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 来た……!
 頂上へ向かって遠目から聞こえていた鬼の足音が、遂にこの断崖の天辺まで辿り着いた。
 それはまさに神にも祈るような心境だった。これまでの自分のスタンスが、祈る暇があったら魔法の練習でもした方がいい、という現実的なものであったにもかかわらずである。人間、追い詰められた時に頼るのは結局神様だという事か、もしくは単に頼るべき自信の源であった俺の魔法は世界に通用しない事を知らされたせいかもしれない。
 頼むから見つからないでくれ……!
 断崖の端にしがみつきながら、そう俺はぎゅっと目を瞑りひたすら祈り続けた。一応の勝算は持っている。鬼は頭に血が上っているから、多少の違和感には気づけないはずだから、端に掴まってぶら下がる俺を見つける事は出来ないに違いないと踏んでいるのだ。
 目を閉じている分、音には普段よりも敏感になっている。俺は鬼の動向を探るべく、足音に全神経を集中させた。
 案の定、鬼の足は初めこそ勢い良く突っ込んでは来たものの、俺の姿を見つけられないせいか一旦足を止め、次第に周囲をうろうろと歩き回り始めた。だがそれは、決して困惑している訳では無かった。歩きながらも時折地面を踏み付ける勢いが強くなったり、力任せに拳で殴っているような音がちらほら聞こえる。おそらく、居ると思っていたはずの俺が見つからず、けれど諦める事も出来ずにどうすればいいのか分からなくて苛立っているのだろう。こんな時に鬼に見つかりでもしたらとても恐ろしい事になるのだが、今はかえってこんな風に頭に血を上らせて貰った方がありがたい。冷静さを欠けば欠くほど盲点には気づけなくなるものだ。それに、鬼なんて所詮は獣だ。たとえ平時であったとしても、俺の隠れている場所に気づけないかもしれないような知能レベルである。だから、幾ら凶暴化していようとも恐れるには値しないのである。
 早く、討伐隊は来ないだろうか……。
 見つかる確率など低いと踏んでいても、すぐ近くに凶暴化した鬼がいるなんて状況は精神衛生に良く無い。俺は自分が鬼に見つからない事に加えて、少しでも早く討伐隊が頂上へ辿り着いてくれる事を願った。討伐隊が到着さえすれば状況は一転する。確かに討伐隊自体には大した戦力は無いのだけれど、こちらの頭数が多ければそれだけ対抗手段も増えて来るのだ。俺と討伐隊と連携して鬼を滝壺へ叩き込む。それが最終的な理想の結末である。そして、そこに辿り着くまでの大筋の展開は頭の中には出来上がっている。後はどこまで忠実に準えられるかと、不測の事態が起こらないだけの強運だ。運ばかりは自分でもどうしようもないだけに、出来る事は神頼みしか残っていない。
 とても生きた心地のしないまま、俺はただじっと崖にしがみついてた。鬼の足音は徐々にこちらへ近づいて来る。決して確信を持った足取りではなく、依然困惑と苛立ちの入り交じった落ち着きの無い足取りだった。それでも、俺が見つかる可能性は決してゼロではない。やるだけの事はやったのだから、後はうまくいくよう展開を見守る他ないのだが、あまりにその時間はどれほどのものか不透明である。いつ終わると知れぬ状況で、ひたすら待ち続けるのは拷問以外の何物でも無かった。限りなく見つかる可能性は皆無に等しくとも、ゼロで無い以上は不安だけが分かりやすく募っていく。
 まだか。まだなのか。討伐隊はまだ来ないのか。
 感覚の時間など当てになるはずもなく、時間を数える事も出来ない状況下では、流れる時間が非常に膨大に思えた。人間は自分の脈拍で時間を無意識の内に測るという話を聞いたことがあるが、俺の心臓はずっと鳴りっ放しだからそう感じるのかもしれない。かつて、これほど時間を長く濃密に感じた事はあっただろうか。その恐怖と焦燥は、いつしか肋骨の痛みすらも忘れさせてくれた。
