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 恐怖と好奇心は、きっと同じぐらい強いに違いない。
 そんな事を頭の隅で考えながら、俺達は張り出た断層に穿たれた大きな横穴の前まで恐る恐るやってきた。遠目から見たそれは、大体大人が少し屈んで入れるぐらいだと思っていたのだが、こうして間近で見てみると横穴の大きさはずっと大きく深く、そして何よりも言い知れぬ威圧感があった。それはきっと、まだ確かめもしない内にこの穴を鬼の棲処だと思い込んでいるせいだろう。しかし、こんな見れば見るほど不自然な横穴は、そうとしか他に説明のつけようが無いのも事実だ。
「これ、天井まで届くか?」
「多分肩車しても無理だよ。大人でも届かないんじゃないかな」
 横穴の高さは、たとえ俺がジャックの肩の上に立って手を伸ばしても届かないほどだ。おそらく、優に大人の身長の二倍はあるだろう。どうしてそんな高さが必要かと問われれば、単にこの横穴に住む主が必要だからとしか答えようが無い。そう、この横穴の大きさは住人の身体の大きさに合わせられたものなのだ。しかも、その大きさは明らかに人間にとっての規格外だ。
 穴の中へ一歩踏み入り、まずは横壁に手をついた。壁は風雨に長年晒されたからなのか意外と滑らかな曲線を描いていた。しかし、爪で引っ掻いても埃がつくだけで、思い切り蹴ってみても壁自体に何の変化も無い所を見る限り、この地層は随分と堅い土で構成されている事が分かる。こんな地層を奥が見えないほど掘り進んでいる辺り、鬼は少なくとも腕力だけはとんでもない事は確かなようだ。一体どれだけの期間で掘り抜いたかは分からないが、最低限鬼の腕力とスタミナに関しては警戒をせねばなるまい。そしてもう一点窺えたのは、鬼の知能は獣のようなレベルではないという事だ。ただの獣にはこんな風にバランスを考えた穴は掘れない。
「ねえ、ベル。今はまだ関わらないんだよね? まずは討伐隊にこの事を連絡してさ」
「分かってるって。ちょっとだけだって」
 続いて足元に屈み込んで様子を確かめてみる。出入り口付近は外から入り込んだ土埃で外との境界が分からなくなっている。奥へ進むに連れて次第に土の色が濃くなっている所をみると、大分湿気が溜まっているようだ。きっと地層の間に溜まった地下水か何かだろう。そして、その土は明らかに何かによって踏み固められているのが分かる。踏み固められている箇所は中央に多く、壁に近づくほど少ない。はっきりとした足跡こそ無いものの、鬼が通るために踏み固められたと判断するにはこれだけで十分だ。
 この横穴が鬼の棲処であるのはほぼ間違いは無いだろうが、やはり情況証拠だけではいまいち信頼性に乏しい。もしかするとこの横穴は、かつて使っていたものの今は使っていない事だってあるのだ。それならそれで何か手がかりが掴めるだろうけれど、少なくとも討伐隊を呼んでおきながらそれすら見つからない無駄足になってしまう事は避けたい。二度も同じ状況が起こると、それだけで俺たちに対する不信感が出来てしまうからだ。
「よし、もうちょっと中に入って確かめて来る。俺一人で行くから、お前はここに残って待ってろ」
「ちょっ、それは幾ら何でも危険だよ。こんな狭い所で見つかったら逃げ場なんて無いんだよ?」
「そんなに奥までは行かないから大丈夫だって」
「なら、僕も行くよ……ちょっと怖いけど、ベル一人にする方が危なそうだから」
「いいって。それに、いざとなったら逃げるのは一人の方が楽だからな」
「で、でも」
「とにかく、お前はここで待ってろ。邪魔だって」
 少し不遜な言い方にも思えたが、そうでも言わなければジャックは無理にでもついて来ようとする。何も出来ないくせに放っておけない、典型的な貧乏くじを引く人間のパターンだ。放っておけない気持ちは分かるが、いざという時に腰が抜けて何も出来なくなるような人間こそ連れてはいけないのだ。
 ジャックをその場へ残し、俺は中へと進んで行った。右手を壁につけてひたすら中へと進む。これは複雑な洞窟でも迷わない方法である。
 明かりが無いため足元どころか周囲もほとんど見えなかったが、段差や出っ張りが無いので意外と楽に進んで行く事が出来た。明かりを持って来れればもっと楽なのだろうが、こっそりと潜入しているのだから仕方ない。
 明かりもそうだが、何より耐えられないのは奥へ進めば進むほど濃さを増して来る湿気と腐臭のような臭いだ。黙っていても前髪が水を吸って垂れ下がり、腐った肉のような臭いが鼻を突いてくる。おそらく動物を食い散らかしそこら辺に捨てているからなのだろうが、正直呼吸するだけでも酷く神経を擦り減らす状況だ。
 しかし、一体どこまで続くんだ? この穴は。
 一向にどこかへたどり着く訳でも無く、ひたすら奥へと道を開くこの横穴に、いつしか時間の感覚までが薄れどれだけ歩いたのか分からなくなってきた。幾らなんでもこれほど深い穴は掘れるはずがないから、きっと途中で鍾乳洞か何かに繋がったのだろう。だが、こんなに進んでいるのに鬼どころか手掛かりすら見つけられないのはどういう事なのだろうか。
 ただ無闇に進んで行く内に、やがて戻り道に対しての不安感が少しずつ芽生えてきた。自分がどれだけ進んだのか分からないという事が、急に何もかもへの不安に変わったのである。右手はしっかりと壁につけてきたが、それは本当なのだろうか、ただそう思い込んでいるんじゃないだろうか、という不安である。
 やはり、そろそろ引き返した方がいいだろう。ここには命を賭けてまで無理に得なければいけないものは何も無いのだ。
 俺は慎重に右手と左手を壁に置き換え踵を返す。後は、手さえ間違っていなければ確実に外へ戻って来れる。どこか恐怖に背中を押されるようにして、不思議と足早に出口へと向かった。
 すると、その時だった。
「ッ!?」
 突然聞こえたのは、洞窟を揺らさんばかりのとてつもない獣染みた砲声。
 怒りでも無く威嚇でもない、それはまるで目覚めた時の欠伸のような、そんな声だと俺は直感した。しかし、この声はあまりにスケールが大き過ぎた。想像を凌駕するとか、そんなレベルではない。ただ、想像する事が出来ないほど得体の知れない存在である事だけが辛うじて分かるだけなのだ。
 気が付くと俺は全力で駆け出していた。
 ほとんど何も見えない暗闇の中を走るなんて、自殺行為にも等しい。しかし、今は見えない壁よりも奥に潜む何かの方が遥かに恐ろしく思えるのだ。一体これは何なのか、とか、まさかこの暗闇の中で見つかったのではないのか、とか、そんな事を考える余裕は全く無かった。ただ心臓を高く打ち鳴らしながら息を切らせて前へと走る事以外を、体が精神が優先順を与えてはくれないのである。
 蔵y身を走る中、恐怖で凍りついたレンガのような頭の中で、俺は一つだけ考えることが出来た。
 俺はツイている。今ここで、これほどの恐怖を先に味わえたのだから。
 そういう、強がりにも負け惜しみにも聞こえる捨て台詞だ。