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 東屋の中で足を伸ばしながらコーヒーを一口だけ含む。
 雨は降っていないものの、相変わらず道路はぬかるんでいて歩くのが難しい。靴も大分泥で汚れている。
 頭の中が空っぽになったかのように何も考える事が出来なかった。ただ、ボーっとしながら頭の中をどこかへ放り投げている事で気分が楽になるのだ。
「やっ。今日は態度悪いね、センセ」
 ふと現れた湊に俺は一度視線を向け、けれどまた中空へ戻した。そんな俺の素っ気無い態度が気に入らなかったのか、湊は東屋の中に飛び込んで俺の真向かいに座ると、両膝に肘を置いて頬杖を付き、いかにも演技がかった溜息をついて見せた。
「聞いたよ。停学一週間だって?」
 俺はコーヒーの缶をベンチへ置くと、タバコの箱を求めてポケットをまさぐった。しかしそれは教師に取り上げられた事を思い出し、タバコは諦めてもう一度コーヒーに手をつける。
「何でまた、シゲちゃんとケンカなんかしたの?」
 別に。
 そう一言で拒絶してやりたい気分だったが、脳裏に浮かんだ神谷の言葉がそれを許さなかった。ここでとぼけるのは、目を背ける事だからと思ったのだ。
「俺も聞いた」
「何を?」
「お前の足の事」
 湊は驚いたのだろうか、小さく息を飲み、沈黙した。
 一体どんな顔をしているのだろうか。知りたいと思うけれど、視線を向ける事は出来なかった。
「ごめん」
 やはり黙っていた方が良かったのだろうか。
 そんな後悔の交じった疑問が俺に形ばかりの謝罪を強いる。
「何よ、今更。謝んないでよ」
「でも、ごめん」
 思い出せば、知らなかったとは言え随分と酷い事を湊へ言い続けて来た。いや、知らなかったで済まされるものではない。たとえ湊がそれを良しとしてもだ。自分の無慮さに対する罪悪感は許してくれない。
「もしかしてシゲちゃんとケンカしたのって、私に走り方なんか教えてたから?」
「そんな所だよ。神谷は心配していた。まだ走れる体じゃないのに、あんな無理して走るからって」
「無理なんかしてないってば」
 と、湊はいきなり手を伸ばすと、俺の脇からコンビニの袋を掠め取った。
「あー、全然良さそうなの買って無い」
「すまん」
「もう、なにそれ。調子狂うじゃない」
 湊は袋の中から清涼菓子のケースを取り出すと、それを手のひらへ遠慮なく注いだ。一度に何十粒も食べるようなものではないのだけれど、湊は平然とした様子で一気に口の中へ流し込んだ。
「お前さ、どうしてそこまでして走りたいんだ? 陸上が好きで辞められないからか?」
「そういうのもあるんだけど、ちょっと違うかな」
「違う?」
「私が一番好きなのは、決勝戦みたいな大舞台で歓声を浴びてる瞬間なの。ずっとそれまでの試合って地味で盛り上がりにも欠けて面白くも無いんだけど、大一番だけはみんなが見てくれるし、だから私もみっともない競技は出来ないからプレッシャーがかかって。それがすごく好きなんだ」
 なんとなく、そういう感覚は理解出来た。予選と決勝とではまるで空気の質が違う。それに俺自身もその空気を感じられるから、明らかにテンションも違うし血の巡りだって大舞台の方が盛んだ。湊はあの張り詰めた空気にこそ生甲斐を感じる、根っからのアスリート。だからだろう、空気とかそんな感覚的なものでさえ俺は理解出来る気がする。
「分かって貰えるか分からないけど、私、右足が無くなってもまだ体は覚えてるんだ。蹴り出す靴の裏の感触や緊張した時の震えまで時々思い出すの。まだここにあるんじゃないかって思えるくらい、本当にリアルで。でも、そういう気分に浸る時って決まってすぐ痛みだすんだけどね。ただでさえ病み上がりで体が衰えてるのに、無茶苦茶して走ってるからしょうがないか」
