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 さほど間を置かず、鬼はゆらりと立ち上がってこちらへ視線を向けて来た。今にも蒸気が出て来そうなほど、荒い息遣いえ胸を上下させている。顔はガーラントに片目を潰されたせいで、その血により半分以上が赤茶色に染まっていた。だが残るもう片方の目は依然として怒りの炎を爛々と燃やし俺を睨みつけて来る。目を潰したのも腹に特大の杭を打ち込んだのも俺ではないのだが、鬼にしてみれば人間なんてみんな同じに見えるのだろう。謂れの無い憎悪だが、受け入れ難いものでもなかった。
「ほら、どうした? 唸ってないでさっさとかかって来いよ」
 ぎらぎらと憎悪に輝く目で睨みつけて来る鬼を前に、大胆にも腰の野太刀を抜き放ってわざと視線へ相対するように向けて見せた。野太刀の先へ鬼の視線が注がれる。これが挑発であると理解出来ていない様子だ。
 改めて見る鬼の姿は、まさに凶悪で醜悪に尽きた。人間のように二本足で立ち、四肢や頭の造形は大きさこそ違えど非常に近い物である。しかし、頭に生えた角や口から覗く鋭い牙、筋骨隆々とした腕を始めとする全身には濃い体毛が生え揃い、両手足の指先には赤黒く鋭い巨大な爪が生えている。人間に似てはいるものの、ただそれだけで実際は化け物に相違はなかった。むしろそれ以外に人間性など感じられる場所は皆無である。
 やっぱり、向こうから追って来させるにはこれしかないか。
 この距離では少し危険に思えたものの、俺はあえて魔法のイメージを描いた。多分、ここまでうまくいっていたからと気が大きくなっているんだと思う。だが、今は蛮勇でも欲しいぐらいの心境だ。それすらなければ、指一本動かせないほど恐ろしいのだから。
「行けッ!」
 描いたイメージはさほど繊細なものではなく、ただの衝撃の固まりを撃ち放つだけのものだった。魔法はゆらゆらと前方へくゆらせる俺の野太刀の先端から放たれ、そして鬼の胸へ命中した。
『グウウッ……!』
 それを受けて鬼は僅かによろめき、そしてこちらを睨みつけて来る。すぐに飛びかかって来ない所を受け、まさか慎重になられたかと一瞬不安に思った。しかしすぐに鬼は頭の中まで震わせるような砲声を上げると、再び俺の方へと突進して来た。
 来た来た。所詮は獣だ。何も裏の事とか考えてない。
 恐怖と緊張に苦悩する反面、そんな駆け引きを楽しむ余裕さえ出来ている自分がいた。これはある種の順応だろう。集中的に極度の緊張に晒されたせいで、こんな非日常にも慣れてしまったのだ。
 そして、再び鬼との追い駆けっこが始まった。
 相変わらず鬼は猪突猛進で、次にどこでどう動くのかが非常に予測し易かった。俺はただひたすら追い詰められぬよう行き先に気を配りつつ、滝の流れる断崖の天辺を目指す。ルートは単純、このまま断崖の真下へ向かってそこから頂上まで続く坂道を駆け上がるだけだ。しかし問題はこの坂道だ。上り坂の場合、どうしても脚力の差が平坦な道よりも顕著に出てしまう。相当疲弊はしているが、脚力はまだ鬼の方が多少上だ。多分、今のペースで上り坂を上ろうとした場合、鬼がちょっと腕を伸ばせば俺の背中に届いてしまう。さっきは魔法を使って間合いを調整出来ていたが、ここまで切迫している状況では無理だ。一旦鬼を足止めしておき、その隙に天辺まで上って迎え撃つ形がベストだ。
 そうと決まれば。
 俺はイメージを描き魔法の力を野太刀へと込める。それと同時に、断崖の頂上へと続く坂道の入り口が見えてくる。
 足止めするならばこの位置がいいだろう。
 まだ思いついたばかりで心の準備も何も出来ていない状態だったが、構わず行動に打って出た。これもまた、この状況への順応に他ならない。
「食らえッ!」
