段からこの階段はあまり使われる事が無いのだが、そのデッドスペースとなれば完全に周囲の目には付かない空間だ。わざわざこんな所へ連れて来る辺り、少々穏やかな感じではない。
 神谷はスペースの奥へ俺を促す。自分が入り口の近くに立つ事で俺を逃げられないようにするためだろう。
「湊に近づくなって言ったよな」
 迫り来る神谷の威圧にも随分と慣れたものだ。最初はおどおどしてしまったが、今はもう平然と構えていられる余裕がある。
 どうせこいつは俺を脅すぐらいしか出来ない。そんな安心感が隙を生んだのだろう。
「あのな、何度言わせれば―――っ!?」
 その次の瞬間、いきなり俺を襲った衝撃に訳も分からず思考があちこちへと飛び跳ねた。
 いきなり殴られた。それも真正面から。
 人から殴られるのは生まれて初めてで、痛いと思うよりも驚きで頭が真っ白になる方が先だった。そして、すぐに後を追って込み上げて来る大きな恐怖感。俺はすぐにでもこの場から逃げ出したかった。しかし、前方を神谷に押さえられている以上は逃げようにも逃げる事は出来ない。
 荒い息遣いが二つ、耳鳴りのように頭の奥で響く。一つは驚きと恐怖の自分、そしてもう一つは目の前で顔を真っ赤にしている神谷だ。
 神谷は明らかにこれまでと様子が違う。単なる俺への苛立ちではなく、心の底から本気で怒り狂っている。何が神谷をここまで駆り立てるのか。ほんの僅かな心のゆとりがその疑問符を浮かべた。
「湊から聞いた。今度の町内マラソン大会に出るそうだ。お前に走り方は教えてもらったから心配ないと、自信たっぷりにな」
「フォームを見ただけだ。大した事はしてない。出るのはあいつの勝手だ」
 口の中が切れているせいで喋るたびに口の中が痛んだ。逃げるに逃げられない以上はオタオタするよりも肝を据えてどっしりと構えるしかない。殴られて動揺している事を知られぬよう強く自分を保とうと力む。
「そういう問題じゃない。俺は多かれ少なかれ、湊に関わるなと言ってるんだ」
「だから、お前が想像してるようなもんじゃないって。俺と湊には何も無い」
 本当に何も無かろうと、わざわざ声を大にして主張すれば逆に疑わしく思われるというのに。
 自分では平静を装っても言動には動揺が見え隠れしている。だが、そんな俺に気付かない神谷も大分頭に血が昇っているようだ。
「散々人が警告して、よくも無視したな。なんで湊を放っておかないんだ!」
「うるせえ! お前に命令される筋合いは無い!」
 神谷が強引に胸倉を掴んで来た。咄嗟に俺も組み合うような形で神谷の胸倉を掴み返す。
 妙な感覚だった。互いが過剰に興奮している事を頭の隅で理解している。退こうと思えば退けるのに、退けぬに退けない状況であるとも分かっていた。だからお互いが相手に噛み付くしかなかった。ただがむしゃらに。
「どうして俺が近づくなって言うのか教えてやる。これで、今後は湊には絶対に近づくなよ」
「ああ聞かせて貰おうじゃないか。これまで散々好き勝手やっておいて、一体何だってんだよ」
 神谷が俺の胸倉を掴んでいる手を震わせている事に気が付いた。それが神谷の動揺なのだと、神谷がぎゅっと奥歯を噛み締めている事に気が付くまで分からなかった。
「湊はな、高校へ入ってすぐに事故で右足を無くしたんだ」
 え……?
