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「くそっ」
 俺は手にした狩猟刀を苛立ちと共に傍の藪へと叩きつけた。昨夜砥いだばかりの鋭い刃先に跳ね上げられた枝葉がぱらりと宙を舞って散らばっていく。歩みの邪魔になるような藪ではないのだけれど、どうしても目に付いて仕方なかったのである。
 藪の擦れる虚しい音が俺の苛立ちを強く掻き立てる。苛立ちは時間の流れについて過敏にする。こうして自分が無駄に時間を過ごしているという感覚が更なる苛立ちを描き立て、悪循環の構図を作り出す。そして何よりも、そんな悪循環に嵌っている自分に苛立って仕方なかった。
「やめなよ、ベル。そういう八つ当たりはさ」
「うっせ。ベルって呼ぶな」
 俺が苛立っている理由は一つ。今日はどういう訳かまるで獲物が見つからないのだ。一匹の仕留められないのではなく、文字通り動物の姿そのものが全く見かけられないのである。
「動物って空気に敏感なんだよ? そんなにピリピリしてたら遠くからでも分かっちゃうよ」
「そんなん関係あるかよ。いつもはそれでも普通に獲れてたじゃんか」
「でも、現にこうして獲れてないじゃないか」
「だからって、お前の言う通りって訳でもないだろ」
 ジャックとの会話は先程からこんな調子で、さすがにお互い苛立っていた。やはり獲物が全く獲れそうに無い状況で刻々と無為に時間を過ごすのはかなりのストレスである。今まで獲物が全く獲れない日は何度かあったものの、今日のようにまるで姿も見せない日は無かったのだ。初めての状況に高ぶった感情はどうしても鋭く尖り、向け先を求めてお互いに突きつけ合ってしまう。
 やがて言い争いをするほどの気力も無くなり、ただ黙々と歩き続けていた足に薄っすら疲労感を感じ始めた頃。ふと見上げた空は太陽が若干西に傾いた程度で、まだ雲を茜色に染めるには早い時間だった。
 苛立ちに任せて一心不乱に徘徊し続けたせいだろう、普段以上に疲れの溜りが早い。いや、そもそも苛立ちのせいで無駄なエネルギーを浪費したせいだ。人間、感情に任せて行動すると体力を使うばかりで大した事は出来ないようである。
「ねえ、このまま日暮れまで粘ってもさ大したものは獲れないよ。今日はいっそ諦めて帰らない?」
「そうだな……。しゃあない。こんな日もあるか」
「そうそう、こういう日もあるよ」
「だな、うん」
 急に仲直りしてしまった俺達は、一変して普段のように和気藹々と帰路に着いた。お互い、足は疲れ果てて棒のようになってはいたが、馬鹿話を繰り返しながら歩くのは不思議と疲労感を忘れさせてくれた。結局、疲れたとか何だとかそういうのは気持ち次第である程度はどうにかなる事なんだろう。
 そういえば。
 いつもしている魔法の訓練を、今日はまだしていなかった。いつもは狩りの帰りにするのだけれど、今日はさすがにそれを言い出すのは気が引けた。普段は無理やりジャックを捻じ伏せて訓練をしているのだけれど、さすがに今日は同じ事をするのは少々危険な気がする。ジャックだって我慢にも限界があるのだから、わざわざそこへ波風を立てて事を荒立てるような事をするのは意味が無い。
「おっ?」
 と、その時。前方の薮に何かを見つけた俺は声を上げた。
「どうかした?」
「ほら、そこ。あれって兎じゃね?」
「あ、本当だ」
 薮の中から枯葉色の足が一本、ひょっこりとはみ出している。俺達の気配に気づいて、そこに隠れてやり過ごそうとしているのだろうか?
 実は兎は割と高く売れる獲物である。骨は使い物にならないのだが、毛皮はブランド衣料の材料として重宝され、肉は珍味として安定した取引があり、干した兎の足はアクセサリーとして妙な値段で売れる事がある。一匹辺りの単価は非常に高く、またイノシシのような攻撃性も無ければ石ころの一つもあれば仕留められる手軽さから、見つけられたら積極的に獲りに行きたい獲物一つである。
「よし、ちょっと待ってろよ」
 俺はジャックを待たせ、ゆっくり慎重に薮へ近づいていく。兎は耳が良いし逃げ足も早いから、如何に悟られぬよう近づけるかが重要である。
 そして、
「とうっ!」
 射程距離に捉えた俺は、すかさず薮の中に向かって飛びかかった。素早い兎でも突然の動作には一瞬体を硬直させる。そこが狙い目だ。
 タイミングも完璧だった。気の早い俺の思考が飛びかかった瞬間に兎の毛の感触を想像してしまったほどだ。だが、至福の想像は実現されることはなかった。薮に飛び込んだ俺の手が掴んだのは、雑草と小さな何かの固まりだった。
「うわっ!?」
 掴んだそれを視認した俺はうっかり情けない声を上げてしまった。手から放り出したそれを慌てて駆けつけたジャックがしげしげと見つめる。
「え……何これ? 足だけ? なんか食いちぎられてる感じだけど、狐かな?」
「考えてもみろよ。狐の歯で兎の骨を噛み砕けるか? それに、食い荒らした形跡なんか無いぞ」
「どこからか運んできたのかなあ」
 何かの理由があってこうなってしまったはずだ。
 いつの間にかそう自分に言い聞かせる事で、落ち着けさせようとしている自分がいた。それは、今ここにあるものが本来ならば存在するはずが無いものであるという認識に他ならなかった。俺は既に、この状況が異常な事であると認識してしまったのである。
 それでも俺は、何かの納得の行く理由があるはずだと視界をこの周囲一帯へと広げた。ひとつでも何か異常なものを見つけられたなら、これほど自分を動揺させた異様な状況に、落ち着くだけの的確な理由を与えられると思ったからである。
 やがて、俺は地面にあった一つの異変を見つけた。
「足……跡か?」
 それは楕円形の大きな窪みだった。その窪みは左右二組で並んでおり、互いに交互を決めながらまっすぐとどこかの目的地らしき場所を目指している。楕円形の窪みは、確かに人間のような踵と五本の指の形が見受けられた。しかし、そのサイズは人間の比ではなく、優に俺の上半身ほどもある。明らかに人間のそれではなく、しかも俺は足跡の主に決定的とも呼べる有力な心当たりがあった。そう、憎んでも憎んでも憎み足りない、あいつの事だ。
「ねえ、この足跡。もしかして村の方に向かってない?」
 ふとそんな疑問符を恐る恐る浮かべたジャックの言葉に、俺もよく足跡の向かう方角を確かめた。確かに足跡は村の方角へと続いている。それも歩幅が微妙に広がっているようにも見える。それはつまり、村に近づくにつれて徐々に加速していったという事だ。
 どうして加速したのか。様々な理由が思い浮かんだが、一つとして穏やかな答えは見つからない。そして辿り着いたのは、ここにこうしてのんびりと構えている事態ではないという事だった。
「村に戻るぞ! 嫌な予感がする!」