 急の振り向き様、鬼の顔を目がけて野太刀から魔法を繰り出した。刀身から放たれた三日月状の白い光が鋭く空気を切り裂きながら鬼の顔面へ襲いかかる。しかし、度重なる顔への攻撃に鬼は難無く反応し、両手で顔を守る事で直撃を防いだ。
 だが、それこそ俺の作戦通りである。顔を庇った事で鬼の両腕が一時的に塞がり、他の部分への注意ががら空きになった。魔法を繰り出すのと同時に飛び出した俺は、再度魔法をかけた野太刀を構え思い切って鬼の足元へと飛び込む。
「うらああああっ!」
 言葉にならない砲声を上げながら、野太刀を鬼の右足の甲へ思い切り突き立てる。野太刀は叩き切る事が目的であるため先端も決して鋭くはない。それを魔法と腕力で底上げし、強引に鬼の足を地面へ串刺しにした。
『ギャアアアッ!』
 まるで砂利に突き刺したようなごつごつと堅い感触が野太刀から伝わってくる。それでも強引に進めた野太刀は、どうにか柄近くまで突き刺すことが出来た。同時に、鬼の砲声が周囲にこだまする。間近で聞くと耳が麻痺してしまいそうなほどの、とんでもない音量だった。
 すると、
「がはっ!?」
 突然、俺の胸に強い衝撃を感じたかと思った直後、俺の体は大きく後ろへ吹き飛んだ。断崖の坂道の入り口へ、背中を思い切り叩きつけられて着地する。あまりの衝撃に一瞬息が詰まり全身が硬直した。気を抜けば意識が飛んでしまいそうなほどであった。
 く……そっ。
 すぐさま俺は立ち上がるものの、今度は肺にある空気を一気に吐き出してしまうほどの激痛に襲われた。その慣れない激痛は胸の辺りから飛び出てくる。俺は鬼に殴られるか何かをして吹っ飛ばされたのだろう。痛みの原因は多分、殴られた拍子に肋骨でも折れたかだ。
 だが、ぐずぐずしている暇は無い。鬼が足の野太刀を引き抜くまで、さほど時間はかからないはずなのだ。
 気の遠くなりそうな痛みをこらえ、俺はすぐさま断崖の頂上を目指し坂道を駆け上がり始めた。普段何げなく走る山道を変わらないはずなのに、足を地面へつけるたびに頭の中へ響くような激痛に襲われる今は、弱音を吐いて諦めたくなるほどの苛酷さを極めた。一歩ごとに体力を体の肉片ごと削られているような錯覚すらある。けれど、早くここを上らなければ、比喩ではなくて本当にそうなってしまう。それに、疲労よりも痛みの方が我慢はしやすい。そう言い聞かせる方が簡単なのだ。
 どうにか断崖を上り切った俺は、坂道の様子を見下ろして確認する。予想通り、鬼はまだ中腹の付近を上っている最中だった。さすがに足に野太刀を刺したぐらいでは勢いが陰ったりしない。ただ怒りの炎に油を注いだだけである。
 とにかくこれで、鬼を迎え撃つという形になった。後は崖の先端まで鬼を誘導し、そこから滝壺へ突き落とすだけである。
 苦しいながらも作戦は順調に進んでいる。そう思った俺は、断崖の先端へ視線を向けた。
 しかし、ふと俺の脳裏を疑問が過ぎった。
 ちょっと待て。そういえば、一体どうやってここから鬼を突き落とせばいいのだろう?
 周囲は何もない、ただの岩山の天辺の平地。そこから僅かに突き出た先端部分が丁度滝壺の真上まで来れるようになっている。そこまで鬼を誘導するのはいい。鬼は俺を追いかけて来るだけであるからだ。けれど、その後は具体的にどうすればいいのだろうか? 鬼がただひたすら俺を追いかけてくるという事は、俺は鬼に背中を取られる事はあっても、逆に取ることは出来ないのではないだろうか?
 考えてみれば、敵を不意打ちにかけるというのは、自分が敵に注目をされていないからこそ可能な戦術だ。ここまでは俺自身を餌にして誘導して来たけれど、鬼を滝壺へ突き落とすのは餌の役目ではない。餌に気を取られている隙を突き、奇襲を仕掛ける者の役目だ。そして俺は一人、もう何も作戦は持っておらず、また餌が奇襲を仕掛ける事は不可能である。
 まずい、これでは逆に自ら窮地に立ったようなものじゃないか……!