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 くそっ、ここまでなのか……!
 ぬらりと伸びて来る鬼の右手。その手のひらは遠目から見るのとは比べ物にならないほど大きく、優に俺の体ぐらいすっぽりと握り込んでしまいそうに見えた。これまで鬼の馬鹿げた腕力は何度も目にしてきている。俺の体なんて鬼の握力にかかれば一瞬でミンチにされてしまうだろう。
 祖父さんの仇を取ろうとして、まさか返り討ちに遭うなんて。本当は一番現実的な結末のはずだが、俺はそれを考えることすら忌み嫌っていたせいで想定した事が無かった。そもそも、生まれつきの魔法の才能があったせいで、まさか負けるなんて状況が予想出来なかったのだ。それだけに、足掻きに足掻いて晒せるだけの醜態を晒した末に返り討ちに遭うだなんて悲惨な現実を、とても受け入れたくは無かった。
 こうなったら、思い切って鬼の腕を掴んで滝壺に飛び込んでやろうか? いや、向こうの方が腕力も体重も上だから、物のように持ち上げられて終わりだ。
 最後まで下らない作戦しか思いつけない自分を俺は嘲り笑った。所詮、俺は背伸びをしたいだけの子供だったのだ。勇者になるだなんて、子供の夢の中だけの戯言。俺は、そんな特別な存在でもないし、特別な存在になる事も出来ない。そういう人間だったのだ。
 すると、その時だった。
 既に諦めの境地に入ろうとしていた俺を鬼の手が捉えかけていた瞬間、まるで指笛のような鋭く甲高い音がどこからともなく聞こえたような気がした。
 ざくっ、という初冬の固い雪を踏み締める音に似た音が聞こえた。
『ギャアアアアアッ!!』
 突然、鬼は悲鳴のような砲声を上げた。
 一体何が起こったというのだろう? そう不思議に思った時だった。
「ベルッ!」
 下から聞こえて来た聞き覚えのある叫び声。絶対に見ないと誓っていたはずだったが、つい引き寄せられるように下を見てしまった。すると、滝壺から流れる川のすぐ側に、うっすらと一人の人間が立っているのが見えた。俺はその輪郭だけで誰が立っているのかすぐに気が付いた。そして、討伐隊が以上に驚いた。まさかこんな所にいるなんて思いもよらなかったのである。
「ジャック……お前」
 向こうに残っていたんじゃなかったのか?
 そう思うなり、すぐに鬼をもう一度確認する。悶え苦しむ鬼の顔からは、猪のような皮の厚く体の大きい獲物を仕留める時に使う太い矢が飛び出しているのが見えた。矢は丁度鬼の左目に突き刺さっている。この矢は中に少量ながら鉄も使われているので普通の矢よりも重く威力が高い。当然扱いも難しいのだが、こんなものが目に刺さったらそれだけに止まらず頭の内部の方まで食い込むだろう。
 そして、再度ジャックの方を見下ろすと、ジャックが左手に弓を携えているのが見えた。正直、まさかと驚いた。幾ら月夜とは言っても、こんな暗い中をあの距離から月明かりだけで鬼の目を正確に撃ち抜くなんて。それも使った矢だって普通の矢じゃない。大人でもてこずるような矢だというのに。
 まぐれか実力かはともかく、これはまたとないチャンスだ。そして、本当にこれ以上の幸運は起こり得ないだろうと悟った。
 ようし、行くぞ!