 その言葉は殴られるよりも衝撃的だった。
 湊は鈍足だったが、あんなに元気に走っていたじゃないか。そのどこが片足だって言うんだよ。
 自分でも一層動揺しまともな事が考えられなくなっているのが分かった。冷静になればなるほど頷けるエピソードが思い出されるのだ。足が遅い事はともかく、膝を押さえて屈み込んだ時なんてまさしくこの事を裏付けている。
「事故以来、湊は陸上部には来なくなった。二度と跳べなくなった事で自分の居場所を見失ってしまっただけでなく、俺が自分の記録を少しでも伸ばす事しか考えて無くて、悩んでいる湊には目もくれなかったから。だからこれ以上湊を傷つけたくないんだ」
「そんなの、お前の思い込みだろ。あいつはそう簡単に落ち込んで悩むような人間じゃない。今だってああやってなんかバカみたいに走り込んでるだろ。全然平気さ」
「お前に何が分かる。片足になったら陸上も続けられないんだぞ。湊にとって何よりの生甲斐だったものが突然取り上げられて、一体どんな気持ちなのか分かるのか。だから下手に未練を残して引きずるよりも、すっぱりと陸上を辞めるべきなんだ。湊は必ず自分でその答えに自分で行き着く。なのにお前が横からしゃしゃり出て、全てぶち壊した」
「だからなんだよ。足が無くたって、やる気さえあれば陸上は続けられる。お前の方こそ人の生甲斐を取り上げようとするな」
「お前はパラリンピックとかそんな安易な視点で言ってるんだろ。あれはな、目的を持って練習しているからあそこまで上達出来たんだ。湊は現実から逃げてるだけだ。湊にとって走る事は、自分に現実を直視させないための手段にしか過ぎない。まだ自分に起こった事実を受け入れきれてないんだ。逃げで走ってどうにかなるかどうかぐらい、お前の方が分かるんじゃないのか」
「だから何だよ! 走りたい人間に走らせて何が悪い! 勝手に人の生き方を逃げだとか決めつけるな!」
「場合によりけりだ!」
 そして、神谷は再び俺を殴った。今度は一発では済まなかった。顔だけでなくあちこちを力任せに次から次へと殴りつけてくる。情け容赦の無い、本気で俺に対する怒りが込められていた。だが俺は殴り返さなかった。どこか他人事のようにその事実を受け止め、思考は酷く冷めて停滞していた。心なしか、神谷は泣いているように思えてならなかった。神谷の自分がどうしようもなかったという気持ちがどこかで共感出来たのだと思う。だから、俺はその気持ちを受け止めるしか無いと思ったのだ。
 気絶にも似た放心が体を支配する。神谷の言葉に驚いたのか、それとも湊の事で動揺する自分に驚いたのか。まるで訳が分からなかった。心と体が切り離され、指一本動かすにも頭が働かない。ただ、必死でこれまでの事を思い出そうとしていた。自分は何か致命的な言葉を放ってはいないか。弁解する余地を探す事だけに奔走する。そして、そんな俺の反応そのものが自分が動揺する答えであると、頭の隅で実感した。
「おい、そこで何をしている!」
 と、その時。足元から聞こえてくるその声、それは体育担当のあの教師の声だ。
 そうだ、この下は職員室だ。普通に教室へ向かうなら、この階段から昇った方が近い。
 突然神谷の動きがぴたりと止まった。考えてみれば、あの体育教師は陸上部の顧問だ。神谷にとってこの現場を最も見られたくない教師であるはず。
 自分でもよくそんな勇気があったと思う。
 咄嗟に俺は止まった神谷の手を振り払うと、すかさず神谷の顔面に目がけて右の拳を叩きつけた。その一発で留まらず、俺は何度も何度も神谷を殴った。襟元をつかみ上げ引きずり回し、更には校舎の壁へ叩きつける。どうしてそんな事をしたのか良く分からなかった。ただそうするべきだと今は思った。
「何をやってる貴様!」
 このデッドスペースに気付いた教師はいきなり俺を突き飛ばした。
 教師は床からタバコの箱を拾い上げる。俺のタバコだ。どうやら今の騒ぎでうっかり落としてしまったらしい。
「大丈夫か、神谷。すぐに保健室へ行くんだ。もう先生は来ているはずだ」
「いえ、自分は」
 神谷が状況を説明しようとする。すかさず俺は前に踏み出て、わざとらしく肩をぶつけながらその横を通り過ぎようとした。そんな俺を教師がすぐさま腕を伸ばして止める。その行動に俺は心の中で安堵の溜息をつきそうになった。
「後で生徒指導室へ来い。親にも連絡するからな、覚悟しておけよ」
 まるで汚物を見るかのような視線。
 そういえば、こういう露骨な視線は中学以来だ。あの時のフレーズは確か、みんなの期待を裏切って、だったと思う。
「るせーよ」
 さも憎らしげに吐き捨て、教師の手を跳ね除けて俺はその場を後にした。既に手がぶるぶると震え始めている。これ以上の猿芝居は続けられそうに無い。しかし、
「待て!」
 そう声を荒げて俺の後を追って来たのは、意外にも教師ではなく神谷だった。
 神谷は俺を無理やり振り向かせると胸倉を掴み上げ、興奮で息を切らせながら俺を睨み付けてきた。血走った目が俺を射抜く。対する俺は震えそうな奥歯をしっかり噛み締め、唇をきつく結んだ今にも泣き出しそうな表情。あまり長くは見せたくない、特に神谷には死んでも見せたくない顔だ。
「やめろ神谷! お前は問題を起こすな!」
 すぐさま後ろから教師が制止の声と共に追いかけてくる。それに諦めたのか神谷はすぐに手を離した。そして、
「礼は言わんからな」
 離れ際、神谷が小さな声で吐き捨てるようにつぶやいた。
 そう思うなら自重しろよ。馬鹿みたいに熱くなって。
 軽口の一つも叩いてやりたかったが、神谷に殴られたのがよほど効いたのだろう、そんな元気も湧かなかった。
 そして俺は、最後の気力を振り絞り、足早にその場を後にした。これからどこに向かおうとか、頭の中には全く浮かんで来なかった。教室に行くにしろ裏庭に行くにしろ、この場には一時も長く留まりたくはなかった。ただ、それだけだった。