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 多数のざわめきと一部の怒号、そして一人の悲鳴。
 次の瞬間に起こるであろう出来事は、その場に居たほとんどの人間が同じ光景を想像した。しかし、実際に起こった事は全くの予想外の出来事だった。
「あっつ……!」
 グリエルモの背後からナイフで襲い掛かった男は、金属がぶつかり合うような音が響いた直後、裏返った声で小さく悲鳴を上げながらナイフを取り落とした。それは半ば弾き飛ばされたようにも見えた。予想外の感触に手首が痺れ、苦痛に顔を歪めながら反対の手で手首を押さえる。
 グリエルモを取り囲んでいた男達は不測の事態に驚きを隠せなかった。初めからナイフで襲うつもりではあったのだろうが、それが全く理解の出来ない形で失敗してしまったのだ。
「む、これこれ君、一体何をするのかね?」
 言葉は柔らかくとも、じろりと睨みつけるような鋭い視線で襲い掛かった男へ振り向くグリエルモ。荒事に慣れ切っているはずの男達は、華奢な優男であるはずのグリエルモに対して俄かに恐怖を覚え始めた。当のグリエルモは実際は何をされたのか良くは分かっておらず、ただ目前の男に対し持論を展開していた途中だというのに水を差された事で不機嫌になっている。
「お前……何か服の下に着込んでやがるな? そうだろ!?」
「下着を身に着けるのは身嗜みの一つと思うのだが。君達にはそういう習慣は無いのかね? それより、君も少々言葉遣いがよろしくない。音楽を嗜む者は品性が重要、そして品性の第一歩は言葉遣いだ。この様な場合なら、『貴殿は下着を召しておりますか?』となる。む、少々意味合いが異なってくるな。ならば……」
「ふ、ふざけんな! 何でまた……クソッ!」
 小首を傾げながら答えるグリエルモ。だがそれを小馬鹿にされていると思った男は、しかしそれでも普段のように殴りかかる勇気も無く、怒鳴った勢いは床へ落としたナイフの回収へと向けた。
 四人はポーズこそ強気にグリエルモを取り囲んで圧力をかけているものの、実際は詰め寄り切れず、むしろグリエルモの存在感に負けている感すらある。グリエルモには相手を威圧しようという意思は無いのだが、男達が今の出来事や昼間の件も踏まえて勝手に恐れおののき、ありもしない威圧感を感じてしまっているのだ。
「よう、あんたら。そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
 男達がグリエルモに手を拱いていたその時、不意に店主がカウンターから呼びかけて来た。取り込んでいる所に水を差され不機嫌そうに振り向いた男達だったが、その先には何時に無く殺気立った様子で立ちはだかる村人達の姿があった。これまではアクバルの威光により自分達に逆らう事のなかった村人達だったが、グリエルモと対峙した事により弱みを見せてしまったためか、これまで鬱屈させていた感情を反意として露にし始めたのだ。
「待ち給え。小生、彼らに未だ音楽の素晴らしさを伝えている最中なのである。まだ帰られるのは困るのだ」
「いや、そうじゃなくてさ……。ってか、アンタ本気で言ってる?」
「小生、常に本気である。嘘偽りは大嫌いだ」
 そう胸を張るグリエルモの、あまりの状況の不理解さに店主は半ば呆れた表情を浮かべた。
 一方、そんなグリエルモと対峙するアクバルの手下達は、他の村人とは違って荒事には慣れているため、本来ならばさほど慌てる状況ではなかった。しかし、グリエルモという異分子の存在は絶対に軽視出来ない。これまで軽々とあしらってきた旅人達とは本質的に異なるのだ。これはもしかすると、何かしらの専門訓練を受けた元軍人、もしくはどこかの諜報員なのかもしれない。
「チッ……退くぞ」
