BACK

 夜も更け、そろそろ日付も変わろうかという頃にグリエルモとソフィアは宿へ戻って来た。
 久しぶりの盛況で営業が終わったという事もあり、ソフィアはいつもよりも疲れきっていて喋るどころか口を開く事すら煩わしかった。食事もほとんど取っていないが、空腹を満たすよりも今は一刻も早く疲れを取りたい。そのため部屋に入るなり真っ先にしたのは、外套を脱ぎ捨ててベッドへ倒れこむ事だった。
「これこれ、ソフィアよ。そのような振る舞いはなりませぬぞ」
 一方のグリエルモは疲れた様子など微塵も見せず、わざとらしい畏まった口上で床に落ちた外套を拾ってかけ埃を払った。グリエルモのふざけた態度に苛立ちつつも、ソフィアは自分の背中を指差してみせた。
「はいはい、そこが痒いのかな。んんー」
 軽く爪を立ててうつ伏せになっているソフィアの背中を掻くグリエルモ。しかしソフィアはその手を叩き、再度背中を指差す。
「ああ、留め具の事かな? これはうっかり」
 ソフィアの衣装の背中部分を留めるファスナーを下ろす。そしてソフィアは、バスルームの方を指差した。風呂の準備をしろ、という事である。すぐさまグリエルモは準備のために部屋を出て行った。その間、ソフィアは衣装を脱ぎ捨て下着だけで毛布に包まりながら眠り始める。その横でグリエルモは何度も部屋と給湯場とを往復しながらバスルームにお湯を張った。
「はい、お風呂が準備出来たよ。さあ体も洗ってあげよう」
 ソフィアは半分寝ぼけた顔でむっくり起き上がるとグリエルモの額をぴしゃりと叩き、そのままバスルームへと消えた。
 グリエルモは腕組みをしながら難しい表情でしばし考え込んだ後、特に大した考えも浮かばなかったため服を着替えてベッドに寝転んで天井の染みを数え始めた。その数が四桁を越えた頃に数え飽き、おもむろにマンドリンを手に取りノートを開く。夜は騒がしくするなとソフィアに怒られた事もあり、実際には引かずコードを確認しながら頭の中でメロディを作りノートへ書き留めていく。作詞能力は今のところ無きに等しいものの、曲はそれなりのものを作れるため、一通り作ってから後に編曲しつつソフィアに歌詞をつけてもらうのだ。
 しばらくマンドリンを触っていたグリエルモは三小節ほど楽譜を書き留めると、諦めたように頭を振ってマンドリンを置き、唐突に眠りに入った。別段疲れている訳ではなかったが、今夜はいまいち良いメロディが浮かばなかったからである。もしかするとそれは、今日はたまたま営業が長引いて頭が疲れているせいなのかもしれない。
 目を閉じると数秒で眠ることの出来るグリエルモは瞬く間に眠りに落ちてしまった。
 頭が疲れている時は眠りが浅く、その日のグリエルモは夢を見た。グリエルモには、夢の中では何でも自分の思い通りに出来る、という変わった特技があった。普段夢を見た時は、決まって自分にとって都合の良い設定と舞台を作っては自分を慰めるのである。
 今日の夢の舞台は、先程営業を終えたばかりの酒場だった。グリエルモは酒場の中心でマンドリンを弾きながら歌を歌い、全ての観客の心を鷲掴みにしている。特に若い女性は最前列に並びグリエルモの声と歌詞に酔いしれ、その後ろの影でソフィアが心中穏やかならぬ表情で嫉妬心を露にしていた。
 グリエルモが夢の中で歌う時は常に大人気である設定だった。自分は世界に名を残す吟遊詩人になるという壮大な夢を持っているにも関わらず、その視点が未だ低いままのせいか驚くほどの矮小な内容である。しかし、普段から自分の歌で黄色い声援を受けるような事の無いグリエルモにとっては、たとえ片田舎の小さな酒場限定での人気でも十分満足がいくのである。
 と、その時だった。いよいよ前半戦の最後の曲に取り掛かろうとした時、突然グリエルモの前に一人の老人が進み出て進行を中断させてしまった。
 こんな人物をこの夢に登場させた覚えは無いのだが、何か手違いでもあっただろうか? そう不思議に思ったグリエルモは老人を指差し、消えろ、と命令する。だが、
『老人に消えろとは随分な言い草じゃな』
 そう老人は苦笑するばかりで消える事は無かった。
 思い通りにならない事に驚いたグリエルモはもう一度同じ事を試みる。しかし老人は決して消えない。首を傾げるグリエルモの前で、老人はぽんと手を打ち鳴らした。するとグリエルモを取り囲んでいた観客が一斉に消え失せてしまった。もちろん、グリエルモはそんな命令はしていない。明らかにこの老人が消してしまったとしか思えないのだ。
『ちょっと付き合ってもらうぞ、若いの。大事な頼みがあるのじゃ』
 自分が作った人物に頼まれても仕方が無いだろうとグリエルモは怪訝な表情を浮かべたものの、どうにもこの老人は自分が作ったものではないように思え始めた。あまりにこちらの意思を逸脱し始めている。手段や目的までは分からないものの、外部から夢の中へ入り込んで来た侵略者かもしれない。
 ただのモブにしては、我ながら趣味が悪いだけでなくやたら存在感がある。グリエルモはひとまず老人の頭を触ってみた。禿げ上がった毛一つ無い頭には特別変わった様子は無く、どこにでもある普通の禿頭である。その下にある眉毛は多少長過ぎる気もしたが、辛うじて有り得ない範囲ではない。そして堂々とした口髭は顎鬚と繋がっているだけでなく、どうやら鼻毛とも繋がっているように見えた。それが何ともおかしかったグリエルモは俄かにこらえ切れなくなり、一度吹き出したのを合図にげらげらと笑い始めた。
『心配するな。何も取って食ったりはせん。というかお前さんは初対面の人間に対して随分とふざけた態度を取るな』
 グリエルモの奔放な振る舞いに、さすがの老人も険しい表情に変わってきた。だがグリエルモはあくまで自分の夢の中の事だからと、さらに馴れ馴れしく老人の頭をぺちぺち叩く。普段ソフィアに額を叩かれると小気味良い音がするのだが、この老人は余計なものが無いせいか比べ物にならないほどの見事な音を出す。それが楽しくて叩いていたのだが、やがてハッと閃き、新しいリズムを奏で始めた。
『ええい、貴様! 人の頭で作曲をするな!』