 ある日突然、跳べなくなった現実に湊は何を思ったのだろう。
 もし俺が走る事を取り上げられてしまったら、とても正気でいられる自信が無い。だから思うのが、湊は俺よりもずっと前向きで意思が強いという事だ。神谷の言う現実逃避なんて絶対に嘘だ。湊は自分が足を無くし二度と跳べなくなった現実をしっかりと受け止めている。その上で、再びあの緊張感を得るために湊は走る事を選択したのだ。そう、神谷の言っている事は全部が想像ででたらめだ。単なる過保護か思い込みである。
「豊はどうして走ってるの? 人にこれだけ語らせておいて、自分はだんまりを決め込むってのはあまり良くないぞ」
「分かったよ」
 そう苦笑いしながら、温くなった残りのコーヒーを全部飲み干した。
「俺は、世界中の大会巡りをしようと思ってるんだ。マラソンの。世界には色んなシチュエーションで色んなコースを走る大会がある。そういうのを全部走り尽くすのって、考えただけでもわくわくしてくるんだ。勝ち負けじゃない、陸上にしてみれば温い世界だとは思うけど。俺は逆に、そういう所の方が自分が磨かれると、そう思う。親には笑われたけどな。その前にまずは人並みの仕事に就いて、英会話を勉強しろって」
「世界って、随分大きく出たね」
「おかしいか? 笑ってもいいぞ」
「笑わないよ。言ってる事は、何となくだけど分かる気がするから」
 そうか、と俺は笑みを浮かべ肩をすくめた。表ではどこまで本気なんだか、と不貞腐れた態度を示したものの、少しだけ嬉しい気持ちがあったのは確かだった。これほど腹の内を曝け出せたのは湊が初めてだ。今まで俺の周囲にいた連中は皆、俺とは全く正反対の価値観しか持っていないだけでなく、まるで理解を示さない人間ばかりだったから。
「それに、同じ感覚を共有出来る人間と知り合えれば嬉しいかな」
「やっぱ一人は寂しいもんね」
「そうだな」
 走る時はいつも一人だ。だから、同じ道を志す人間にとっての仲間とは、伴走する事ではなくて走る感覚や価値観を共有する事だと俺は思う。今まで俺はそんな人間に恵まれては来なかった。だから仲間を求めようとするのは当然の事だ。誰だって寂しいのは辛い。普段は孤独癖のあるように振舞って見せても、本心にまでは嘘はつけない。
「友達って沢山いる方?」
「いないよ。いつも一人だ」
「なのに、仲間を作るのが目標なの?」
「そうだよ。俺は臆病だから、確実に自分と分かり合えるって思える相手じゃなきゃ、友達になれる自信が持てないんだ」
「じゃあ、私は友達第一号かな?」
「いいや。お前は俺と、自分の先に見据えているものが違うよ。無理だ」
「だよね、やっぱり」
 湊から投げ返された清涼菓子のケースを受け取ると、俺も湊に倣って大量に手のひらに注ぎ一気に口の中へ放り込んだ。すると、口から鼻の奥まで突き抜けるような冷たい衝撃が走り、じんわりとまぶたから涙が溢れ出した。やっぱりこの食べ方はかなり無理がある。いや、そもそもコレは一粒をゆっくり口の中で溶かし味わうものだ。湊の食べ方は異常でとても真似出来るものじゃない。
「日曜日の大会さ、応援に来てくれる? どうせ暇なんでしょ」
「誰が行くか。走りたきゃ勝手に走ってろ。俺はせっかく停学になったから、その時間を使って少し遠出するんだ」
「言うと思った。ホント、それしかないよね。でも、教え子の健闘を祈るぐらい、バチは当たらないと思うよ」
「俺の教え子だなんて言い触らすなよ。それこそ恥ずかしくて表を歩けなくなる」
 少しむっとした湊が俺を叩こうと手を伸ばしてきた。本気ではないそれを苦笑しながら俺は受け止める。
 いつからこんなじゃれ合いをするようになったんだっけ。
 ふとそんな疑問があったが、俺はあえて黙殺する事にした。それほど気分の悪い感覚ではないからだ。