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 深い曇りだった。
 雨は降っていないけど、気分は相変わらず憂鬱だ。鬱っ気のある俺にとってどんな事でも自分を沈める理由になる。
 久しぶりの登校も俺を特別迎える者はいなかった。薄々想像していた通りの淡白な状況である。教室へ入っても誰一人俺を気に留める者もいなければ、出席を取る教師の口調もいつも通り事務的だ。往々にして、興味を持たれない人間とは視界の隅を汚すだけの存在でしかないものである。
 淡々と授業をこなして行き昼食となった。俺はいつものように学食へ向かった。外へ買い出すにしてもこの学校は付近に店はないし、それに学食の方が安上がりだからだ。
 友達のいない俺はいつも一人で食堂へ向かう。周りでは楽しげに談笑しているような空気だけに、その内独り言でも始めそうだといつも思う。一人黙々と食事する自分の姿が空気を汚しているような気がするからだ。
 食事にそれほどこだわりのない自分は、日替りランチを注文した。献立も見ないで注文したのだが、実際に出された皿には割と好きなハンバーグが乗っていて小さな喜びを覚えた。何となく今日はいい日になりそうだと、呆れるほど単純に喜ぶ自分。いつもの日常に戻って来たが、決して正しいレールの上なのかどうかは分からない。そして、あまり興味を抱こうともしない自分への不安感もない。自分の所在を見失っているのか、あえて放棄しているのか。表面上はいつも通りに振舞ってはいるけれど、実際はまだまだ気持ちが不安定なようだ。
 と、味噌汁に箸をつけて一口すすろうとしたその時。持ち上げた視界の中に見知った顔が現れた。
「ここ、いいか」
 向かいの席までやって来て訊ねたのは神谷だった。
 また面倒な奴が現れた。俺は顔をしかめずにはいられなかったが、かと言って子供染みた意地を張って跳ね除けるのも格好が悪い。俺は無言のまま向かいの椅子を顎で指し示した。神谷は会釈もせず、憮然とした表情で席へ座った。神谷も俺と同じ日替わり定食だった。同じ献立が向かい合わせになる。妙な光景だ、と思った。
「悪かったな。俺のせいで停学にさせて」
「おかげでゆっくり頭が冷やせたよ。それに礼は言わないんじゃなかったのか?」
「そうだな」
 すると神谷は、俺にハンバーグの皿を差し出して来た。それは一週間の停学とは割に合わないものだったが、ここは素直に受け取っておく事にした。
「湊の事、聞いたか?」
「いや。どうかしたか?」
「例の大会は駄目だったそうだ」
 あの町内会のマラソン大会の事だ。けど、駄目だったとはどういう事だろう? 湊は別に入賞なんて狙っていなかったのだけれど。
「駄目だったって、何が?」
「湊は途中でリタイアした。折り返しも出来ずにな。足が痛み出して転んだそうだ。傷は治っても、痛みだけは時々繰り返すらしい」
 神谷の返答に、そうか、と答える事しか出来なかった。
 足を切るとどういう事になるのかなんて、俺はせいぜいうまく歩けなくなる程度にしか分からない。あの気の強い湊が断念してしまうほどの痛みなんて、到底想像もつきやしない。だから、何を言っても嘘臭くなるだろうから、言葉は選ばなくちゃいけない。
「どちらが悪いとかもう言わない。だが、湊の気持ちは察してやってくれ」
「それはお前の役目じゃないのか? 俺は悪ふざけで走り方をそれらしく教えただけだ」
「湊は走ろうとしていた。俺は傷口が広がると思ったから、それを阻んだ。だが、お前は湊の背を押したんだ」
「結局俺が悪いって言いたいんだろ。遠回しに言うのはやめろ」
「そうじゃない。ただ、お前が後悔してるんじゃ無いかと思っただけだ。お前がしたのは背を押しただけで、走ったのは湊自身だ」
「いらねえよ、そういうなぐさめは。そんな暇があれば湊にコンソメチップでも買ってやれ」
「そうだな」
「そうだなって、お前こそそればっかだな。湊が心配ならさ、自分でどうすればいいか考えて行動しろよ。人任せにも程があるぞ」
「そうだな」
 そして、神谷はそれっきり黙りこくった。
 多分、俺に言われるまでも無く、自分でも気が付いているんだろう。もしかすると、自分と違って思うままに湊へ相対した俺に、だからああも露骨に敵意をぶつけて来たのかもしれない。でも、何もさせなかった神谷にも落ち度はないと思う。それは神谷なりに湊の事を考えた結果の行動なのだ。それに、神谷も立場上いつまでも湊に構ってやる事は出来ないはず。それを何か違うと思うのは、俺に細やかな気遣いが無いからだろう。
 以後、俺達は全く会話を交わさず、ただ黙々と食事を続けた。先に席を立ったのは神谷だった。神谷は離れ際に、無言のまま一呼吸ほど視線を向け、そして返却口へ向かった。俺は何も答えなかった。やはり神谷とは肌が合わない。口を開けばすぐに対立してしまう。神谷もそれを分かっているのだろう、だからお互い深く踏み込まないのは暗黙の了解だ。