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 コンビニで買ったのは、おにぎりを二つと唐揚げ。おにぎりの具は梅とシーチキンマヨネーズ。日本人なら必ずどちらか食べられそうな具だ。そして、最後の最後まで迷ったが麦茶は二つ買った。
 コンビニを後にして砂浜へ降りると、砂はじっとりと重くなっていた。どうやら雨が近いらしい。
 高台の下までやって来ると、そこにはいつもの野良が岩肌の上で伏せながら海を眺めていた。犬でも海がどういうものなのか分かっているのだろうか。
 野良は俺の足音に気が付くと、すかさず岩を駆け降りて身を寄せて来た。お目当てのものが側にあるせいか、盛んに尻尾を振りたくっている。
 唐揚げはある程度こうなる事を覚悟して買ったものだ。なんとなく今日は、一人で居たくない気分である。野良でも話し相手ぐらいにはなるし、擦り寄られれば温もりが得られる。
「お、雨だ」
 ふと額を打った冷たいものに空を見上げる。どんよりと生い茂った灰色の雲は尚も蠢きながら自らの色を深く濁らせていく。どうやら一雨来そうだ。
「濡れるぞ、走れ!」
 野良の背中に軽く触れ階段を駆け上がる。野良もその後ろをぴったりと辿ってくる。野良は本気で走っているのか、俺を追走しているだけなのかは分からなかったが、後ろを走られるのは久しぶりの感覚だと思った。
 丁度東屋の屋根が見え始めた頃、ぽつぽつと牽制していた雨が一気に加速を始めた。俺も濡れまいとして走る足を速める。
 そして、ようやく辿り着いた頂の東屋の中。そこに湊は居た。湊の姿には違和感を覚えた。今日の湊は見慣れたジャージ姿ではなく、普段着の格好だったのだ。
 不意に、神谷が俺へ投げかけて来た言葉を思い出した。
 お前はあいつのためにならない。
 神谷の言う通り、湊と関わるべきでは無かったのだ。俺が下手に走り方を教えなければ、湊は公衆の面前で辛い思いをしなくて済んだはずだ。片足でも、走る事も跳ぶ事も出来る。でも、そのためにはまず気持ちを整理するべきだ。気持ちが伴わなきゃ、何をしたってうまくいくはずがない。だから湊が表に出るのはまだまだ早過ぎる。太陽へ手を伸ばそうとして、焦って逆に火傷を負うようなものだ。
「よう、今日は走らないのか」
 東屋の軒先で湿った前髪を掻き上げながら湊にそう問う。湊はぶるぶると勢い良く首を横へ振った。言葉が無い。どことなくうつむき加減で表情に影があるように思えた。
「神谷に聞いたよ。残念だったな」
 湊と向かい合う位置に座りビニール袋を膝に乗せて開く。野良は入り口で体をぶるっと震わせて雨水を飛ばすと、早速俺の足元に寄って来た。
 湊はうつむいたままだった。視線はぼんやり海と自分の膝とを行ったり来たりしている。何かを考えているそれには見えず、むしろ露骨な視線を向けてはならないような気持ちにさせた。
「ま、食えよ。奢りだ」
 努めて明るい口調で袋の中からおにぎりと麦茶を差し出す。湊はぼんやりとそれを見つめ、やがて思い出したように受け取ると、包装を解くなり味わう暇も無いほどの勢いで口の奥へ捩り込んだ。食べると言うよりも、まるで何かを振り切ろうとしているように見えた。だから、俺にはそんな湊を止める事は出来なかった。俺は湊にとって標識程度の存在でなければならない。
「泣くなよ」
 再びうつむいた湊の頭にそっと触れる。湊の髪は洗いざらしのようにしっとりと湿っていた。その冷たさにハッと手を放し、そのまま俺も黙っておにぎりを食べた。屋根を雨が打つ音だけがやけに高く鳴り響く。それが気まずさよりも湊への言葉を求めているように聞こえてならない。そう、ただ黙っている事へ俺は罪悪感を覚えているのだ。
