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 梅雨の間の乾期。
 グラウンドを走る人の群れは活発になっている。雨に降り続けられ、地面の感触を忘れていやしないか、そんな不安感もあるからだろう。
 そんな風景を横目に、俺はグラウンドの隅を正門に向かって歩いていた。今日はいつになく風が涼しく心地良い。これなら高台からの見晴らしも期待出来るだろう。
「外海」
 いきなり背後から呼び止められる。普段、校内でも話しかけられる事の無い俺にとってこういう状況は苦手で、うっすら身構えながら振り向いた。
 立っていたのはジャージ姿のいかにも練習中といった様子の神谷。前髪が汗で濡れ鋭く尖っている。
「湊がいきなり陸上部に戻って来たぞ。お前の差し金か?」
「知るか。俺は走りモドキしか教えてない」
「だろうな」
 やっぱり湊は陸上部へ戻ったのか。俺はどこか安堵を感じてしまった。ようやく収まる所に収まってくれた。多分、そんな気持ちだと思う。
「湊は前よりも強くなった気がする。周囲の声はあまり気にしないで、地道に基礎練習をしているよ。もう大丈夫だと思う。湊は事故から立ち直れた」
「お前のお節介も要らないな」
「だから、初めから俺の思った通りだったんだよ。お前がややこしくしただけだ」
 結果論だろ、それは。
 肩をすくめて見せたら神谷も微苦笑を浮かべてみせる。これまでの経緯からして取っ付き難いイメージがあったのだけれど、意外と愛嬌のある奴だ。でも、仲良くはなれないだろうが。
「外海、もしその気があればお前も陸上部に来るか? 先生には俺の方から掛け合ってやる」
「部室に灰皿はあるのか?」
「あいにく、うちは禁煙だ」
「なら、お断りだ」
「そうか」
 どうしてこうお節介が多いものか。
 一人、頭を掻く自分を意識し、本当にくすぐったいのは気遣って貰った事に対する自分の気持ちなのだと思った。人から優しくされ慣れていないと素直に受け止められないらしいが、どうやらそれは本当の事のようである。我ながら、知らぬ間に随分とひねくれてしまったものだ。
 学校を後にした俺は、いつものように海沿いの道を向かって高台を目指した。途中、コンビニへ立ち寄り、メンチコロッケとお気に入りのコールスローを買う。コンビニを出ると突然、背後から俺の足に温かいものが纏わり付いて来た。視線を降ろすと、じゃれつきながらこっちを見上げる野良の顔があった。
 またお前か。そういつものように思った。けど、
「こら、ゴン太! そんな事をしたら迷惑になる!」
 すぐさま飛んで来た叱咤は老人の声。その声に驚いたのか、野良は慌てて彼の方へ戻って行く。よく見ると、野良の首には真新しい赤の首輪が光っていた。
「いや、申し訳ない。意地汚い犬でして。ああ、もしかしてあなたは?」
「どうも」
「今日はもうお帰りですか?」
「いつもこのぐらいの時間に帰ってます。陸上部とか入ってないもんで」
 どこかで見た事のある老人だと思ったら、俺がこの辺りを走っている時に良く見かけるあの老人だった。
 最後に一言二言別れの言葉を交わし、老人は野良へ引っ張られるようにしてこの場から立ち去った。さすがに普段から走っているせいか野良の後を何とか追えている。しかし老人の叱咤は背中が見えなくなるまで続いていた。まだ完全な主従関係は出来上がっていないらしい。
 そうか、もう野良じゃなくなったんだな。
 どことなく感慨のようなものを感じながら、俺は道路の向こう側へ消えて行く後ろ姿を見送った。
 ガードレールを乗り越え砂浜へ飛び降りる。立った海岸の砂は重く湿っていて、踏み締めた靴へしがみついて来た。歩けば歩くほどしがみついた砂で足が重くなる。俺は岩場の方へ歩を移し、踵を蹴って砂を払った。
 高台の頂へ上がって来ると、そこには久しぶりに見る青緑の海が輝くように広がっていた。この高台はいつも変わらず、毎日違った海の景色を見せてくれる。海は絶えず変化している。だから俺も、そろそろ先へ進むとか何かを始めるべきだと思う。立ち止まるのはやめだ。
 記念すべき最初の大会はどこにしよう、資料でも集めてスクラップしようか。いや、それを悩むのはまだ早い。まずは英会話の勉強だ。人並の成績とは言っても、授業の英語がどこまで通じるのか分からないのだから。
 そんな算段を立てる自分にふと、湊の言葉が思い浮かんだ。確かに一人は寂しいのかもしれない。けど、ここでこうしている方が気楽なのも事実である。
 俺もまた、あの日以来自分を見失っているのかも知れない。だから時々考える事が矛盾してしまう。でも、これはこれで大きな進歩だ。まずは自覚するという第一歩を踏み締めたのだから。
 あえて進む、という事。断行の一つの形を俺は知った。そこには覚悟もあったり、苦渋の選択もあったり、平坦な道程で作られ辿り着くものではない。そういう意味で俺はまだ道の途中だから、形を知っているだけで理解は全然していない。でも、見据えるべき先、そこまでへの辿り着き方は知っている。いや、学んだと言うべきか。
 自分にははっきりとした目的があるから、既に結論へ達していると思っていた。でも本当は、スタート地点からほんの少し足を踏み出していただけで、恐る恐る進んでは引き返すを繰り返していただけにしか過ぎない。
 俺も次へ進もうと思う。この先には辛い事しかないのが分かっているにも関わらず己を貫く湊のように。
「俺もぼやぼやしてられないな」
 まだ温かいコロッケを頬張り、テキストを開いた。途端、いきなり吹き付けて来た潮風にページが煽られる。