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 アクバルの屋敷に住む荒くれ男達が出遅れたのは、決して今が朝早い時間帯であるからだけではない。これまでアクバルの屋敷に村人が詰め寄ってきた事はあったが、たった一人で乗り込んできてはあっさりと正門を潜られた事は初めての事だったからである。そんな油断から招いた事だった。
「おい、貴様! 止まれ!」
「くそっ、正門のヤツラは何をやっているんだ!」
 慌てた様子で屋敷から飛び出してきた数名の男達。いずれも屈強な体と粗野な容貌をしてはいたが、予想外の出来事にいささか浮き足立っている様子だった。
 彼らが対峙するのは、既に中庭の中程まて踏み込んできた銀髪の青年。その青年は何故か上半身に服を着ておらず、柳のように華奢な色白の体を露にしていた。俯き加減の顔でなにやらぶつぶつと呟いている。だがその足は真っ直ぐ屋敷の玄関へ向かっていた。見た目にも決して強そうには見えず、むしろ違った意味での危険ささえ窺える様相なのだが、青年があまりに堂々と近づいて来るせいか男達は動くに動けなかった。
 やがて青年は、群がって道を阻む男達に今更気付いたかのような遅い反応で足を止め、ゆっくりと確かめるように顔を上げる。その異様な姿に男達は戦慄し、誰と無く一歩後退った。
「お、おい、貴様! ここを誰の屋敷だと思っている! アクバル様の屋敷だぞ! 無断で踏み入るとはどういう了見だ!」
 言い知れぬ恐ろしさに背筋には冷たい汗をかきながらも、男達の一人がそう勇ましく声高に叫んだ。だが、
「……よう……宴を。諸共に」
 青年はどこを見ているのかも分からない遠い眼差しで、所々が消え入ってしまって聞き取りにくい小声で何かを呟くだけだった。
「おい、お前。一体何を言ってるんだ?」
「さあ……おう……らが……歌」
 幾ら問い質そうとも青年はぼんやりと何事かを呟くばかりで一向に会話が成立しない。これはいよいよおかしい奴が入り込んで来たのか。そう男達が緊張感もどこかに肩をすくめたその時だった。
「あ、こいつは!」
 ふと、一人の男が急に裏返りそうな声を上げた。
「何だよ急に。どうした?」
「俺、こいつ知ってるぞ。昨日、酒場に居た旅芸人の片割れだ。確かグリエルモって名前の」
「ああ、って事は昨夜連れてきた女は相方か」
「女の方が歌い手で、あれが弾き手だろ。あいつも歌うらしいんだが、最高に笑えるとかなんとか」
 交わされた、そんな何気ない会話。しかしその言葉に青年は異様な反応を見せた。
「貴様らだな……やっぱりかーっ!」
 突然、両腕を広げ空を仰ぐと、口を割けそうなほど開いて獣のような声を発したのである。そして大きく見開いた目でじろりと男達を睨みつけた。
 再び男達が戦慄した。睨みつけてきた青年の目は、瞳が細長く変形したまるで爬虫類のような目だったからである。
「ふはははは! 小生、殺生はおろか暴力は一切封じた身だが、外道相手には躊躇わぬ! 我が誇り高き竜族の咆哮を弔砲とし、迷わず地獄へ落ちるがいい!」
 そして異様な興奮を見せた青年は、そのまま男達へ向かってのしのしと進んでいった。
「く、くそ! 何が何だかさっぱり分からねえが、やっちまえ! どうせ向こうは貧弱なの一人だ!」
 客観的に見た戦力差は正しくその通り、半裸の華奢な青年が興奮した程度で屈強な男達数名にかなうはずがない。子供でも分かるその理屈を再確認し、及び腰だった男達は気を取り直し近づいて来る青年へ向かっていった。
「おらっ、死ね!」
