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 鬼がここまで登ってくるのに、後どれぐらいの猶予があるのだろう?
 今はそんな事を論じている場合では無いのだが俺はすっかり頭に血が上ってしまい、目先の事ばかりに囚われ過ぎてどうしたらいいのか分からなくなってしまっていた。
 このまま登ってきた鬼を待ち伏せして、背中から不意打ちして滝壺へ叩き落とせないだろうか? いや、そもそもこんな見晴らしの良い平地のどこに隠れるというのか。登って来た瞬間にまず見つかってしまう。
 ならば、あえて崖の先端に立って再度鬼を挑発すればどうだろうか。頭に血を上らせ突っ込んできた所をギリギリでかわせば、自分から滝壺へ落ちてくれるんじゃないか? いや、こんな狭い先端のどこでどうかわせというのか。それに、そもそも鬼が止まれないほどの勢いで走ってくる保証もない。歩かずとも止まれる早さで近づかれたら一巻の終わりだ。
 もう一度、さっきみたいに足止めをして背中に回り込む? 駄目だ駄目だ、今の俺は丸腰だし、背中を取れても体重差が歴然としている。大人と子供以上の絶望的な違いに屈服させられるだけだ。
 幾ら死に物狂いになって思考を巡らせても、名案が思い浮かぶどころか駄案ばかりが飛び出してくるばかりだった。理性は完全にパニックを起こしている自分を客観的に認識するだけで精一杯で、自らを落ち着ける事すら出来ない。どうすればこの状況を打開出来るのか、後は神にでも祈ろうかと自暴自棄にすらなりたく思った。
 ずしん、ずしん、と鬼が着実にこちらへ近づいてくる足音が聞こえる。退路が断たれているという気持ちがあるせいか、姿は見えないのに異様な威圧感が感じられた。足音が響き渡る都度、肋骨がきりきりと痛みを吐き出す。混乱と痛みと恐怖がないまぜになった頭の中で、ひとまず俺は鬼との距離を取る手段を思いついた。それは即ち、この断崖の先端へ退くこと、つまりは自ら袋小路へ飛び込む一時しのぎである。
 パニックを起こしたまま、よたよたと緊張で強ばった足で夢遊病者のように断崖の先端へ駈けて行く。鬼の足音は頂上のすぐ近くまで来ているため、他にあれこれと冷静に考える事は出来なかった。ただ真っ先に思いついた案にすがりつくだけで、どうにか現実的な死を回避している気持ちに浸れた。だがその夢も、崖の先から眼下の滝壺を見下ろした瞬間に綺麗に覚めてしまった。ここから飛び降りるだけで極めて現実的な死を迎えられる。あまりに小さく見えるこの風景に、こんな危険な場所に無手でのこのこやってきた自分を罵倒すらしたくなった。
 もう、俺は死ぬしかないのだろうか?
