BACK

「ア、アンタ……大丈夫なのかい? あんな思い切り殴られて」
 少年が去り静まり返った店内で、一人の客が恐る恐るグリエルモに訊ねる。無論、それは頭を椅子で思い切り殴られたが怪我は無いのか、という意味であるが、グリエルモはあまり質問の意図を理解していないらしく不思議そうに小首を傾げるばかりだった。
「長い人生、そのような事もあるだろう。それよりも店主、お茶はどうなったのかね?」
「あ、はあ……ただ今」
 店中の客がグリエルモとソフィアへ奇異の視線を無く注ぐ。ひそひそと訝しむ声にも遠慮が無く、耳を澄ませば何を話しているのかも聞き取る事が出来る。しかし、当のグリエルモはナイフとフォークを細かく鳴らしながらぶつぶつと作詞に勤しみ、全く周囲に関心を示していない。ソフィアもテーブルの上に散らばった椅子の破片を退けるなり、のんびりと食事を再開している。連れの男性が暴行に遭った直後とは到底思えない落ち着きぶりだ。
 そしてソフィアが食事を終える頃、店主は奥から二人分のお茶を持ってテーブルまでやってきた。酒精の芳香が篭もる酒場には似つかわぬ甘い香りが仄かに漂い、それを嗅ぎ取ったグリエルモは途端に顔を上げた。
「おお、店主。言わずとも分かる。春の日の野苺のような甘酸っぱい香り、それは幼い日のほろ苦い想いを手帳に綴る指の震え、はたまた悪夢に起こされじっと見つめた明かりの無い部屋の壁」
「この村で取れるバナナのお茶です。ミルクはお好みでどうぞ」
「ありがとう。私は少しミルクを入れるのが好きなの」
 無駄に多弁なグリエルモにはわざと気付かない振りをする一方で、ソフィアは店主からミルクを受け取りカップへと注ぐ。カップの見栄えはお世辞にも良いとは言えなかったが、お茶の味は香りも味もソフィアの好みに合うものですぐさま表情を綻ばせた。店主も笑顔で応ずるものの、時折グリエルモを訝しむような視線で盗み見ているため表情にいささか無理が滲んでいる。
「おお、何という濃厚な味わいか! これを名づけようものなら、夜の淑女とでも呼ぼうか」
「お客さん、それはミルクポットです」
「ごめんなさい。この人、ちょっと世間知らずなもので。あんまり気にしないで下さい。ところで、さっきのは何なんですか? 話の流れからすると、あれが深追いしてはいけないって事の元凶に思えるんですが」
「ええ、お察しの通りで……」
 店主は気の無い微苦笑を浮かべながらその場へ屈み込み、散らばった椅子の破片を拾い始めた。木製とは言っても、大人の体重を易々と支えるぐらいの強度は十分ある。本当にこんなもので殴られたのか、店主には未だに信じ難かった。
「この村にはかつて、ゼントク様というそれはそれは素晴らしい魔道師がおりました。日照りの時は雨を呼んだり、流行り病の時は特別な薬を作ってくれたり、盗賊団に襲われた時は魔法で追い返してくれたり、村に危機が訪れた時は必ず救ってくれるお方でした。ですが、この方にはアクバルという孫が一人いるのですが、これがゼントク様には似ずにどうしようもないほど性根の腐った人間なのです。さっきの子供がそのアクバルです。今、村に税をかけているのはあいつなんですよ」
「ふうん。でも、そのゼントク様は何をしてるんですか? そんなに力のある魔道師だったら、バカ孫の始末くらいつけるでしょうに」
「それがですね、どうもアクバルの奴はゼントク様の隙を突いてどこかへ封印してしまったようなんです。その時のついでにゼントク様が長年かけて書き上げた魔道書を取り上げて、今ではそれを使ってやりたい放題です。アクバルは根性こそ腐っていますが、その血筋は紛れも無くゼントク様のもの。魔法の才能はゼントク様以上とまで噂されています。我々ではまるで歯が立ちません。早いところゼントク様を見つけ出してお救いしなければならないのですが、一体どこへ封印されてしまったのか皆目検討もつかない有様で……」
「なるほど、大変ですねえ」
 他人行儀な態度のソフィアは、わざとらしく音を立ててバナナ茶をすすった。この件とはこれ以上関わりたくないと言わんばかりの様子である。しかし店主はそれでも怯まなかった。初めこそ店主は二人を深入りさせぬように忠告したものの、いつの間にか店中の客から見えない期待感を背負わされたためだ。
「それで旅のお方、つかぬ事をお訊きしますが、もしかしてこちらの方は実は高名な武芸者でしょうか?」
「あー、この人? いや、別にそういうんじゃなくて」
 面倒臭そうに答えるソフィア。するとその時、グリエルモが急にソフィアと店主の会話に割って入った。手には既に空になったカップを持ったまま、反対の手には未だにミルクポットを持っている。どうやら味がどう異なるのか比べていたようである。
「小生、しがない旅芸人に過ぎませぬ。いやいや、本当にどこにでもいる有り触れた旅芸人でございます」
「いや、しかしですね。先程の出来事も見た限りでは、とても只者とは思えないのですが」
「ほう、やはりお分かりになりましたか。店主、あなたはお目が高い」
 唐突な態度の切り替えを見せたグリエルモはカップとポットを置くと、一つ咳払いをした後に皮袋からマンドリンを取り出して構えた。一体何が始まるのかと、店中の全ての客が身を乗り出すようにしてグリエルモに注目する。グリエルモはそんな彼らの視線を一身に浴びながら、さも得意げに胸を張る。だが、一人ソフィアだけは憂鬱そうに眉間へ皺を寄せて溜息をついた。
 グリエルモは椅子に座ったまま片足を組むと、一度店内をぐるりと見渡し客との距離を測った。そしてゆっくりとマンドリンの弦に指をかけ、スローテンポな前奏を始めた。
「『皆さんー、初めましてー。小生の名はグリエルモー、今はしがない旅芸人、しかし夢は大きく世界の舞台ーなのさー』」
 歌い始めるグリエルモに、誰しもが唖然としていた。グリエルモの歌は音程こそ整っているものの、歌詞があまりに語彙に乏しく音感と合っていなかった。にも関わらず、何の臆面も無く歌うばかりか、何故か歌う自分に酔いしれた表情を浮かべている。こうも聴衆を顧みない芸人も珍しいものだと、一同はただただ困惑するばかりだった。
「はいはい、そこまでよ」
 困惑が困窮に変わり始めた頃、ようやく傍らのソフィアがおもむろにグリエルモの頭をはたいて演奏を止めさせた。
「おお、私の悪戯な妖精。何故止めるのかね? まだ月は出ていないよ」
「営業じゃないんだから、タダで歌うのは駄目よ」
「小生、声は惜しまぬをモットーとしているのだが。君がそう言うのならば自重するとしようか」
 いささか寂しそうな表情を浮かべつつも、グリエルモは案外素直に演奏を止めるとマンドリンを皮袋へと仕舞い込んだ。一同はそれぞれ安堵の溜息をそっとつき肩を撫で下ろした。無言で配せる視線では、グリエルモに対する暗黙の意思疎通が交わされる。
「ところで、店主。今日はこの村に宿を取りたいのだが、どこか紹介してくれるかね。そうだな、あの空に輝く幾千の星々が一望出来る、それでいて朝は小鳥の囀りが優しく包み込むように起こしてくれる、そんな夢と希望に溢れた宿を」
 すると、すかさずソフィアが突っ込んだ。
「夢も希望も無い村なんだから、そんな宿は無いでしょ。あ、普通の宿でいいんでよろしくお願いします」