 そして、これ以上ここに留まり続けるのは危険だと判断したのか、リーダー格らしき男が月並みなセリフを残し酒場から出て行った。すぐさま男達を止めようとするグリエルモだったが、村人達が一斉に押し寄せてなだめながらそれを阻止する。済し崩しになってしまった状況に流されいまいち納得のいかない表情のグリエルモだったが、しかしすぐにそれも気にならなくなり忘れてしまった。
 酒場の空気が一変し、和やかな元の雰囲気に戻った。むしろ歓喜にすら湧いている。おそらくアクバルの支配が始まって以来の快挙を成し遂げたための歓喜だろう。
「よお、あんた! 一体どうしたんだ!?」
 村人の一人がグリエルモの肩を叩きながら驚きと嬉しさの入り混じった表情でそう訊ねた。
「ふむ、何事かね?」
「何事も何も、さっきのだよ! ほら、後ろからナイフで刺されたじゃないか! なのに平然としてるなんて考えられないよ!」
「ナイフ?」
 すぐさまグリエルモは上着を脱いで背中の生地を確かめ始めた。
「こ、これか!? ソフィー、大変だよ! 一張羅に穴が空いちゃったよ!」
 アクバルの手下達に囲まれても平然としていたグリエルモの突然の慌てぶりに、一同は唖然としながら首を傾げた。明らかに普通の人間とは感性が異なっていると思ったからだ。
「はいはい、後で綺麗に繕ってあげるから。そんなに慌てないの」
 そしてソフィアは、相方が殺されかけたばかりだというのに平然と構えている。多少昼間のような地が出ているのは退屈によるものなのだろうか。そもそも、先程の一連のやり取りにしてもソフィアは悲鳴一つあげてはいない。豪胆というよりも、こういった状況に慣れ切っているような印象がある。
「い、いや、そのさ……。あんた、ナイフでざっくりやられてたんだぜ? 俺はこの目ではっきりと見たんだ。みんなだってそうだろ?」
 村人達は一様に首を縦に振る。そんな中、一人苦い表情を浮かべたのはソフィアだった。
「ほら、きっと運が良かったのよ!」
 急に明るい声で奇妙な弁解をしながら駆け寄ったソフィアは、グリエルモから上着をひったくると無理やり袖を通させる。
「運がいいって、どういう運の良さだよ。ナイフが弾き飛ばされるなんて……」
「え、えーと……あ、ほら! これ!」
 ソフィアはグリエルモのポケットへ手を突っ込むと、何かを取り出して皆の前に示した。それは先程グリエルモがアクバルの手下の一人から空気も読まずに取り上げたナックルだった。
「これに偶然当たって助かったのよ! そうに違いないわ!」
「でもさ、ポケットに入ってたんなら位置的に合わないような……」
「んん? だったら何? 他に理由なんて無いじゃない。普通生身の人間が刺されたら血が出るに決まってるでしょ!?」
 ここぞとばかりに声を張るソフィア。何故このような畳み掛ける口調に変わっているのか一同は理解が出来なかったが、確かにナイフで刺されたら大怪我をするのも事実、そしてグリエルモは今も平然と立っている。だから多少不自然だとしても、ソフィアの主張する事が偶然に起こったと信じるしか無い。
「まあ、そうだろうなあ……うん」
「うんうん、そういうこと。あー私、喉渇いちゃったなあ。どなたか優しい男性はいらっしゃるかしら? ん?」
 ソフィアはわざとらしいしなを作って村人達にウィンクを送る。一同はどこかソフィアに騙されているような心境ではあったものの、別段自分達に不利に働く事でもないと判断し、あえてこれ以上の詮索は行わない事にする。
 皆の興味をかき混ぜてうやむやにしたソフィアは自然に収拾するのを待つため、さっさとカウンターに向かって店主からドリンクを奢ってもらう。すると、すぐさまその隣にグリエルモが駆け寄ってくると不満そうに呟いた。
「ねえ、我ながら言うのもなんだが、小生は非常に優しさに溢れた男だと思うのだが、何故こちらを振り向いてくれないのかね?」
 そう問いかけるグリエルモをソフィアは黙殺した。
 お前は優しくても気が利かないだろう、と。