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「ちょ……嘘だろ?」
 魔法を放った時、確かな手応えを感じたはずだとアクバルは思っていた。にも関わらず平然としている銀竜を前に、俄かに驚きと困惑を覚えずにはいられなかった。むしろある種の恐怖さえも感じる。
「な、な、なんで平気なんだ!?」
『ケシテトドカヌソノオモイ、ソレデモクリカエスノハ、オマエガタダノサルダカラ』
 このままでは本当に殺される。
 アクバルはすっかり腰が抜けて立てなくなっていたものの、何とか死に物狂いで床を這い回りその場から逃げ出そうとする。だがすぐさま銀竜はその後を追いかけて来た。
「着いて来るな!」
『キミノセヲオイカケルノハ、ボクノコトニキヅイテホシイカラ』
 幾ら叫ぼうと銀竜は歌を口ずさむばかりで、まるで会話にならない。人間の言葉は理解しているよいだが、そもそも意志の疎通が出来なければ理解していないのと同じである。
 必死の形相で逃げるアクバルはどうにか銀竜と距離を置こうと、すっかり風通しの良くなった玄関から屋敷の外へと飛び出した。少なくとも中途半端な魔法では銀竜には全く通用しそうにない。一度時間を稼ぎ、長い呪文を必要とする強力な魔法を行使しなければ勝つことは難しいだろう。
 そうしている内に、屋敷からは豪快な破壊音を立てて銀竜が追いかけてきた。律儀に玄関を通ったアクバルとは違い、最短距離で壁をぶち抜いて来たのである。アクバルも追いつかれまいと必死で中庭を駆けるが、元々面倒ごとは全て部下にやらせていたせいか日頃の運動不足がたたり、息がすぐに切れ顎が上がり始めた。
『フタリキリデノヒミツノサンポ、キミハコドモノニクガダイスキダッタネ』
 銀竜は背に生えた翼を大きく広げ、より一層歌に熱を込めながらアクバルの後を追いかけていく。アクバルの前には太陽を背負った銀竜の影が投影され、その影すらも自らを追いかけ飲み込もうとしているようにすら思えた。これほど大きな影に追いかけられるなど生まれて初めての事で、緊張と酷使から極度の負担が心臓にかかり、今にも倒れてしまいそうになる。だがこのまま死んでなるものかとその一念でアクバルは、走りながらも果敢に魔法を行使した。
「ハッ……ハッ……う、『唸れ、疾風の矢』!」
 アクバルの手から放たれた風の衝撃は銀竜目掛けてではなく、すぐ後ろの地面を打ち抜いた。だが、それにより発生した風圧でアクバルの背が強力に押し飛ばされる。アクバルは魔法の衝撃を利用して一気に距離を取りにかかったのである。
 これまでの走りよりも何十倍もある速さで飛んだアクバルは、大きく深呼吸を一度する間ほど大跳躍しバランスを崩しながらも両足で着地する。振り返ると銀竜の姿は遥か向こうへ遠ざかっていた。こちらへ向かってくる勢いは最初よりも加速しているが、これで十分に呪文を唱える時間は稼げた。
『地の底に眠りし炎の魔人よ、我が盟約に従いその力を此処へ分け与えよ。我は汝が契約者、風を司る者なり』
 息を切らせながらもアクバルは必死で精神を集中させ呪文を唱え始める。目前にかざされたアクバルの両腕は詠唱が進むと共に、次第に赤くぼんやりと柔らかな魔力の光を放ち始めた。そしてその光はある程度まで膨れ上がると、意思を持ったかのように宙へ飛び出し複雑難解な幾何学模様を描き始める。
『出よ、炎の魔人! イグ―――』
 しかし、その時だった。
「あ! いたぞ、アクバルの奴だ!」
 突然アクバルの背後の方角からそんな声が聞こえて来た。
「ああっ? あ……ちょっ……え!?」
 驚きながら振り返ったアクバルは、その光景を目の当たりにしてしばし人間の言葉を忘れ唸り声を上げて驚いた。
「このクソガキめ! よくも今まで好き勝手やってくれたな!」
「さあ観念しろ! 積年の恨み、利子つけて返してやる!」
 そこには塀を乗り越えて庭内に入り込んだ、数え切れないほどの村人が大挙し雪崩のように押し寄せていた。手には思い思い武器を持ち、その形相は恨み募る相手を見つけたからか激しい怒りに満ちている。今まで村人はアクバルに対して露骨に逆らう事は無かったのだが、どうやら屋敷から手下達が一斉に逃げ出した様子を見るなり反撃の好機と押し寄せてきたようであった。
「ば、馬鹿! この忙しい時に!」
 思わず狼狽するアクバル、しかし呪文と集中を途切れさせてしまった事で折角練っていた魔法があっという間に消えてしまった。
「うるせー! お前だけは絶対に許さんからな!」
 集団から頭一つ飛び出して真っ先に襲い掛かろうとしたのは、何故かバリカンを構えた壮年の男だった。
「このアホ共め! お前らのせいで魔法がやり直しになったじゃないか!」
「願っても無い話だな! 今がチャンスだ、この小童を袋叩きにしてくれる!」
「そうじゃない! あの化物が見えないのかお前らは!」
 アクバルは血気盛んに猛る村人に対し、自らが向かっていた方を指差し示した。するとそこにはあの銀竜が目と鼻の先まで迫っていて、指し示したアクバルの方が逆に驚き目をぎょっと見開いた。
「う、うわ! なんだこの化物は!」
「何だか良く分からないが、とにかくみんな逃げろ!」
 突然アクバルへの怒りを翻し、村人達は一斉に方向転換して逃げ始めた。アクバルも魔法がやり直しになってしまったため立ち向かう事も出来ず、村人達を追うようにして逃げ出す。その後を銀竜がぴったりとくっついて追いかけて来た。
「へっ、いい気味だな! あの化物はきっとお前に罰が当たったんだ!」
「この愚民共め! 追いかけられてるのはお前らも一緒だろうが!」
「だったらついてくるんじゃねえクソガキ!」
「嫌だね! どうせならお前らまで巻き添えにしてやる!」
 一心不乱に逃げ続けるアクバルと村人達、それを追い駆ける銀竜。屋敷の周りを何週も回り続けたが、一向にこの構図は変わる事は無かった。
「くそ、このままじゃ体力がもたない! こうなったら……!」
 するとその時、村人の一人がおもむろにアクバルの服の袖を掴んだ。すかさず別のもう一人がアクバルに足をかける。元々足も上がらなくなっていたアクバルは、それであっさりと芝生の上に転倒してしまった。
「今だ! この隙に逃げるぞ!」
「こ、この……! 大人のくせに!」
「これで今までの分はチャラにしてやるよ! じゃあな!」
 すぐさま立ち上がろうとするアクバル。しかし既に銀竜はアクバルの背後に立っていた。