 湊は分かっていたのだろうか。走り続けても自分が痛い思いをするだけという事を。でも、湊の性格を考えれば、そうと分かっていても絶対に走り続けただろう。誰にだって受け入れ難い現実はある。大切なものを理不尽に奪われてしまったら、誰だって何かが見えなくなるほどのショックは受けるはずだ。もっと真面目に走ろうとしている事へ向き合ってやれば良かったと思う。ふざけ半分でなければ、湊の持つ不自然さにももっと早く気付けていただろうし、これほどまで傷つける事もなかったはずだ。
 今更、論ずるのも空しいだけだ。本当に申し訳ないと思うならば、今後どうフォローしてやるのかを真剣に考えるべきである。苦手だとかキャラじゃないとか言っている場合じゃない。
 そう自らを奮起すると、俺も湊に倣っておにぎりを口の中へねじ込んだ。けれど、すぐに喉に詰まらせてしまい慌てて麦茶で飲み下す。やはり慣れない事をするものではない。
「あ、早く食べないと冷めちゃうよ」
 突然、湊が腕を伸ばして来ると傍らに置いていたビニール袋を奪い取っていった。中から唐揚げの入った紙パックを引っ張り出し、早速蓋を開けて一つ摘む。
「落ち込んでたんじゃないのか?」
「さっきまでね。もう気分はすっきりしたから。私って気持ちの切り替えが早いの。そうじゃないと一度の失敗をいつまでもずるずる引き摺っちゃうし、大舞台でいい記録なんて出せないからね。あ、レモンはかける派?」
 涙を感じさせないあっけらかんとした様子に、俺は驚くよりむしろ呆れすら覚えた。気持ちの切り替えが早いとは言え、そうスイッチを入れるみたいに出来るものでもないというのに。また強がりを言っているのだろうか。けれど、強がりでも何でも前向きであればいいと思う。俺だって似たようなものだ。
「私ね、自分の身の振り決めたんだ」
「どうするんだ?」
「私、陸上部に戻る。だからここへは二度と来ない。それが私なりのけじめで、辿り着いた答えなの。今までありがとね。私のわがままに付き合ってくれて」
 そうか。俺はその一言だけ答えた。
 礼を言われるほどの事はしていないけれど、俺の存在が何らかの支えにでもなってくれていたのなら、それはそれで何よりだ。湊にとってもそうだし、俺自身が湊に対する罪悪感が薄れる。そこまで気遣っての言葉なのかどうかは分からないけれど、今は湊の清々しい表情を信じようと思う。
「寂しい?」
「ああ。病気でも一週間一緒にいれば愛着が湧くからな」
「相変わらずね。直した方がいいよ、そういう所。一生友達なんて出来ないから」
 既に湊は三つ目の唐揚げを手にしていた。慌てて取り返したものの、残った唐揚げはたった二つ。そして、まるで見計らったかのように野良が膝へ体を摺り寄せてきた。俺はこいつのこういう仕草にはどうしても勝てない。仕方なく、残りの二つは俺と野良で分け合う事にした。
「さて、じゃあそろそろ私、行くね」
「まだ降ってるぞ」
「いいよ、走ってく。今日の分のトレーニングがまだだから」
 そうか、と肩をすくめ微苦笑。そんな俺に湊は歯をむいてニッと笑って見せた。
「ねえ、もしも私がどこかの公式大会で決勝に出られたら、今度こそ観に来てね」
「そん時は白ラン着て応援団長でもやってやるよ」
「吐いた唾、飲むなよ」
 湊が立ち上がり東屋の出入り口へ向かう。しかしふと立ち止まり、こちらを首だけ振り返った。
「豊も陸上部に入らない? シゲちゃんに口添えしてやってもいいんだけど」
「るせー、余計なお世話だ。死んでも入らねえよ」
「言うと思った」
 溜息混じりに笑い、そして湊は雨の中へ飛び出していった。その足音はあっという間に遠ざかり、雨の音にかき消され聞こえなくなる。けれど俺は背にもたれながらもずっと湊の足音を耳で追い続けた。何を言おうとやはり湊が気になるのだろうか。そんな馬鹿な事を考え、追うのを辞めた。
 野良が俺の膝の上に顎を乗せじゃれ付いてきた。何だお前は、と耳を引っ張ってじゃれ付き返す。
 そういえば、こいつの方からじゃれついて来るなんて珍しいな。
 タバコを吸おうかと思ったのだが、やはり気分にはならなくて、ポケットの中で触れたタバコの箱を更に奥へ押し込んだ。