 残された道は二つ、このままここから飛び降りるか、鬼と素手で戦って死ぬかだ。この高さから飛び降りたらきっと助からないだろうし、鬼と戦った所で勝ち目はゼロである。ならば、食われて死ぬなんて悲惨な最後より滝壺へ飛び込んだ方がよっぽどマシではないだろうか。もしかすると万に一つも生き延びられる可能性だって無い訳じゃないはずだ。
 けれど、とてもすぐには飛び込む覚悟は決められなかった。単純にこの高さが恐ろしくて仕方ないのだ。理屈ではまだこっちの方がマシだと理解は出来ているけれど、本能を屈服させる事はどうしても出来なかった。
『グオオオオッ!』
 そうしている内に、遂に鬼の雄叫びが坂道の方から聞こえて来た。大分どころか、もう寸前まで来ている。このまま頂上まで登り切ったら、真っ先に俺の所へ向かってくるだろう。散々挑発した上に足まで串刺しにしたのだから、幾ら頭の上を飛ぶだけの虫のような存在にしか思っていなくとも、俺を殺すまでは絶対に収まらないはずだ。
 早く飛び降りなければ。食い殺されるなんて、そんな惨めな死に方は嫌だ。
 勇者として身を立てるなんて幻想は捨てた。だけど祖父さんの仇を討ちたい一心で己をわきまえなかったから、結局こんな事になってしまった。今になってジャックの言葉がどれだけ有り難いものだったのか身に染みた。ジャックはこういう状況にならないために、俺にいつも口うるさく無茶はするなと注意していたのだ。それを俺は一笑に付し無視し続けて来たのだからこれは自業自得なのだ。
 今死ぬのはあまりに悔いが残り過ぎる。殺された討伐隊の人もこれと同じ気持ちだったのだろうか。そう俺は自らの愚かさを噛み締めて項垂れた。
 と、その時だった。
「ベルシュタイン!」
 突然、腹の底から絞り出すような大声が飛んで来るのを耳にした。ハッと振り返ると、丁度滝から続く川の途中に幾人かの人だかりが出来ているのを見つけた。よく見るとそれはガーラントと討伐隊の面々だった。
 まさか、どうやってここまで辿り着いたのだろう? 山は勘だけで進めるような所じゃ無いのに。
「今、そっちへ行く! なんとか持ちこたえろ!」
 討伐隊は一斉にこの断崖に向かって走り始めた。
 これを奇跡と言わずして何をそう呼ぶか。とにかく俺は思わぬ幸運に喜びを隠し切れなかった。パニックを起こしていた頭の中が一気にクリアになる。これは大きなチャンスだ。何とか討伐隊に助けて貰えるかもしれない。だが、冷静になった頭でついでによく考えてみれば、どう急いだところで討伐隊がここへ辿り着くよりも鬼が先に来てしまうのは明白な事に気が付いた。それまで、どうにかして自分自身を守らなくてはならないのだが、既に野太刀も無くしていて、そもそも戦う手段そのものが無い。逃げ回り続けるのにも無理があるとなっては、こんな状態で一体どうすれば良いのだろうか。
 どうにか時間は稼げないのか。このせっかくの幸運を無駄にはしたくない。
 すると、頭が冷静になっているためかすぐに一つの考えが思い浮かんだ。だがそれは、非常に背筋に寒気の走るような、あまりにリスクの高いとんでもない手段でもあった。馬鹿げているといえば馬鹿げているし、並の神経では到底出来そうも無い。しかし今は他に良い案は浮かばないし、選ぶほどの余裕も無い。これ以上案を練る時間も無く、他に残された選択肢は最初の論外な二つだけだ。だったら迷う理由は無い。
 こうなったらイチかバチかだ。祖父さん、見守ってくれよ。
 俺は意を決して崖の先端に屈み込むと、そこへ手をかけ慎重に体を反転させつつ下半身を崖下へ移動させていった。更に腕を伸ばして上半身も沈めて行く。最終的に俺の体は崖の先端からぶら下がる形になった。すぐさま、先程見下ろした眼下の光景が頭の中に蘇り胸を締め付けてくる。幾ら落ち着いているとは言っても、きっと下を見たらまたパニックを起こすだろう。そうしたら今度こそ冷静さを取り戻す自信はないから、事実上の終わりである。だから俺は必死で下を見ぬよう自分へ言い聞かせた。
 決して滝壺へ身を投げるつもりでも、このまま崖伝いに降りるなんて馬鹿な挑戦をする訳でも無い。おそらく鬼は、俺の姿を見るなり一気に襲いかかってくるだろう。だが、もしも俺の姿が見つからなかったら、きっと俺を探して周囲をうろうろするはずだ。つまり、それだけの時間が稼げるのである。
 くっそ……やっぱり怖いな、これは。
 崖の壁を足で探ってみると、でこぼこが非常に多くて足をかけられそうなところがあった。そこにも体重を分散させれば腕の負担も大分減り、しばらくはこの態勢でも持ちそうだった。後は、鬼に見つからない事を祈るばかりだ。