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「う、うわああああっ!」
 恐怖のあまり、涙声で絶叫するアクバル。そのすぐ目の前では、さも機嫌良さそうに大口を開ける銀竜が迫り来ている。
『ウタゲダウタゲダウレシイナ、シタタルチニクニムネオドル』
 アクバルは頭の中が恐怖によって凍り付き、もはや体が自らの思う通りに動かすことすら出来なくなっていた。鼻先にまで突きつけられた、明確な死。それと真っ向から戦うには、アクバルはあまりに幼すぎる。
『ホネマデノコサズタベテヤロウ』
 そう銀竜が大きく開けた口をアクバルへ目掛け振り下ろした、まさにその時だった。
「それ、待った!」
 丁度芝生の上にへたり込んでいるアクバルの背中側から、不意にソフィアの勇ましい声が飛んできた。ソフィアは威勢の良い掛け声と共に振り被ると、高々と上げた足を下ろすと同時に手にした薄汚い壷を銀竜めがけて投げつけた。
『オウッ!?』
 綺麗なフォームから繰り出された壷は大口を開けた銀竜の額に見事に命中すると、そのまま粉々に砕け散った。不意を突かれた銀竜は驚きに珍妙な声を上げて額を押さえる。
「え……あ?」
 突然の出来事に驚きまごつくアクバル。すると、
「ちょっとごめんね」
 背後から駆け寄ってきたソフィアは、遠慮無しにへたり込んだままのアクバルを踏み台にし跳ぶ。そのままソフィアは額を押さえてまごつく銀竜へ跳び付くと、首に両手を回してぶら下がるように抱きつく。
「はいはい、どーうどう。落ち着いて」
 ソフィアは銀竜の喉を撫ぜながら、まるで馬にするかのように言い聞かせる。すると銀竜はこれまで韻を踏むように繰り返していた口ずさみを止め、ソフィアの方へ視線を向ける。首元へ抱き付いているのがソフィアと分かった途端、銀竜はハッと我に帰ったかのように大きな目を見開いた。
「よしよし、いい子いい子」
 落ち着きを取り戻した事で安心したソフィアは、安堵の溜息をつきながら銀竜の頭を撫で、未だ牙の覗く口へそっと唇を寄せる。銀竜は心地良さそうに目を細め自分も頬を擦り寄せようとするが、堅い鱗はソフィアの皮膚を削ってしまうため、そっとくっつけるだけに留める。
 それからはまさにあっという間の出来事だった。突然銀竜の輪郭が風船のように萎んだかと思えば、大きく広げた二枚の翼や頭から生えた鋭い二本の角、全身を覆う銀色の鱗までがどこへともなく消え去り、最後に残ったのは線の細い色白の青年の姿だった。それも破れたズボンだけという珍妙な姿で、冷静さを取り戻し幾分かバツの悪さを感じたのか埃を被った銀髪を掻いている。青年はまぎれもなく、宿屋から忽然と姿を消したグリエルモだった。
「ちょっと、グリ。憲兵に見つかったら旅も出来なくなるっていつも言ってるでしょ。まったく、頭に血が昇るとすぐに暴れるんだから」
 そして、これまでとは一変したきつい口調でグリエルモの頭を握り拳でリズミカルに叩くソフィア。グリエルモはさも悲しげに眉をひそめた。
「うむ、しかしだねソフィー。君がさらわれたとあっては、小生いてもたってもいられないのだよ。僕はー、君なしでは生きていけないー、君はー、僕の太陽ー、そして僕はー、君を見上げる慎ましい花ー」
「お、珍しくいい詩が出来たね。やっぱり正体の方が脳が活性化するのかしら? まあそれはさておき、あのカバン持ってきて。私の荷物だから」
「構わんさー、僕は君の愛の飼い犬ー」
 そうグリエルモに言いつけ持ってこさせたのは、ソフィアが屋敷の金品を詰め込んだあのカバンだった。ソフィアでは思わずよろめくような重さだったが、グリエルモは難なく持ち上げ背負った。
「ところで、今までこのようなカバンは持っていたかな?」
「女は日々変わるものよ。持ち物だって同じ。そんなことより、後はこいつね」
 ソフィアは、芝生の上にへたり込みながら唖然とした表情で今のやりとりを見ていたアクバルへ視線を移す。突然の注目に我に帰ったアクバルはすぐさま立ち上がろうとするものの、腰が抜けてしまっているせいか膝に力が入らず立ち上がる事が出来ない。
「き、貴様ら、一体僕をどうするつもりだ!?」
「やーねー、別に何もしないわよ。どうせすぐに村から出るし」
「いや、ソフィ。その前にーこの悪の芽をー摘み取るー」
「摘み取っちゃ駄目でしょ。修正ぐらいにしておきなさい」
「竜族の拳は一爪当千、その一撃は大地を割くー」
「だって。あんた、心を入れ替えないと三枚に下ろされちゃうわよ?」
「くっ……ふざけるな! まだ僕にはとっておきの魔法が―――」
 その時だった。
「いい加減にせい」
 突然、アクバルの背後に一人の老人が現れる。老人はそう静かに一喝するなり、白く輝く手のひらでアクバルの頭を一発叩いた。
「なっ、クソジジイ! てめえ、どうやって出てきた!?」
「相変わらず口の利き方がなっておらんな。まったく、我が孫ながら情けない」
「うるせー! こんな事もあろうかとな、こっちはとっておきの魔法を研究してたんだよ! 大消滅魔法だ、この辺一帯をてめえの頭みたくしてやるよ! 『深遠なる……深遠なる……空虚なる……?』」
 振り向いた先で遭遇する予想外の顔に、思わずそう血気盛んに叫んだアクバル。しかしその勢いとは裏腹に、いつまでたってもその続きの呪文が出てこない。
「ほっほっほ、どうしたバカ孫? その歳でもう物忘れか?」
「う、うるせー痴呆ジジイ! 待ってろ、えーっと、ああ、んーと、『荒神来たりて、空青し……』いや、違う……」
「無駄じゃよ。お前の魔法に関する記憶は、ついさっき全部封印したでな。もはや火の妖精も呼べんよ」
「な、なんてことしやがる! さっさと元に戻せ、このくたばり損ない!」
「まだ自分の立場が分かっておらんようじゃな。少し頭を冷やして来るといい」
 すると老人は手の平をアクバルへ向けてかざし、何やら呪文を唱え始めた。手のひらがぼんやりと白い光を放ち始める。やがてその光は意志を持ったかのようにアクバルへ近づき周囲ごと体を包み込んだ。
「『光の羽よ、彼の者を契約の土地へ誘え!』」
 そして次の瞬間、突如眩しい光が周囲を包み込んだかと思うなり、アクバルの姿が忽然と消え失せてしまった。
「え、まさか殺しちゃったの? 粉々かしら」
「そこまでせんわい。ただ、村人の所に送っただけじゃよ。後は村人がこってりと絞ってくれるじゃろうて。因果応報を噛み締めると良かろう。それよりもお主、まさか竜族だったとはのう。実際にお目にかかるのは初めてじゃ。しかし竜族は誇り高いものと聞いておったが、流行歌に興ずるとは何とも珍妙よのう」
「もしかしておじいさん、もしかして壷の中にいた?」
「いかにも。わしがゼントク、あのバカ孫の祖父じゃ。少々予定が狂ったが、何とか無事に外へ出られた。これで村も再建出来よう。お二方の御協力、心から感謝する」
「ふむ、夢の中に出てきた御老人か。相変わらず頭部が寂しいのう。なぜ、発毛の魔法を作らないのかね?」
「お主はもうはいいわい……」