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 そういえば子供の頃、おやつの時間になると母親がクッキーを焼いてくれたっけ。
 目の前の玄関の扉が周囲の壁ごと吹き飛ばされる光景を目の当たりにし、誰かがそんな事を思い浮かべ現実へ疑問符を浮かべた。一体どこでどう道を誤ったのかは分からないが、とにかく今は逃げることが最優先事項である。するべきことは、踵を返しての全力後退。
 外から内側にぬるりと滑るように食い込んで来たのは、大人の腕ほどもある巨大な鉤爪だった。辛うじて残っていた数人も信じ難いそれに度肝を抜かれ、蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ出した。
「う、うわー! 化け物だー!」
 扉を引き剥がし玄関の枠を潜って来たのは、全身がびっしりと銀色の鱗で覆われた二足で歩く竜だった。背丈は大人の倍にやや足りない程度、だがリザードマンのような蜥蜴男とは比べものにならない威圧感を持っている。とても常人の神経では相対出来るような相手ではない。
 現れた二足歩行の怪物を前にし、尚も戦意を保っている者は皆無だった。普段歩く道は絶対に譲らないなどと幼稚な信条を掲げている者すら、あっさりと手のひらを返したように我先にと背を向ける。
 怪物は爬虫類を思わす細長の瞳を真っ赤な眼球に浮かべた目で、逃げ惑う者達を道端の石のように見下ろしている。大きく裂けた口からは巨大な鋭い牙を覗かせ、建物のそこかしこを窮屈そうに押し退ける前足には磨き抜かれた刃物のような長い爪。こんな子供の絵本か与太話をまとめた本ぐらいにしか見た事の無い怪物と対峙した瞬間、誰しもが全く同じ事を感じていた。これはもはや腕力云々ではなく、生物的に勝てる事など不可能な存在であるという事を。
『アイタクテアイタクテ、タチハダカルモノハミナゴロシ』
 銀色の竜は辛うじて人間にも理解出来る言葉を口ずさむと、一度辺りを見回すなり目に付く壁や柱を片っ端から殴り壊し始めた。屋敷には材木だけではなく石材や金属も使われているのだが、そのどれもが桁外れの腕力で菓子ように粉々に打ち砕かれていく。
 銀竜の呟く独白は、どこか人間の歌のようにも聞こえた。目的は理解出来ないにしても、ただ建物を矢鱈滅多らに破壊するだけで人々には脅威であり、誰も銀竜の行動を具に分析するような余裕は無かった。
「な、なんだこの騒ぎは!?」
 エントランスが天井を残して破壊し尽くされただのホールと化した頃、騒ぎを聞きつけたアクバルが苛立ちながら現れた。しかし目の前で繰り広げられる信じ難い惨状を見るや否や、苛立ちもどこかに忘れ思わず唖然とし目と口を大きく開いた。屋敷へ外部からの襲撃を許し、これほど破壊されながら手下も逃げ出してしまった事だけでも信じられなかったが、それ以上に信じられないのが この当事者がどこからどう見ても竜にしか見えない銀色の怪物という事である。それも、到底聞くに耐えない歌までも口ずさんでいるのだ。
「馬鹿な……竜だと? 一体なんでこんな所に。くそっ、耳障りな歌なんか歌いやがって」
 かつて此処には村人から徴収した税金で作った華やかなエントランスホールがあったはずなのだが、今は既にその面影など無く辛うじて名残を残した瓦礫が山積するだけである。あまつさえ、存在そのものが極めてグレーゾーンにある伝説の化物がそこをうろついているのだ。他の手下達とは違ってたちまち尻尾を巻いて逃げ出さない分、まだアクバルは子供ながら冷静な反応と言えた。
 しかし、思わず漏らしてしまったアクバルの声を聞きつけたのか、不意に銀竜はアクバルの方を振り返りじろりと睨みつけた。如何なる肉食動物をも凌駕する気迫に満ちた竜の目は、見る間にアクバルの全身を見えない力で縛りつけ呼吸の自由すらも奪った。アクバルは震える事すら出来ず金縛りにあった自分を認識する。
『リュウゾクフクシュウワスレナイ』
 不穏な言葉を小気味良い調子で放つや否や、銀竜は右前足をおもむろに振り上げた。それが明らかな攻撃行動と把握するや否や、アクバルは本能的に避けようと硬直した体を後ろへ跳び退かせる。
「うわっ!?」
 尻餅をつく格好で着地したアクバルのすぐ目の前に銀竜の前足が打ち付けられ、まるで火薬に火を点けたかのように床が爆ぜた。アクバルの手下には屈強な大男が何人もいたが、彼らが巨大なハンマーを用い同じ事を試みても到底及ばないだろう。
『オマエ、ヤツザキニシテカラオシャレニカザル』
 尻餅をついたままようやく震えの訪れたアクバルに詰め寄る銀竜の顔。背丈は軽く見上げる程度しかないと思っていたが、間近で見れば軽く一飲みにされてもおかしくはないような巨大な口を持っている。それにあの牙、人間の肉など軽がると骨ごと噛み砕いてしまいそうな鋭さである。
 未だ恐怖に支配されているアクバルだったが、生命の危機からなけなしの勇気を振る絞り反撃に打って出た。
 尻餅をつきながらもアクバルは呪印を組むと一心不乱に呪文を唱え始めた。その様を銀竜は小首を傾げているかのような様子で興味深そうに見つめている。自分が何をしようとしているのか悟られていないと知るや否や、たちまちアクバルの滑舌が平素に戻る。
「馬鹿め、これでも食らえ! 『炎の魔弾』!」
 アクバルは右手の手のひらを銀竜の顔面へ向けると、それを左手で支えながら一気に練り上げた魔力を込めた。手のひらから飛び出したのは、アクバルの体格と同じぐらいの巨大な炎だった。炎が弾丸の形状を取ると、さながら大砲の勢いで空を駆け銀竜の顔面を直撃する。ほんのすぐ目の前で起こった爆風にアクバルは自らの顔を庇うものの、その下の顔には手応えを感じた確信の表情があった。手順を省いた即席の魔法とは言え、生身の人間ならばあちこちが吹き飛び襤褸のようになる威力がある。たとえ竜だろうとまともに受ければただでは済むはずがないのだ。
 だが、舞い上がった粉塵が落ち着き視界が戻る頃、アクバルの目の前にあったのは先程と何ら代わりの無い銀竜の顔があった。
『ヤケドヲスルノハ、コイノホノオニコガレタトキダケ』