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 少しずつではあるが、心境に変化が出始めていた。変わり映えのない景色を罵りたいのではない。ただ、まだ知らない景色を見つけに行かない自分の尻を叩きたいのだ。そういう小さな焦り。俺は学校へ一週間も行くことが出来なくなった。だから、降って湧いたこの空白は、胸のもやもやを晴らすには絶好の機会だった。
 我ながら前向きな姿勢である。
 教師が状況も訊かず一方的に俺を停学にしたのも、それに対して俺が自分の濡れ衣を教師も両親にも申し開きしなかったのも、どこかで周囲が俺に投影しているイメージの自分を演じ切りたい気持ちがあったからだ。神谷は陸上部期待のエースなのだから、この構図が高価な美術品のようにさえ思える。神谷を庇いたかったのかどうかは定かではないけれど、ただ現状の構図を大きく配置替えする心境に俺はきっと耐えられそうにない。
 停学の間、俺は自宅での謹慎を言い渡されているにも拘わらず、朝から晩まで毎日走っていた。それも、これまで走った事のない隣町までだ。両親は渋い顔こそしたものの、何も言わなかった。俺をそういう人間だと思って諦めているからだろう。出掛けに決まって、帰りの時間だけを訊かれた。
 平日の昼間から走るのは新鮮な感覚だった。いつも今頃は学校で授業を受けている事を考えると、一人校外へ出て伸び伸びと出来るのは思った通り心地良いものである。人と違う事をするのに、後ろめたさよりも好奇心が先立つタイプなのだ。
 ここ最近は梅雨も中休みに入り、アスファルトにはいつもの埃っぽさが戻って来た。どちらかと言って路面は湿っている方が走り易いのだが、雨の中を湊のようにずぶ濡れになりながら走るような趣味は無い。やはり晴れているのに越した事は無いか。
 午前中に家を出て近隣を大きく円周を描きながら走り込んだおかげで、いつの間にか時刻は夕方になっていた。この時間になると下校生徒が町中に現れ始める。一応、俺は停学中の身であるから、そろそろ家に戻った方が良いだろう。
 そうだ、その前に。
 俺は足を浜へ向けた。帰る前に一度、湊の様子でも伺おうと思ったのだ。しかし、一気に高台を駆け上がってみたものの湊の姿は見当たらなかった。東屋にも人影は無い。まだ来るのには早過ぎたのか、それとも既に湊はどこかに走りに行ってしまった後なのか。特に待つ理由も無く、俺はそのまま帰る事にした。
 初めてここに登って海を見渡した時、まるで雷に打たれたような衝撃を俺は受けた。こんな綺麗な場所がこの町にあったなんて、とても信じられなかったのだ。それからだろう、陸上を辞め周囲の視線を避けるように暮らさなければならず、居心地の悪かったこの町が好きになったのは。
 何処にも自分の居場所が無いから、と嘆くような性格ではない。けど、ここにいる時だけは嘘のように気持ちが安らぐのだ。俺に必要なのは一人になる事ではなくて、何かと触れ合う事なんだと思う。たとえばここから見下ろせる、一日として同じ事の無い海の表情だとか。
 登りとは違い、吹き付ける潮風を全身で感じながらゆっくり高台を降りて行く。それから家に帰ろうと思ったのだが、ふと今朝から何も飲んでいない事を思い出し、一旦コンビニへ立ち寄る事にした。そもそも今日は昼食も食べていない。とは言ってもさして珍しい事でもなかった。休日に走り込む時は、昼食そのものを忘れるなんてしょちゅうある。
 コンビニの中へ入ると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してそのままレジへ持って行って精算した。コンビニの前にはゴミ箱がある。帰りながら飲み干してゴミの扱いに困るのも何なので、俺は飲んでからうちへ帰ることにした。駐車場には車は一台しか止まっていない。俺はブロックの上に腰掛けてドリンクをゆっくりと飲み始めた。
「知ってる? 最初の交差点。べたーん、だって」
「何それ? カッコ悪。かなり頭悪いよね。さすがに調子乗り過ぎだよ」
 ふとコンビニ前の通りを歩くジャージ姿の二人組の女子を見つけた。ジャージはうちの学校指定のものだ。
「町内会主催だからって余裕こいてたんじゃない?」
「だよね。あれって毎回ほとんど完走出来てる人なんかいないのに。馬鹿だよねー」
 一体何の話をしているのだろう?
 そう興味を持った俺だったが、町内会主催という言葉にふと湊が以前見せてくれた町内マラソン大会のチラシを思い出した。
 そういや、湊の言ってた大会は昨日だっけ。
 すっかり忘れていた。だが、憶えていた所で応援に足を運ぶ訳でもないし、ましてや出場なんて言語道断だ。それ以上に興味がない。この狭い町で何かをするには、俺の顔は知れ渡り過ぎてもいる。