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 出来る限り注意しておかなければならないのは、歩く時に起こる草木と擦れ合う微かな音だ。
 日常生活においてその音は実に些細な雑音でしかなく、注意しなければ気が付かない事の方が遥かに多い。しかし舞台がこの森に移るとその立場は急変し、最悪の危険を知らせる異常信号となるのだ。日常生活には数え切れないほどの雑音で溢れ返っているが、この森には雑音どころか生き物の気配すらない。だから逆に、その僅かな雑音が危機感を煽る危険信号と成り得るのだ。そして、現状この森で異音を鳴らす要素は三つある。一つは俺達、一つは討伐隊、一つはここを根城にしているであろう鬼だ。どれが最も危険かなんて考えるまでもなく明らかである。
「周り、大丈夫か?」
「うん、平気」
 俺とジャックは出来る限り気配を静め息を殺しながら森の中を進んで行った。さすがに山を歩き慣れた俺達でさえも、この鬱蒼と生い茂った草木には足を取られそうになったり、好き勝手に成長した木枝に頭や首を引っ掻いてしまいそうになっていた。そのため事あるごとに互いに周囲を念入りに確認しながら、討伐隊と遭遇しないよう注意しつつ、森の奥を目指した。
 肌の感覚で、大体昼を回り始めた頃だろうか。
 随分と森の奥まで来た俺達だったが、一向にそれらしいものは見つけられずにいた。案外すぐに見つかるんじゃないかとタカをくくっていたのだが、やはり現実にはそううまくはいかないもののようである。それでも、この茂みを越えれば何か見つかるのではないか、この薮を越えれば何か見つかるのではないか、と単発的な希望を持って探索を続けていた。
「見つからないね、鬼の棲処」
「まあ、そう簡単に見つかるものでもないんだろうな、やっぱり」
「どうしよう? これ以上進むと、夜までに森は出られなくなるけど」
「どうせ出ようが出まいが一緒さ。先に進もう。干し肉も水もまだある」
 日没までどれだけの時間があるのか、この鬱蒼と生い茂った木々に天を閉ざされている奇形の森の腹に居ては、そんな程度の時間の感覚も薄れてしまう。唯一分かるのは日の出ぐらいなものだが、それもいつまでもこの森に居ては狂ってしまうのではないかという不安さえ抱かれる。日長薄暗い場所にいる事は、もしかすると危険な事なのかも知れない。人間は太陽の光を浴びて生活するように出来ているのだから、それを遮られてしまうと一体どんな異変が起こるのか分かったものではない。
 それからしばらく歩き続けていた俺達だが、ふと差し込んでくる木漏れ日が変わっている事に気が付き上を見上げた。木々の間から覗く光の色がすっかりと赤みを帯びているのである。
「そろそろ夕方だね」
「とりあえず、今日はやめておくか」
 今日の捜索は一旦終了とし、野宿の準備を始める事にした。
 考えてみれば、これまで野宿なんてしたこともなかったはずなのに、ここへ討伐隊と来て以来は随分と当たり前のようにしてしまっている。俺もジャックも山には順応性が高いのだろう。もしくは、長い間慣れ親しんで来た山だから、体にとってはそれほど特別な事ではなくなっているのかもしれない。
 とりあえずの寝床を確保し、干し肉と干し芋の食事を淡々と済ませる。火が炊けないにしても、山ならばそのままで食べられる果物や木の実があっても良さそうなのだが、あまり日当たりが良くないせいかろくなものが見つからなかった。キノコは食べられるものが見つかりはしたけれど基本的に生で食べるものじゃないから、仕方なく見なかった事にするしかなかった。
 今夜の火の無い食事。保存食というものは基本的に淡泊か濃厚かの両極端で、時折食べるならばいいが何食か続くとすぐに嫌気がさしてくる。瑞々しい肉がそろそろ恋しくなってきた。そんな事を思いながら、小さな干し肉を見つめる。
「ん……?」
 ふと、ジャックが何かを見つけたのかおもむろに首を伸ばしてどこか遠くを見やっていた。丁度俺の頭を越えた向こう側を見ているようだ。
「なんかしたのか?」
「うん、ちょっと気になるのが……ああっ!? ねえ、ベル! ちょっとあれ!」
 突然声を上げるジャック。普段物静かなジャックが声を上げるのは本人が蚤の心臓で驚いた時だが、それらは一般人、特に俺にしてみればいちいち騒ぐほどの事でも無く、むしろ落胆させられるようなくだらない事の方が多かった。それよりも俺は、今俺達がどういう立場でどういう状況にあるのかの方が大切である。
「ばっか、あんま大きい声出すなよ。気付かれんだろうが」
「わ、分かってるよ。ごめん。でも、それよりも。ほら、あれ見てって」
 ジャックがしきりに指を差すその方角。視線の角度からしてそう遠くは無いようだが、そろそろ日も落ちてきたから周囲は暗くてあまりよく見えない。
 どうせ何かを怖いものにでも見間違えてるんだろう。
 そんな安易な事を考えながら俺はやれやれと溜め息をつかんばかりの態度でその方を振り向いた。すると、やはりそこは何も無い真っ暗な薄闇で別段驚くようなものも見つからなかった。
「なんだよ、何も無いぞ」
「よく見てよ、ほら」
 ジャックにせかされ、再度薄闇へ目をこらす。
 すると、薄闇の中にも若干闇の濃さの事なる部分が見られる事に気が付いた。その闇の濃淡を追っていくと、それは随分と大きく広範囲にまで広がっている。輪郭までたどり着くのに多少時間はかかったものの、やがて俺はそれが一体何なのかたどり着く事が出来た。
「ん……、なんだあれ」
 それは、おそらく昔に大地震か何かが起こった拍子に出来たと思われる地盤の段差。剥き出しになった地層は表層以外はほとんど岩盤になっている。そこに、高さは普通の二階建て家屋よりも更に一回り以上はあるだろうかと思われる、大きな穴がぽっかりと空いていた。
「おい、まさかあれ……」
「僕達、見つけちゃったのかな?」
「どうやら、そうかもしれなさそうだ」
 明らかにあれは人為的に掘られた穴である。自然にあんな横穴が空くはずがないし、岩盤は風雨程度で崩れるはずがない。そして、あれは人間の仕業とも到底思えない。人間があれほど大きな穴を空けるには、出来る出来ないは別にしても相当な労力が必要となる。それに、そもそもこんな山奥にそれほどの穴を空けた所で何の目的があるというのか。
 やはり、どう考えても鬼が住むために掘った穴に間違いは無い。こんな横穴、鬼でなければ空けようが無い。
 推測が次々と有力な情況証拠を得て確信を抱かせてくれた。それは俺にとって非常に喜ばしい事である。しかし、何故だろう、喜ぶべき事であるはずなのに。俄に起こった嫌な動悸が止まってくれない。