 俺は全身に最後の力を振り絞って込めると、一気に崖から這い上がった。目の前では鬼が矢の刺さった部分を押さえながらも何かを掴もうと、もう片方の腕を闇雲に振り回している。俺は四つん這いになって姿勢を低くし急いでその横を通り過ぎた。
 鬼はもはや何物をも認識は出来ない。それは単に目が両方とも潰されたせいだけではなく、その事のショックから混乱し切っているためだ。そして、鬼は崖の先端すれすれの所にいる。もう、やるならば今しかない。
「ベルシュタイン! これは一体!?」
 不意に背後からぞろぞろと現れたのは、丁度今し方到着した討伐隊の面々だった。当然、これまでの経緯は知らない訳だから、目の前の暴れ狂う鬼の姿に唖然としてしまっていた。
 説明するには少し時間がかかるが、しかしいいタイミングで来てくれた。
 俺はガーラントの質問には答えなかった。そしてその代わりに一言、
「今だ!」
 と言い放ち、鬼に向かって突撃した。
 討伐隊はそんな俺の言わんとする事を瞬時に理解したらしく、続けて俺の後を追い鬼へ一緒に突進して行った。
 多分、誰もがこれが最後のチャンスだと思っているだろう。これまで数々の作戦と兵器を用いて挑んだが、並外れた体力を持ってしてことごとく打ち破られてしまった。こいつは普通の魔物じゃない。薄々それは感じていた事だと思う。だから、人事では手に負えないのでは、という暗黙の不安さえあったはずだ。今、目の前の構図はまさしく人事を越えた天命の体現化である。これ以上の僥倖はあり得ない。だからこそ、誰もがこれを最後のチャンスだと思うのだ。幸運なんて、そう何度も訪れるものじゃないから掴める内に掴むものだと、みんな知っているのである。
「行くぞ! せぇのっ!」
 とにかく、皆が皆目的は分かっていても手段はてんでばらばらだった。肩から鋭角に突っ込む者、両腕で力いっぱい突っ張る者、はたまた足元に潜り込んで重心を崩そうと試みる者までいる。けれど、そんな思い思いの行動が自然とうまく作用し、鬼の体は大きく前方へバランスを崩してつんのめった。
 後は何も手を下す必要が無かった。鬼はそれでも暴れ続けて自らバランスを失い、頭から飛び込むように崖から中空へ身を投げ、真っ逆さまに滝壺へと落ちて行った。
『ガアアアアッ!』
 断末魔らしい鬼の叫び声もどんどん小さくなっていき、最後に水しぶきの舞う音にかき消された。そんな一連の流れを俺達は肩をいからせて祈るような思いで見守っていた。今度こそうまくいって下さい、とそんな祈りを神様に捧げるような心境だ。
 しばらく俺達は無言のまま崖に張り付いて状況を見守っていた。多分、心のどこかでまだ鬼はこのぐらいじゃ死なないだろうという不安感があったのだと思う。けれど、五分待っても十分待っても、滝壺から鬼の姿が現れる事は無かった。そんな事実から鬼を倒せたという結論を導く事はそう難しい事ではないのだけれど、どこか俺達は慎重に自分と周囲の反応を伺っていた。誰もが、本当は倒せていないのに鬼を仕留めたなどと口にすれば、楽観主義者という烙印を押される事を恐れていたんだと思う。
 やがて、探り合うような視線の飛び交う中、一人の隊員が恐る恐るその言葉を口にした。
「やった……よな?」
 その言葉を待ち望んでいたとばかりに、すぐさま一斉に押し込めていた言葉が周囲に吐き出された。
「ああ、やった! 倒したぞ!」
「これで仲間の仇も取れた!」
 次々と上がる歓喜の声。俺も張り詰めていたものが解け、その場に膝から崩れてしまった。背中を丸めて座り込み、呆然とその様を見やっていた。ずっと緊張し続けて来たせいか、頭の中が真っ白になってしまって何も考える事が出来なかった。ただ、ようやく戦いは終わったという事だけは漠然と理解出来ていた。しかし、気が抜けたせいで全身にどっと疲れが込み上げて来たかと思うと、肋骨の痛みが激しさを増し奥歯を噛んでしまった。
 終わったんだ……な。
 こういう時、もっと色々とこれまでの経緯を思い出すものだと思ったのだが、頭の中が真っ白になっているせいで何も思い浮かばなかった。それよりも今はただひたすら泥のように眠りたい。ただただ疲れた。それだけしか頭の中に無かったが、心なしか胸が軽くなったような気もした。祖父さんの仇が取れたという安堵だと思う。
 なんだか、これまでずっと仇討ちって事に縛られてたみたいだ。
 恨み言でも愚痴でもなく、ただそう俺は思った。