 恐怖のあまり息苦しさすら感じ始めた。まるで喉が真綿で締め付けられているかのように、空気を吸い込もうとしても喉が開かず吸い込む事が出来ない。呼吸が不自由になると、今度は指先が痺れ始めた。俺の体重の大部分を腕で支えているため、それは更なる焦りを募らす原因となった。挙句の果てには眩暈すら起こり始める。呼吸が出来ないだけで僅かな間にこんな症状が出るなんて思いもよらず、そんな想定外の状況もまた焦りを煽り立てる。とにかく呼吸をしなければと俺はしきりに喉を動かし胸を膨らませ空気を飲み込むように貪った。傍から見れば滑稽な姿かもしれないが、今はこの状況を乗り越える事だけで俺は精一杯だ。恥とかそんなものは余裕がある時でなければ優先する事は出来ない。
 崖からぶら下がって隠れようという案を思いついた時、俺は単純にぶら下がり続けるだけの体力があれば大丈夫だと思っていた。しかし、実際にやってみると、本当に必要なのは平常心を保ち続ける精神力の方が重要だと思い知らされた。片手でも離してしまえば滝壺に落ちて死に、鬼に見つかっても死ぬというこんな逃げ場の無い状況で、討伐隊が来ることだけを待ち続けるというのがこれほど過酷だとは。それでも俺は、後悔という言葉だけは頭に浮かべなかった。そもそも首を突っ込まなければこういう事にはならなかったのだ。たとえ死ぬほど辛い状況に陥ったとしても、黙って受け入れ、乗り越える方がよほど格好いい。鬼とたった一人で戦った祖父さんだって絶対にそう思うはずである。
 大丈夫だ、息さえしていればもう少し持つ。
 依然として呼吸を平素の状態に整えることは出来なかったが、何とか痺れる指先が離れそうになる事は押さえつけられた。苦しい状況に変わりはないが、恐怖と焦燥感に押し潰されてしまう不安だけには屈していない。それだけで十分自分を支える事が出来る。
「……ん?」
 と、その時。ふと俺は、何か生暖かい感触が額に当たるのを感じた。すくって確かめようにも両手は塞がっているため、一体何が落ちてきたのか確かめる事が出来ない。
 雨にしては温か過ぎるし、勢いも大人し過ぎる。それでは何が落ちてきたのだろうか?
 俺は何の気も無しにふと上を見上げた。
 は……あっ!?
 次の瞬間、俺は思わず固めていた指先を離してしまいそうになった。俺の目に飛び込んできたのは、鬼が崖の先端に立ってこちらを見下ろしている姿だった。鬼の脇腹からはぽたぽたと血の雫が伝い落ちている。それが丁度俺の顔へ落ちてきた。討伐隊に打ち込まれた杭からの流血だ。
 そんな、なんで!?
 この状況は俄かに受け入れ難かった。ゼロではないにしろ、まずここに俺が隠れていることなんて気付かれないはずなのに。鬼はそこまでの知能は無いし、しかも今は怒りで頭に血が昇っているから些細な事なんて絶対に目に留まらないはず。そういう前提で挑んだ作戦だったのに、一体どうしてここに隠れている事が分かったのだろうか?
『グウウウウ……』
 鬼が俺の姿を見て興奮したのか、重苦しい唸り声を上げた。さっきまでここから動向を伺っていた時に聞こえて来たものとまったく同じ声だ。
 そうか、呼吸か! 俺の呼吸の音を聞きつけたんだ……!
 またしても俺は詰めを誤ってしまったのか。ようやく己の失態に気付いたものの、今度こそこれで俺は最後だと咄嗟に思った。確かに崖に隠れる事は明暗だったのかもしれないが、姿を隠したまでは良かったものの呼吸を抑えなかったために見つかってしまうなんて、間が抜けているとしか言いようが無い。そもそも、俺が呼吸を乱していたのは他でもない、鬼が怖くて怖くて仕方なかったせいだ。つまり、心の弱さである。
 俺は鬼に負けたのではなく、自分の弱さに負けたのだ。
 そんな後悔に浸らせる暇もくれず、遂に鬼は俺を捕まえようとその巨大な右手をこちらへ伸ばして来た。