 真っ先に殴りかかったのは、男達の中でも一際筋肉の盛り上がった腕に幾つもの女性の名の刺青にバツ印上書いた大男だった。男は岩のように大きな拳で、まず初めにグリエルモの顔面を殴り鼻を折りにかかった。しかし青年は、その庭石さえ砕きそうな拳を避けるどころか瞬き一つせずに真っ向から受けた。
「あっ……うえ?」
 この場に居た誰の耳にもはっきりとその音は聞こえた。それはまるで、冬の山道で偶然枯れ枝を踏んだ時の音にそっくりだった。
 男はおそるおそる自らの拳を見、息を飲んだ。猪すら殴り倒した事のある自慢の拳、その人差し指と中指の先が揃って明後日の方向を向いていたからである。
 そして、
『さあ、みんな輪になって始めよう。楽しい楽しい宴だよ。今夜は朝までお祭りだー』
 唖然とする男の顔を、青年は歌いながら鷲掴みにした。
 マンドリンぐらいしか持ち上げられなさそうな青年の細指、それで一体何が出来るというのか。そう思うのも束の間、男の頬や耳の当たりにありえないものが触れた。鋭く尖り流線型を描いている、何か堅いものが幾つか皮膚に食い込んでいるのである。
 そうだ、これは子供の頃に近所の野良猫を抱き上げたら思い切り引っ掻かれてしまって―――。
『今夜の獲物はなんだろう? 肉を食い千切って骨を噛み砕き、生き血は全て啜ってしまえ』
 次の瞬間、男は生まれて初めて経験する高さの空に居た。
「な、なんだ!?」
「怯むな、やれ! やっちまえ!」
 きっと今のは何かの見間違いに違いない。男達は短絡的に目の前で起こった出来事を否定し、更に青年へと襲い掛かった。
『あの火は篝火かい? おやおやまるで蝋燭じゃないか。よしそうだ、村で嫌われ者のビクトルの家に火を放て』
 青年も歌も前進も止めず真っ向から迎え撃った。
 その姿は最初に見せた爬虫類の目よりも更に人間離れが進んでいた。青年の華奢な腕は肘の先から白銀の鱗と鍵爪の生えた手に変わっている。
『さあ、みんなで歌って踊ろう。楽しい楽しい宴だよ。夜が明けたら敵対部族、宿敵相手に攻め込むぞー』
 青年は驚くべき腕力と鋼のような打たれ強さで、襲い掛かる屈強な男達を羽虫を払うように次々と投げ捨てていった。どれだけ屈強な男が立ちはだかろうと、青年の圧倒的な力の前には次々と屈していく。そのあまりに非現実的な光景に、たちまち男達は戦意を失っていた。
「いたぞ、あそこだ!」
「てめえ、一人で来るとはいい度胸だな!」
 やがて表の騒ぎに気付いたのか、屋敷の中から物騒な男達が次々と現れた。その数はざっと数えても二十近くはいる。だが青年は微動だにせず、むしろその爬虫類の目で男達を真っ向から睨みつけた。
『日頃から小煩いダグホ族め、またしても蝿のように集りに来たか! それ子供達、蝿を見つけたら潰してしまえ!』
 すると青年は、おもむろに視線を初めて横へとそらした。その先には一本の大木がそびえていた。この庭に初めから植えられていた観賞樹らしく、目立った実も花も無い。そんな大木の傍に駆け寄り屈み込んだ青年は、右手を幹の根元に、左手を幹のうろにかけた。そして、
『親蝿が出てきたら大人の出番だ、虫は巣から燃やして根絶するのが長老の教えだよ』
 青年はゆっくりと腰に力を込めながら立ち上がった。青年が手をかけるその大木は、みしみしと音を立てながら地面から引きはがされ、土の中へ埋まっていた根を晒した。この見上げるような高さの大木を、あろうことかたった一人で素手で引っこ抜き、まるで物干し竿のように軽々と担ぎ上げてしまったのである。
『さあ、みんなで楽しく暴れよう! 一番槍は村長だー!』
 あまりに現実離れした出来事を前にどよめく一同。それを尻目に青年は、かっと見開いた爬虫類の目で目測を定めた。その先は、硬く閉じられた屋敷の玄関である。